第五章 ほろ苦いティラミスは悲しみの味 ―真実―


 まるで一流のホテルと変わりないような、だが確実に違う用途の建物を見た瞬間に、美鈴にはもう何が待ち構えているのか解ってしまった。

 この時ばかりは、察しの良い自分の頭脳を恨めしく思ったほどだ。

「お嬢様、こちらです」

 和光に案内されるままに建物を進み、そして個室の前に立った時、美鈴の足は震えた。

「お嬢様」

 和光が美鈴の身体を支えようと手を伸ばしたが、その手を美鈴は押し返した。

 ここで彼にすがってはいけないと美鈴には分かっていた。ここからは自分一人でいかなくてはならない。それを選んだのは、他ならぬ美鈴自身なのだから。

 息を吸い込み、美鈴は扉を開けて部屋へと足を踏み入れた。

 そこはやはり豪華なつくりとなっていたが、清潔なベッドとその周りに配置された機械は、けしてホテルにはない。

 命を――――――繋ぐ為のモノ。

 そして、そこに横になっている父。

「…ああ……美鈴、か。とうとう………バレて、しまったな。

 はは、和光……お前でも、隠し通せなかったという…………わけか」

 息をするのも辛そうな顔でそう言う正孝に和光は頭を下げた。

「申し訳ございません。どんなお咎めも覚悟しております」

「今の…………お前の主は、美鈴だろう? 私に、お前を……………咎める権利は、ない」

 笑って言う正孝に、けれど和光は彼の顔をまともに見ることはなかった。

「私は外に出ていますので」

 静かにそう告げて退出する和光を見届け、美鈴はベッドに近づき、その脇にある椅子に腰掛けた。

 そうすると横たわる父の身体がより鮮明に見えて、もうはっきりと解ってしまうのだ。

 この人の命が、そう長くないことが。

「いつからです」

 搾り出すように言葉を口にする美鈴を、正孝はこれ以上ないほど優しい目で見つめていた。

「半年ほど前…………蓉子が死ぬ、二ヶ月ほど前、だ」

 とすれば、勝負ゲームを持ちかけられた時はかなりの末期だったと。

「――――母様は知っていたの?」

「ああ。………蓉子と話し合って……………お前には、知らせずにおこうと。

その矢先に、な」

 それ以上は口にはできなかった。言葉にするのはあまりに辛すぎた。

 しばらくの沈黙の後、美鈴は震える声で聞いた。

「父様、私…………私はどうするべきでした? 父様は、本当は私がここに来ることを望まなかったのですよね?

 国枝が言っていたもの。知らずにいる幸せがあるって。

 父様はそうお考えだったのでしょ? 私が何も知らないまま、父様に守られたまま、あの屋敷で安穏と生きていてほしいって」

 美鈴には自分が悲しいのか情けないのか、それとも本当は怒っているのか、分からなかった。

 ただ、ひどく苦しくて、呼吸が上手くできなかった。

 そんな娘に正孝は静かに言った。

「美鈴…………お前は、優しい子だ。だから、知らせたく、なかった。

 だが、間違いだった。お前は、強い。いや………本当は、強くあってほしいと、試したのかもしれん」

 細められたその目尻には涙が浮かんでいて。

 微笑んだその顔は残酷なまでに幸せそうだった。

「よく、ここまで来てくれた。私の愛しい娘。そばに、きておくれ」

「………………父様」

 広げられた腕に、その胸に美鈴は寄り添った。

 その娘を正孝はしっかりと受け止め、何度も確かめるように撫ぜた。

「ああ、なんて幸せだ。

 もう一度……………お前を、抱きしめられるとは」

「とう、さま」

 美鈴はけして目を瞑らない。泣いたりなどしない。

 脳裏に、記憶に、焼き付ける為に。尊敬してやまない父を。そして自分はそんな彼の娘だということを。

 けして忘れないように。

「美鈴…………私は、じき死ぬ」

「―――はい」

 頷く少女に、西園寺グループを牽引してきたその男ははっきりと告げた。

「西園寺グループは、お前が継ぐのだ」

 たった十五歳の少女には重過ぎるその言葉に。

「はい」

 美鈴は怯まなかった。

 否、ここで応えられないような覚悟ならば、そもそもここに来はしないのだ。

「お前は、十分に強い。だが、まだ未熟だ。いいか、敵と味方を、見極めるのだ」

「その為の国枝なのですね?」

「ああ」

 全てを見通した上で父は和光を購入していたのだ。美鈴の武器となりうるように。

 冷たく鋭い厳しさと、熱く大きな優しさを。正孝は娘に贈った。

「美鈴……………お前のゆく道は、険しいだろう。

 だが、お前ならば…………やり遂げられる。幸せに、なるんだぞ」

「はい」

 毅然と顔を上げているその娘の頬を一撫でして、それから正孝は苦笑いのような、ちょっとだけ弱ったような顔をした。

「もう一人…………話しておかねばならんやつが、いるな」

 自分にむけられるものとは少し違う、けれど温かさを含んでいるその声に美鈴は気がついた。

「国枝のこと?」

「ああ。………呼んでくれんか」

「分かった」

 しっかりとした足取りで病室を出て美鈴は外で待機していた和光を招き入れる。

 和光の姿をとらえた正孝はしっかりとした声で命じた。

「こちらにこい、和光」

「はい」

 そして美鈴の隣に立ったそのに正孝はそっと手を伸ばす。

「お前には、この方が早い………だろう?」

「…………旦那様」

 素手である和光の手はほんの少し躊躇い、しかし彼の手を握った。

「分かるな?」

「はい――――――旦那様」

 微笑む正孝とは反対に和光の表情は硬かったが、彼は正孝に頷き返した。

 二人のやり取りはそれだけだった。だがそれだけで充分なのだろう。それが美鈴にはどこか羨ましく思えた。



 それから美鈴と和光は主治医が止めるのも聞かず病院を出た。

 本来であったのならあの場に留まり最後を見届けるべきなのだろう。美鈴だってできるならばそうしたかった。だが襲撃者のことを考えれば、病院に居続ける事は危険だった。

 美鈴にはさっぱり分からなかったが追跡者は確実にいるようで、それを振り切る為に公共の交通機関を幾つも乗り換え、すっかり日も落ちてしまった頃にようやく二人は休める場所を確保した。

「すみません、お嬢様。このような場所で」

 謝る和光に美鈴は肩をすくめた。

「ホテルなんかに泊まれるとは思ってないわよ」

 二人が今いるのは所謂インターネットカフェ。完全個室制で、寝られるようにもなっているちょっとした部屋のような所だった。

「でも、何でここ?」

 何か考えがあるのだろうと思って美鈴が和光に尋ねると、彼は頷いてパソコンを起動させ、とある掲示板を確認した。

「現在、私達には連絡手段がありませんから、ここで合図を待ちます」

「………………父様が亡くなったら、そこに合図があるのね」

「はい。主治医は信用における人物です」

 正孝の現状確認をする時に近づいて探っておいたのだろう、和光はきっぱりと言った。

 おそらくその時にこの事も示し合わせていたのだろう。

「分かった。任せるわ」

 美鈴はそう言って力を抜き、ソファに腰掛けた。

 どっと疲れが出て、一度座ってしまうと立てそうになかった。

 夕食を適当に調達した安っぽいサンドイッチとクラッカー類ですませ、美鈴は狭い空間で手足を縮めながらも横になった。

「お嬢様、寒くはないですか?」

「大丈夫よ。毛布もあるし」

 周りは明るかったが思っていたほど騒がしくもなく、寝られなくはなさそうだった。

 だが、美鈴にとってはこの際そんなものはどうでもよかった。

(どうせ、眠れない)

 今日は色々なことがありすぎた。

 屋敷に拳銃を持った男が押し入ったり、その男に拳銃を突きつけられたり。そいつと戦ったり。逃げたり、父が死かけていることを知ったり。

 目を閉じると、ぐるぐると世界が回って、美鈴は真っ暗闇に真っ逆さまに落ちていくみたいな、そんな気分になった。

 だというのに、美鈴はどうすることもできず、浅く息をしているだけ。

 泣くことも、叫ぶこともできなくて、ただただ苦しかった。

「…………………お嬢様、お休みになってしまわれましたか?」

「ううん、起きてるわ」

 薄く開いた視界に和光がいた。

 気遣わしげで、苦しそうな、いつか見た彼の顔。あの時も和光は同じ心境だったのだろうか。

「何?」

 美鈴が聞くと和光は躊躇って、だがビニール袋からごそごそと何かを取り出した。夕食を購入した時に一緒に買ってきたものだろうか。

「これを」

 そう言って差し出されたものを美鈴は身を起こして受け取った。

 それはプラスチック容器に入った、いかにも市販といったようなデザートだった。

「これ、ティラミス?」

「はい。そうです」

 和光が頷いてプラスチックのスプーンを美鈴にわたす。

「え、何で?」

「単なる気休めです」

 不思議そうな美鈴の顔に和光はどこか自嘲気味に言った。

(気休めって………………お菓子が?)

 何だかそれはとっても彼らしくて、美鈴はちょっとだけ笑った。

「じゃあ、食べる」

 彼の作るお菓子ほどではないだろうが、甘いものは少しでも心を癒してくれるだろう。

 美鈴はプラスチックの蓋を開け、スプーンでティラミスをすくい上げ口に運んだ。

 かかっているココアパウダーのほろ苦さとマスカルポーネの濃厚な味。スポンジにはシロップが染みていて、それなりに美味しい。まあ、それなりなところが残念なのだが。

「まあまあ、ね。きっと貴方が作ったほうが美味しいわ」

「ありがとうございます」

「帰ったら、作ってくれる?」

 ぼんやりとそう聞いた美鈴に和光は少し目を細めて寂しげに答えた。

「お嬢様がお望みでしたらお作りしますが、あまり作りたくはありませんね」

「………どうして?」

 意外なその返事に美鈴はちょっと驚いた。彼ならばどんなお菓子でも―あのルリジューズだって―美鈴が望むままに作ると思っていたから。

 和光はじっと美鈴を見つめ、それからその手にあるティラミスに視線を落とした。

「お嬢様は、ティラミスの意味をご存知で?」

「ええと、確かイタリアのお菓子で――――」

 そこで美鈴は彼の言いたいことに気がついた。

 ティラミスとはイタリア語で『私を持ち上げて』つまり、『元気にさせて』を意味する。

「お嬢様が落ち込まれることなど、望みませんから」

 じっと美鈴を見つめるその目がいつも何かに耐えているように見えた。

 何が彼をそうさせていたのか、美鈴にはやっと分かった。

 苦しまないで。これ以上傷つかないで、と。美鈴の心のありように彼は心を痛めていたのだと。

(分かりにくすぎよ)

 その手にあるティラミスがきっと彼にできる精一杯の慰めなのだ。

 どんなに言葉を尽くそうと、温かく抱き寄せようと、それは単なる気休めでしかないと彼は知っていて。それでもと差し出した、祈るような気持ち。

 どうか―――――元気になって。

 ティラミスを口に運びながら、いつの間にか美鈴は泣いていた。

 甘かったはずのティラミスはしょっぱくて、ほろ苦くて。美鈴は泣きながらそれを食べた。

 和光はそんな美鈴を見つめ、ただ黙って傍にいてくれた。

 食べ終わると、美鈴はぽつりと言った。

「もう寝る」

「はい。よくお休みになってください」

 毛布に包まってからも美鈴は涙を流し続けた。

 何が悲しいのか、どうして苦しいのか、よく分からなかったけれど。

 止まらないそれと背中に感じる和光の気配にだんだんと目蓋が重くなり、そして自分でも気付かぬうちに美鈴は深い眠りへと落ちていった。



 泣きながら眠る少女の傍らで、和光はどうしようもない胸の痛みに耐えていた。

(こうなることは分かっていたのに)

 知らせないままでいられたら良かったのにと今更ながらに思い、それでは駄目だったのだと思い直す。

 けれど胸に重くのしかかるそれは、どうしたって消えてくれない。

(旦那様、貴方は私に託してくれたが)

 握った手から伝えられた感情は、元マスターからとしては過去最高の褒め言葉であり、またありえないほどの優しさに満ちたものだった。だからこそ和光は苦しい。

 そこまで思ってもらう資格などないのに。自分はただの道具であるはずなのに。

 仕事を完遂するだけしか能のない、人形だというのに。

(どうして―――――この人達は)

 そう考えて和光はふと苦笑いしてしまった。

 ああ、なんてこの親子は似ているんだろう、と。

(私は人形にすぎないというのに)

 心を分けてくれるのだ。その優しい心を。暖かなその気持ちを、和光に向けてくれる。

 和光は涙が残る少女の頬に手を伸ばしてそれを拭う。

(貴方を、泣かせたくはないのに)

 それはあまりに自然な行動だったから、彼はその時は気がつかなかった。自分が何をしたか。だが彼は後に気付く。自分の行動の意味に。

 感情などないはずの人形が少女に抱くもの。その想いの名前を彼は知る。そして彼は答えを出すのだ。

〝何が本当に少女の為になるのか〟を。

 完璧な『少女の為の』である為に、彼は躊躇うことなどなかった。

 

 

 苦しい夜は長く続かないと、美鈴も和光も解かっていた。

 生きている正孝と会えるのはあれが最後だろうということも。

 追跡者から逃れながら、その時がこなければ良いのにという思いと、いつまでこれが続くのかという不安。そのなかで二人は辛抱強く待ち続けた。

 そして、あの邂逅から二日目のこと。

 モニターを確認していた和光は、それを見つけて身体を強張らせた。

 ついに、その時がきたのだ。

「―――――お嬢様」

 和光の声を聞いた瞬間、美鈴は悟った。

「………合図ね」

 重々しく頷く和光に美鈴は目を瞑った。

 ああ―――――死んでしまった。父が……………尊敬してやまない、愛する父様が。今日、死んだのだ。

 美鈴は息を吐き出し、しっかりと目を開いた。

「国枝、屋敷にもどるわ」

 そう―西園寺正孝が死亡した―この時より、西園寺グループのトップは美鈴。二人はこの時を待っていた。

 かのひとの意思を引き継ぐ、この時を。

「かしこまりました、お嬢様」

 和光はただ深く頭を下げる。

 そして二人の―――――――最後の闘いが幕を開けた。









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