僕の帰巣本能 後編

 あのニュースを見ていたのは僕だけなのかもしれない。そう思ってしまうほどに、クラスでその話題が出ることはなかった。いつも通りの日常が、ここにはあった。


 なんだか1人だけそわそわしてしまっている。何かあって欲しいわけではないが、何かあるはずなのに何もないという現状に漠然とした不安さのようなものを感じてしまっているのだ。午前中の授業などまるで耳に入らない。あっという間に時間は通り過ぎ、昼休みの開始を告げるチャイムが鳴った。


 いつかの植木鉢の事件から、昼食の場に屋上を選ぶことはなかった。先日ふと見に行ったのだが、嶋村さんが開けていた分厚いドアの鍵は再び施錠された上に鎖で頑丈に巻き付けられていて、なんだか脱出マジックの棺桶ような状況になっていた。


 そんな訳で、次の候補を探し回っている。やはり屋上のように2人きりになれるような場所などなかなか無く、他の人たちがいるようなところで何回か食事をしたのだが、やはり落ち着かないというか周りの視線が気になってしまってそれどころではないのだ。


 それなりに月日は経ったものの、学校でトップクラスどころか一番の美貌を誇っている嶋村さんと付き合っている僕に対してまるで珍獣でも見るような目で見てくる人は未だにそれなりにいる。同級生ですらまだかなりの数がいるのだ。上級生の一部に至ってはまるで威嚇するような視線が突き刺さることがあった。嶋村さんには悪いが、注目されることが何よりも苦手な僕としては、この視線ができるだけ存在しないところに行きたいのだ。


「うーん、あんまりいいところがないなぁ」


 弁当箱を手に持ちながら、小さく息を吐く。昼食に弁当をチョイスする場合に一番適しているから仕方ないかもしれないが、日当たりのいい中庭は想像通り多数の生徒がスペースを確保していた。測ったような一定の間隔がとられたそこの隙間に入る気も起きなかった僕は次の場所を探す為に頭の中で学校の地図を広げていく。


 やはり僕の凡庸な頭脳では画期的な穴場ポイントなど思い浮かぶはずもなく、人がたくさんいるであろう無難な場所しか思い浮かばない。強いて言うなら校舎裏だが、校舎裏といえば柄の悪い奴らが屯しているイメージだ。我ながら単純な思考だと苦笑しそうになるが嶋村さんが隣にいる手前、変な顔をすることはできない。屋上にもう一度行けると気が楽なのだが。


「そうね、食べる時間も考えないといけないから、とりあえず今日も教室で食べようか」


 そんな感じで、ここ暫くは探し回った後に教室で昼食を食べることが多くなっていた。嶋村さんと付き合うようになるまでずっと教室で食べていたのだから、場所に慣れていないわけではない。だからこその違和感は感じるが、そこは仔細な問題だろう。妥協点としてここでもいいような気もしているのも事実だ。


「まーだ飯食ってないのかよ。俺ァとっくに食い終わっちまったぞ。ていうか、もうすぐ昼休み終わっちゃうじゃん! オイオイオイ早く食えよオイ。でっかくなれねぇぞ、肱川ァ」


 最大の問題は、この教室にはやたらうるさいクラスメイトがいることだ。誰にでもこんな調子で絡んでくる孤塚は、殆どの人には明るいムードメーカーに見えているだろう。現に僕に存在しないこの底なしの明るさとハイテンションは、見るもの全てが輝いて見えているようだ。何も起きることがなく、平穏な日々を求めている僕にとってはそれは時折眩しすぎた。


「デカくなくて悪かったな」


 自分で言うのも違う気がするが、僕の身長は平均よりほんの少し背が高い程度。ここまでいくと誤差の範囲内だ。椅子に座り、弁当箱を広げ始めた僕を見下ろす孤塚の背はすらりと高い。何も言わずに自身の席を嶋村さんを譲っているあたり、やはり彼は社交的というか気遣いができる男なのだろう。喧しいことで全てが台無しになっているような気もしなくはないが。


「机、ありがとう」


 嶋村さんが孤塚に向かって微笑む。湿度の高い空気を吹き飛ばすような、春の風を思わせる彼女の微笑みを間近で見ることになった孤塚は両手を奇妙に動かしながら、だらしなく口角を上げた。


「いやいやいやいやいや、気にしないでよォ、ぬふへふははははははははは」


 胃袋を握りつぶされたような気がした。何度も何度も見た嶋村さんの笑顔だったが、他の人――特に孤塚に向けられたことに理不尽な怒りに近いどす黒い感情が浮かんでいた。それが嫉妬だと理解するまで、そう時間は掛からなかった。


 弁当に詰め込まれたご飯を口に放り込む。味の強いふりかけが掛けられたものだったが、なんだか味がしない。自分がここまで嫉妬深い性格だとは思ってもいなかった。肺の裏側がちりちりと燃えるような熱を感じながら、馬鹿笑いしている孤塚を軽く睨みつけた。


 孤塚は視線に気付くことなく、邪魔すると悪いからとか言いながら僕達の近くから遠くの他のクラスメイトへと声をかけていく。もう十分邪魔になっているだろと心の中で呟きながら、残り少なくなっていた弁当の中身を無理やり胃袋へと詰め込んでいく。


「もしかして、妬いた?」


 僕がどういう感情を抱いているのか、やはり彼女にとって読み取るのは容易いのだろう。嶋村さんが悪戯っぽく笑う。沈黙で肯定していると、口の端から赤か長い舌を覗かせながら愛おしそうに目を細める彼女の表情が微かに熱を持っているような気がする。脳裏に先日の激しい口付けをフラッシュバックしてしまい、脳の内側が暴れ出すのを理性で必死に抑えていた。


 何か言おうとした瞬間、間もなく昼休みが終わる予鈴が鳴る。いつの間にか自分の分を食べ終えていた嶋村さんは先程の表情のまま、小さく手を振りながら自分の席へと戻っていく。僕はそのまま呆けたまま、それからの午後の授業を受けた。教師に指されたりしなかったのは、ただの幸運だった。授業でどこを説明していたか、まるで覚えていなかったからだ。


「ねぇ」


 放課後のチャイムすらも聞こえなかった。まるで夢から覚ますように僕を現実に引っ張り戻したのは、嶋村さんの声だった。驚愕のあまり、びくん、と身体が跳ねる僕を見ても彼女は表情を変えることがない。まるで僕が昼からずっと魂が飛んでいたことを知っていたかのようだ。


「肱川くん、このあと予定とかある?」


 嶋村さんが長い髪をかきあげると、甘い匂いが微かに漂う。思考をすっかりシャットダウンしてしまっていた僕の脳は、今この状況を夢かもしれないと判断しそうになっていた。数時間前に彼女が見せたあの表情を見てからずっと、浅いけれど暗い海のような夢の中をゆっくりと漂っているようだ。彼女の声に導かれた僕は声を出すこともせずに、静かに首を縦に振る。


「じゃあこれから、私の家、来ない?」


 まるで嶋村さんに僕の帰巣本能を弄り回されているようだ。夢と現の境界線で彷徨っていた僕の周りに蜘蛛の巣が再び張り巡らされていく。もうその糸にとっくに絡めとられてしまっている僕は、その糸に操られるように無意識に首を再び縦に振っていた。


 妖しげに微笑う彼女の言葉を理解し、僕の脳が慌てて覚醒するまでにそう時間はかからなかった。

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