最強パティシエの完璧なる護衛術

丘月文

プロローグ


 かしゃかしゃかしゃと金属の擦れる音がする。これは金属のボールと泡立て器とがぶつかる音だ。

(…………母様が、またお菓子を作っているわ)

 趣味の域を越えた母のお菓子は、いつだって少女を夢心地にした。

 ふわふわの生クリームと甘酸っぱいフルーツを包んだロールケーキ。とろりとしたカスタードクリームがめいっぱい詰まったエクレア。薫り高い林檎のフィリングがどっさり入ったサクサクのアップルパイ。

(ねぇ、母様、私食べたいものがあるの)

 小さな頃、毎日のように作ってもらっていた、あのお菓子。手の込んだ、どんなお菓子より少女はそれが好きだった。

 ずっと母親と一緒に過ごせた、何よりも幸せだった時間。おねだりすれば彼女はいつだって「任せなさいな」と微笑んで作ってくれた。

 少女の目の前で材料を計り、混ぜ合わせ、焼き上げて。熱々のものを「さあ、召し上がれ!」と、お皿に盛りつけてくれる。

 あの幸せな日々。

(母様、作って………もう一度)

 夢の中で彼女は小さな手を伸ばす。その自分の手を見て気付いてしまう。

 ああ、これは夢だ、と。

 だって――――あの優しい微笑みをくれる人はもういない。

 キッチンから賑やかな音が聞こえてくることも、魅惑の香りが漂ってくることも、まして飾りつけられたきらきらと輝くお菓子達が待ち構えている、なんてことも。

 もう、ありえないことだ。だって、だって、ほら――――聞こえない。

 彼女は、もういない。

 だからこれは、哀しい夢なのだ。その証拠に少女の目から涙がこぼれていた。

(もう一度、なんてものは、もうないの)

 夢と分かれば、そこから意識が覚醒するのは早かった。

 静かな朝の寝室で少女は目を開き、涙を拭う。夢で見たものよりずっと成長した彼女の手で。

 彼女はもう小さな子供ではなかった。顔はまだあどけなさを残していたが、凛とした雰囲気は彼女を実年齢よりも大人びて感じさせた。その容姿と彼女の歳のアンバランスさは、魅力とも危うさともとれた。

 だがそれも彼女の立場を考えれば仕方のないことだった。

 少女は涙などなかったかのようにさっと顔を上げ、そして寝るだけの寝室を出て、自分専用の洗面台で歯磨きをし、顔と髪を整える。

 一瞬シャワーを浴びようかと迷ったが、それは朝食後にすることにして、彼女は着替えにとりかかった。

 クローゼットの中を歩きながら適当に着るものを選び、脱衣所で着替えをすませると廊下へと出た。

 と、出会いがしら、ばったりと春江に出くわしてしまった。

「あら、お嬢様! 今、お召し物をお持ちしようと思いましたのに」

 ちょうど脱衣所にいこうとしていたのだろう、女中頭の彼女は慌てた口調でそう言った。

 五十過ぎの長らくこの家に勤めてくれている、信頼の置ける彼女は「メイドさん」と呼ぶよりは「女中さん」と呼ぶほうがしっくりくる。割烹着の似合う―もちろん着物姿の―柔和な女性だ。

「いいのよ。私が早起きしてしまったんだもの。それに春江さんが選んだ服は後から着るわ。どうせ朝食後にシャワーを浴びようと思っていたから」

 微笑んでそう言う少女に春江は気遣わしげに聞いた。

「あまりお眠りになられないのですか?」

「ええ。でも大丈夫よ。先生に診てもらうほどじゃないの。それに………」

 その先を飲み込んで、少女は無理矢理に笑顔を作る。

「とにかく! 大丈夫よ。…………と言っても、説得力がないのは分かっているけど。でも、大丈夫ってことにしておいてちょうだい」

「お嬢様」

 それこそ産まれた時から少女を見守ってきた女中頭は、彼女のその姿勢に思わず相貌を潤ませた。

 毅然とした態度を貫く少女は、周囲の者に―たとえそれがどんなに昔から付き合いがあろうと―気を許さぬ覚悟なのだと、彼女は察したのだ。

「お嬢様、どうかご無理はなされませんよう、お願いいたします。

 貴方様に何かありましたら私、奥様に申し開きのしようも御座いません。たとえお嬢様に恨まれようと、私は貴方様をお守りする所存ですからね」

 これがほかの者の言葉だとしたら、少女はさっさと無視してしまっていただろう。いや、むしろ怒りを覚えたかもしれなかった。

 だが春江の口からだとこんなにも泣きたくなる。

「ありがとう、春江さん。でも貴方こそ無理はしないで。それこそ貴方にまでいなくなられたら、私きっと生きていられなくなってしまう」

「まあ! まぁ、なんてことを、お嬢様。そんなことはさせませんとも」

 潤ませた瞳をさっと手で拭うと、春江は力強く頷き「さあさ、朝食の準備はもう整っているはずですからね」と彼女を促した。

 少女はそんな頼りになる女中頭に今度は心からの笑顔を浮かべると、朝食をとるべく食卓の間へと足を進める。

 その間にも次々と「おはようございます、お嬢様。今日は良い天気ですね」とか、「おはようございます、美鈴お嬢様!」と、声がかけられる。

 その一つ一つににっこりと笑いかけ、彼女はやたらに広い部屋の、やたらに長いテーブルにある、たった一つの椅子に腰掛けた。

 むろん効率を考えて扉に一番近い、晩餐会であったのならけして彼女が座らない位置に、だ。

 すると瞬く間に数人の男達がさっと場を整え、できたてのオムレツと温かなパンとが目の前に置かれた。

「ありがとう」

 彼らに微笑むことも忘れず、少女は朝食に手を合わせ、それから食べはじめた。それは、なんら変わりない日常だった。

 だが彼女の世界は確実に三ヶ月前とは違っていた。

 少女はゆっくりと朝食を咀嚼する。その食事に毒が入っている可能性を考えながら。

 大きなお屋敷の中でたった一人、多くの人々にかしずかれる少女。日本屈指の大企業、西園寺グループのトップである西園寺さいおんじ正孝まさたか氏の一人娘、西園寺さいおんじ美鈴みれい。それが少女の名前だった。

 そして彼女は正孝氏の死後、巨額な資産を受け継ぐことになる唯一の人物だった。

 それは、本来ならば、二人であったはずなのだ。けれどそのうちの一人、美鈴の母親にして正孝の妻である夫人は三ヶ月前に他界していた。

 事故死だった。いや、事故死と断定された、というべきか。

 その目覚めない母を見て、少女は思い知った。

(信用できる人は、もういない)

 世界中の人すべてが、少女の敵となった。敵と思わねば生きていけないと、聡明な少女には分かってしまった。

 そして現に、そうする必要が彼女にはあったのだ。残酷なことに。

 三ヶ月前の悲痛な別れはほんの序章に過ぎない。悪意と思惑が渦となり、少女を飲み込もうとしていた。

 過酷な運命と不思議な出会い。その嵐の前に今、少女はたった一人で立っていた。
















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