乾きたくないんだ 中編

「んが」


 まだ完全に覚醒しきっていない僕は、ここが何処なのか一瞬だけではあるが理解できなかった。微かに聞こえる古文の先生のチョークを叩く音が、今が午後の授業の真っ最中だと理解する。


 自分で言うのもなんだが、毎日毎日を真面目に勉学に励んでいるつもりだった。授業中に居眠りをしたことなど殆どない。若干の罪悪感と、積み上げていたものが崩れ去るような残念さが入り交じった不思議な感覚が僕の胸の中で渦巻いていく。


 眠りが浅かった為か、夢の内容は殆ど覚えていた。だが夢というものは手の上の砂のようなもので、時間という名の風によって流されていく。それでも嶋村さんが最後に見せた笑顔と言葉だけは、脳にこびりついたかのように離れることはない。身体の中心に血液が集まっているのは、寝起きだからという訳ではないだろう。


 所詮は僕の妄想だ。彼女が僕に向けたものではない。全てが僕の都合のいいように作られた仮初のものだ。わかってはいる。わかってはいるのだ。とっくに僕は彼女に全てを捧げているつもりだった。それでも何か、無意識に『まだ足りない』『乾きたくないんだ』と自分自身に言われているようなのだ。


 何が足りないのかわからないが、深く考え続けてもきっとロクなことにはならないだろう。意識すればするほど主張する生理現象を無理矢理押さえつけた僕は、気を取り直して授業を受けようとシャープペンシルを手に持つが、その瞬間に無慈悲にも授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。


 小さく息を吐き、背もたれに身体を預ける。ふと視線を上げると、狐塚が満面の笑みを浮かべながらこちらに振り向いていた。


「珍しいこともあるなぁオイ。授業中に爆睡かます肱川なんて初めて見たぜ。明日は槍でも降るんじゃあないか、ぬふへははははははは」


 相変わらずの馬鹿笑いに反論する気も起きなかったが、それを別の方向に受け取ったようだ。狐塚は凛々しい眉毛を八の字に下げながら、僕の顔を覗き込む。


「って寝不足かよ。お肌に優しくないぜ」


 心配するような狐塚の声は本心から出てくるものだろう。なんだかんだで面倒見のいい彼は、誰にでも親身になるし、誰にでも軽いノリで接する。それは友人を作りやすいという利点でもあるが、人によっては深入りしすぎるという欠点でもある。僕としては声を掛けれて有難さと面倒くささが半分ずつというところだ。


 彼に対してはもう少し落ち着いてくれれば言うことは無いのにな、と日々の中で何度も思っているが口にすることはない。言ったとしてもそこまで変わることはないだろうと何となく理解している自分がいるあたり、僕も狐塚のことをそれなりに気にかけているのだろうか。


「それともアレか。お前まさか嶋村さんと……! うわー! フジュンイセイコウユウだ!」


 前言撤回。こいつには可及的速やかに落ち着いてもらった方が精神衛生上、都合がいい。


「うるさいよ。というか、もうすぐホームルームなんだから、帰る準備とかした方がいいんじゃないか?」


 他のクラスメイトの視線など何も気にする素振りもなく騒ぎ続ける狐塚に対して、微かに痛くなってきた目頭を指で押さえてしまう。会話を終わらせたくてどうにか切り上げようと話題を変えても、彼にそれが伝わる様子はない。よくここまで口が動くな、と感心するほどに喋り続ける狐塚はもう止まることはなかった。


 狐塚は僕の机を掴み、小さく揺すりながら囁くように絶叫する。大きく見開いた目は真剣そのものであり、どうして彼がこんな話題でこんな表情をするのか、まるでわからなかった。


「話をずらさないでくれ肱川ァ。俺は真面目に聞いてるんだぜ。一体ゼンタイ、嶋村さんとはどこまでいったんだ、よ!?」


「……前も同じこと聞いただろ、日比生でさ」


 同じ問答をするつもりはなかったが、あの時に比べて僕と嶋村さんは潤いを与えたり受け取ったりするようになっているのは事実だ。だがそれを言うつもりはないし、行ったところで狐塚には理解することは出来ない。日頃彼が見せている爽やかな笑顔は、潤いに満ちているものだ。ただ生きているだけでも、乾きとは無縁の日々を過ごすことが出来る。狐塚だけではない。貫田さんだって、森本さんだってきっとそうだ。


 僕と嶋村さんの二人が、根本的におかしいだけなのだ。何かを、誰かを傷つけないと人生に潤いを感じることが出来ない。それを自覚してしまったからこそ、なお一層狐塚の笑顔を見ていると僕の頭の中でドス黒い感情がほんの僅かではあるが確かに感じるときがある。


「あれ、そうだっけ? ぬふへへへへへ、すまんなすまんな」


 目の前で笑うクラスメイトは、馬鹿笑いを続けていく。話を切り上げようとする僕の言葉も、彼にとっては楽しい会話に過ぎないのだろう。


「 まぁそんなことはどうでもいいんだ。状況は刻一刻と変化していくからな。で、まさかマジでXYZまでイっちゃった?」


 歯を見せて笑う彼の二度目の間抜けな問いかけに、肩どころか全身力が抜けてしまう。これ見よがしに大きくため息を吐きながら、げんなりした感情を隠さずに孤塚の質問を質問で返す。


「だから駅前の掲示板じゃないんだからさ、掃除屋を呼んでどうするんだよ。それともオーバーレイでもさせるつもりか?」


「オーバー……なに?」


 孤塚が困惑させる為に適当なことを言ったのだが、この作戦はどうやら成功したようだ。目を丸くした瞬間に、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴る。あまりのナイスタイミングに、心の中でガッツポーズを取ってしまう。


「さて、ホームルームだよ」


「おっま、後で教えろよ! 絶対教えろよ!」


 捨て台詞を吐きながら背中を向ける狐塚からなんとか逃れることが出来た僕は、視線を嶋村さんの方に向ける。廊下の一番後ろである僕の席から、窓際の一番前の彼女の席という対角線上に座る彼女がどんな顔をしているか、何をしているかはよくわからない。それでも、彼女の黒く長い髪を見ているだけで孤塚に乱されに乱された僕のペースが元に戻っていくような気がした。


 不意にズボンのポケットに突っ込んでいたスマートフォンが小さく三度振動する。バイブレーションの後でも機敏に反応する一部の教師に気づかれることによって要らない注目を浴びない為に、一番弱い振動に設定をしていた。基本的に無視をして授業が終わった時に通知の確認をするのがいつもの僕がとる選択なのだが、このリズムだけは別だ。


 教師が入ってくる今ならば問題はない。素早くスマートフォンを操作し、メッセージアプリを起動する。送り主は当然、嶋村さんからのものだ。


『別に、教えてもよかったのに』


 顔を上げて嶋村さんの方を見る。対角線上に座っている彼女の視線は実際には見えないのだが、クラスメイト達を掻い潜ってて僕に突き刺さるのだけは何故かはっきりとわかっていた。

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