第一章  出会いはメープルシロップがけのホットケーキから ―ゲーム開始―


 正孝はしみじみと娘を見やり、優しい声で聞いた。

「どうだ、美鈴。そのホットケーキは不味いかね?」

 その聞き方は本当にずるいと美鈴は思う。

「……………不味く、ない」

 口をへの字に曲げて美鈴はそれだけを答えた。

 そして最後の一切れまできれいに口に収めると、鼻をすすりながら父を問い詰めた。

「いったい、どういうことです? 彼はどうやってこのホットケーキを?」

 錯覚してしまうくらい―まだ母は生きていて、キッチンで彼女が焼いたそれを彼がただ運んできたのではないかと疑ってしまうぐらい―出されたホットケーキはかつてと同じ味だった。

 いったいどうやって彼はこれを作り上げたのか。種明かしをしてくれるものと思っていたが、どうもそう甘い話ではなかったらしい。

「それは企業秘密、というヤツでな。それこそ和光の主にでもならなければ教えられん」

 したり顔でそう言う父に、美鈴は(やられた)と思った。

 そう、まさにこれが父の狙いなのだと。

(あのホットケーキを私が無視できないのを分かっていて!)

 そしてそれはどちらに転んでもあの青年を傍に置くことになる。

 父に教えを乞えば彼の主になることを意味するし、自分でその謎を解き明かす為には彼を観察する必要があるのだから。

 だが美鈴はこの後に及んでそれを認めることを躊躇った。

 彼の印象はそもそも悪いし、得体の知れないものを傍に置く不安もある。

なにより、美鈴は負けず嫌いだった。

 ここであの全自動人形オートマチックドールを傍に置く決断をすることは、父の思惑にのるということだ。

 美鈴は口を曲げたまま父を睨んだ。そんな彼女の前に、すっとカップが差し出された。

(え?)

 びっくりした美鈴に―いつの間にもどってきていたのかまったく気付かなかったが―ソファーの脇に控えた彼がひっそりと言った。

「申し訳ございません、お嬢様。お飲み物を用意しておりませんでした。よろしければ、どうぞこれを」

 そしてまた頭をたれる。

 視線を全自動人形オートマチックドールからカップにもどし、しばし迷ったが美鈴はそっとそれを持ち上げた。

 カップのなかみは程好く温めたホットミルク。ほのかにバニラが香るそれは、甘くはなく、むしろあっさりとした味で、ホットケーキを食べた舌には優しかった。

 その温かさが、意固地な美鈴の心をほんのちょっとだけ緩ませた。

「…………分かりました。彼を私のパティシエ兼ボディガードとして傍に置きましょう」

 しかし条件を付け加えることは忘れずに。

「ただし、私が傍にいる資格がないと判断した場合には、父様、彼をお引き取りください」

「うむ、良いだろう。だが『資格がない』とはどのような事態を指すのだ?」

「第一に、護衛能力がなかった場合。私が判断してはフェアではないでしょうから、警備員の方々に判断してもらいます。

 第二に、パティシエとして信頼できるかどうか。これも私でなく料理長の榎本さんと女中頭の春江さんに任せましょう。

 そして第三に、規則が守れるかどうか。常識的なことはもちろん、私を護衛する為に必要なルールは厳守してもらうわ。それから外れた行為をした場合は、資格なしと判断します」

 挑むように美鈴は言い放つ。

「む、そうか。その規則厳守のなかに『守秘義務を守れるか』も含まれている、というわけか」

 眉間にしわを寄せた正孝が呟き、あっさり自分の魂胆が見抜かれてしまった美鈴は内心歯噛みした。

 さきほど父が言っていた『企業秘密』を逆手にとり、彼のそれを暴くことで守秘義務が守れなかった、つまり第三の理由で資格なしにしようとしていたのである。

 だがそれを見抜かれたとはいえ、父はすでに条件を飲んでいる。ここにきてやはり駄目だとは言わせない。

 正孝は娘の瞳が力強く輝くのを見ると、ニヤリと笑った。

「うむ、うむ、うむ! 良いだろう! これは私とお前とのゲームというわけだ。

 ではその条件から外れた場合、和光は私のところにもどそうじゃないか!」

 そして念を押すように美鈴の脇に控えている青年に言った。

「和光、分かったな?」

 聞かれた彼ははっきり「かしこまりました、旦那様」と頷き、美鈴に向かって腰を折る。

「では、美鈴お嬢様。本日よりこの国枝和光が、貴方様の専属パティシエ兼ボディガードとなります。どうぞ、よろしくお願い致します」

 ごく真面目にその妙な役職名を口にする姿はどう考えたって冗談としか思えない。

 だが少なくとも彼と、そして父は本気だ。ならばこちらも本気になるしかない。

 美鈴はいつものように微笑んだ。

 けして心を許さず、どんな時でも毅然と。それは彼女のプライドであり、仮面であり、盾でもあるのだ。

(必ず暴いてみせるわ)

 そしてゲームに勝利し、この青年を退けるのだ。こんなものは自分に必要ないと。

 父の思惑にのるわけにはいかなかった。その裏をかかねばならない。信じられる者は、もう一人もいないのだから。

 痛みを伴うほどの警戒心を微笑みで隠し、少女は厳かに口を開く。

「ええ。では、よろしくね、国枝」

 それはさながら闘いのゴングのように。彼女の言葉は、高らかに響いた。



 国枝和光という名前をもらった彼は、マスターである西園寺正孝氏に命じられた『仕事』の対象者である少女―西園寺美鈴をずっと観察していた。

 それこそ彼女が玄関に―喜び半分拗ねが半分、そして少しの警戒心を持って―父親を出迎えに来たところから。

 あからさまに自分に警戒心を向ける少女に気取られぬよう、細心の注意を払い彼は実物である彼女を知ろうと全能力を傾けた。

 彼女の詳細な情報ならばあらかじめ目を通し、その全てを記憶していたが、そうした情報と実物とではまた違ってくるということを、彼はよく知っていた。

 だから彼はとにかく彼女の言動を細かく分析し、そして情報を上塗りしていった。

 少女は現在十四歳だったが、その思考はすでに大人の域にあるようだ。

 駆け引きを知っており、そして出し抜こうとする知恵もある。はっきりとした物言いと明晰な頭脳は、その歳にしてカリスマ性を感じさせた。

 写真ではお淑やかなお嬢様風だった少女だが、実物の彼女はむしろ凛々しいと表すべきだ。同じ黒髪のストレートでも、颯爽と揺れるその様は写真とはえらい違いである。

 伏し目がちの写真では分からなかった、こちらを真っ直ぐに見る勝気そうな瞳と、あの猛々しい仁王立ち。写真は絶対にポーズを要求されていたに違いない。

 しかしその大人びた気の強い少女は反面、とても脆い部分も持ち合わせているようだった。

 実年齢よりも上に感じさせるその雰囲気は、裏を返せば彼女がそうあらねばならないと努力した結果であり、負荷でもある。

 彼女にも歳相応の幼い心はある。というより、押さえつけ隠されている分、それはずっと幼くて純真なものであるように彼は感じた。

 ホットケーキを前にした、彼女のあの純粋な衝撃。

 そして彼女の作ってきた『そうあらねばならない』姿が剥がれ落ちた時に見せた涙。

 少女の心は、彼が今まで触れてきたどんなものより綺麗だった。

 むろん、それはマスターの正孝にも言えることだったが、彼のそれと少女のものとでは質が違うように思われた。

 正孝の感情も間違いなく綺麗なものではあったが、少女のその真っ直ぐで嘘のない、ただ純粋な愛という感情は、まるで泥の中から現れた宝石のように彼には輝いて感じられた。

 それと同時に彼は不安にもなった。自分は果たして正孝氏の命を遂行できるのだろうか、と。

 涙を流し、喉をつかえながらもホットケーキを食べる少女に、彼はこれまでの経験ではありえないことを思った。

(泣かれるのは、困るな)

 どうしてだか居心地が悪かった。いてもたってもいられないとは、こういうことを言うのだろうか。

 彼は命じられてもいない飲み物を作りにいった。別段、咎められなかったので、その行為はマスターの正孝いわく「空気を読んだ行動」だったのだろう。

 しかしそんなことはあの時はどうでもよく、ただホットミルクを口にした少女がほんの少し癒されたことで、彼はようやくほっとできたのだった。

 そんな自分のありように彼は少し戸惑っていた。のっけからこんな調子で大丈夫だろうか。

(しかし、やらねばならないのだ)

 マスターの命は遂行せねばならない。完遂の為、どんな努力も惜しんではならないのだ。

 正孝氏の(頼んだぞ)という声にならない言葉にはっきり頷いて、彼は少女―これから仕える主に挨拶をした。

 微笑んでいる少女が自分を認める気がないのは明らかだ。だが、それでいい。彼女には嘘を見破ってもらわねば困る。

 けれど、と彼は思ってしまうのだ。

 彼女が真実にたどりつくことと、それを知らずにすむこと、そのどちらが彼女の為になるのだろうか、と。

 きっと正孝氏にも判断がつかないのだろう。だからこそ自分がここにいるということも分かっている、が。

(きっと、そのどちらでも彼女は泣く)

 そんな暗い予感がした。そしてそれは、外れはしないのだろう。先ほどの様子をみれば。

(それは…………困る)

 自分でも驚くほど、その事実が心苦しかった。

 少女の涙が、よもやこれほど辛いと感じるとは。

(どうすればいい。何をするのが最善だ?)

 彼は必死で考えた。

 なんと難しい『仕事』だろう。彼の今までしてきたなかで、一番難解で、最も難易度の高い、そしてやりがいのある仕事だった。

 彼は考え続ける。少女の傍らでずっと。この仕事が完遂するまで考え続けることになるだろう。

 何が少女の為になるのか、と。

 全自動人形オートマチックドールである彼は、そう考え続ける行為をなんと呼ぶのか知らなかった。

 その想いの名前が分かる時、彼は『答え』を見つけることになる。

 だがこの時はまだ誰も、彼自身でさえ、分からないでいた。

 ゲームの結末も、少女の運命も、彼の未来も。すべては盤の上。

 賽は投げられ、こうして彼と彼女の勝負ゲームは幕を開けた。











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