僕の帰巣本能 前編
夏の足音が聞こえてくる。分厚い雲と冷たい雨より青空と太陽の比率が増え、湿度の高い風が身体を通り抜けていく。起きる頃には窓から入り込む眩しいほどの光が意識を無理やりにも覚醒させるようになっていた。
テレビから流れてくるヒットソングは夏をイメージしたものだったり、夏を先取りしたファッションを紹介してくる。早いもので、6月も終わる。あと1ヶ月程度で夏休みだ。去年は何も無いイベントだったが、今年はどうなるのだろうか。
頭の中に浮かんだのは例によって嶋村さんの笑顔だった。寝ても醒めても彼女のことが頭から離れることはない。この夏は、二人でどこかに行く機会があるだろう。
奇妙な形ではじまった『コイビト』の関係ではあったが、今ではすっかり僕の頭の中が彼女のことでいっぱいになってしまっている。それを認識すると同時に、自戒の念もじわじわと僕の後頭部あたりから滲み出てくるのだ。
決して忘れてはならない。嶋村七海は4月の事件の犯人であることは、ほぼ間違いない。
罪は償う為にある。だから、彼女を止めるのは僕にしかできないことなのだ。改めて湧き上がる決意を胸の奥に刻み付けながら、身支度を進めていく。とっくに朝食は胃袋の中だ。あとは最終的な確認を終わらせるだけだ。エンタメ情報を垂れ流すテレビのチャンネルを地方ローカル局に切り替えると、丁度この辺一帯の天気予報が流れていた。今日の久我は曇りのち晴れで最高気温は昨日より4度も高い。今日は暑くなりそうだ。少し早いが、長袖ではなく半袖に切り替えた方がいいかもしれない。そんなことを考えている間に天気予報は終わり、中年の女性キャスターが真面目な顔で原稿を読み上げた。
『天気の後は、先日久我市で起きた傷害事件の続報です』
実生活においてそこまで影響のないニュースなど聞き流してしまうつもりだったが、聞こえてきたのは僕にとって影響しかないニュースだった。齧り付くようにテレビを覗き込む。視界の隅で母が怪訝な顔をしてこちらを見ていたが、気にすることは無かった。
『5月28日、深夜1時頃の久我市の郊外の通りにて、24歳の寿山 巌さんを棒状のもので殴りつけたとして、22歳無職の
短く髪を刈り上げた、小太りの知らない男の顔写真が映し出される。内山静哉という名前のこの男がいつか僕と嶋村さんに絡んできた、あの粗暴者に襲いかかったらしい。
このニュースに僕は本当は安心するべきだったのかもしれない。この近くで起きた事件に一応のケリがついた。それなのに、今の僕の頭の中は逆に困惑で埋め尽くされていた。
『二人の間に何かトラブルがあったか、二人の関係を調査すると同時に、連続して発生していた傷害事件との関連も併せて追求をしていくとのことです』
原稿を読むアナウンサーの声のトーンは乱れることなく淡々としたものだった。それでも僕の胸の中はひたすらにざわつき続けていた。全ては僕の杞憂だったというのか? あの長い髪の毛は、ただの僕の見間違いだというのか。混乱に混乱を重ねてしまった僕は呆然とテレビを見るしかなかった。
何がなんだかわからないが、入念に捜査を続けていく今の警察が誤認逮捕をすることなど考えにくいだろう。だとしたら、先日のあの口付けはなんだったのだろうか。あの植木鉢はなんだったのだろうか。夜闇に揺れていたあの長い髪の毛はなんだったのだろうか。
迷宮と化してきた思考は時間を圧縮していくが、スマートフォンから流れ出した登校時間のリミットを示すアラームの電子音が僕の意識を現実へと引っ張り戻していく。気を取り直す意味で小さく咳払いをして、鞄に弁当箱を詰め込んで外へ出た。
「気をつけてねぇ」
いつも大きな母の声も遥か遠くから聞こえてくるようだ。返事をしたつもりでも掠れた声しか出てこなかった。
予報より早く空へと顔を出してきた太陽のあたたかさに、先程半袖にしようか悩んでいたことを思い出す。数分前のことも忘れるほどに、あのニュースは僕にとって余程衝撃的なものだったようだ。
それでも無意識とは恐ろしいもので、いつものルートをいつものペースで歩いていく。聞いた話によると人間にも帰巣本能がしっかりと備わっていて、たとえ前後不覚になるほどに酔っ払っていても自宅に帰れるのはそれによるものらしい。流石に未成年である僕はそんな経験をしていないのだが。
「おはよう、肱川くん」
気がつけば、いつもの十字路へと辿り着いていた。もしかしたら、僕の帰巣本能とはここへとたどり着くためにあるのかもしれない。挨拶を返し、何度も何度も見た彼女の笑みを見ながらそんなことをなんとなく思う。
生暖かい風が僕たちの間を通り抜け、嶋村さんの長く黒い髪の毛を大きく揺らしていく。朝のニュースで見た傷害事件の犯人の写真で見た短髪とは違う、彼女の長い髪が僕の記憶の中で何度も何度も反芻される。月の光を浴びて鈍く輝くあの美しい髪の毛を見間違えるはずがないのだ。だとしたらあの男はいったいなんなのだろうか。
「どうしたの? なんだか難しい顔、してるよ」
嶋村さんは僕の顔を覗き込み、不思議そうな顔をしていた。相変わらず僕は思考が表情に現れるらしい。幾らコイビト同士だとしても、何もかも隠さずに打ち明け合うことなどできない。肉親でも隠し事の一つや二つはあるだろう。それが嶋村七海という女の子に対してならば、尚更気をつけていかなければならない。首を振って思考を一時停止し、目の前の彼女に向かって言葉を放つ。
「嶋村さん、今日の朝、ニュース観たりした?」
「いいえ、朝はテレビ観ないことにしてるんだけど。何かあったの?」
揺さぶりをかけようとしたつもりはなかったが、そうとも取れる僕の言葉を聞いた嶋村さんは笑顔のまま表情を崩すことなく、小さく首を傾げる。彼女の眼はいつも通りのものだ。時折妖しく輝く彼女の瞳を心底恐ろしく感じているのだが、その眼のあまりの美しさ、あまりの妖艶さに心を奪われている自分も確かに存在するのだ。
「いや、気にしないでくれ」
そう、と答えて嶋村さんは僕の手を握る。すっかり慣れてしまった彼女の手の柔らかさだが、慣れてしまったということはそれが脳に深く深く刻み込まれてしまったということだ。もし、それが失われてしまうならば喪失感は計り知れないものになることは理解していた。
だからこそ、恐怖を抱いているのだ。彼女というよりも、自分自身だ。胸に秘めた決意など、彼女を失うことにより発生するであろう喪失感に比べれば儚く脆いものだ。二つの感情に天秤にかける必要も意義も存在しない。同じ盤上の試合ですらないほどに、僕の全身全霊が嶋村さんを求め続けているのだ。彼女の体温に触れているだけで、全てが満たされるのだ。彼女の心音に包まれるだけで、何もかもいらなくなってしまうのだ。
もしかしなくても、嶋村七海へと向けているこれこそが恋愛感情というものなのだろう。今更ながらはっきりと理解し実感すると、僕の脳から大量のフェニルエチルアミンが際限なく放出されていく。多幸感でどうにかなってしまいそうだ。きっと今の僕は、とてもだらしのない顔をしているのだろう。ふわふわと空中を歩いているような感覚を覚えながら、通学路を進んでいった。
僕たちを見下ろしている近くの山々は少し前より青さを深めていた。微かに汗ばむ嶋村さんの手のひらの感触を確かめながら、鞄を握る左手に力を込めた。
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