潤いが欲しいのよ 前編

 あの時は無我夢中だったから仕方ないかもしれないが、先日よりこの瞬間の方が遥かに緊張していた。校門を出て、嶋村さんの手を握りながら歩いている時もずっと緊張しっぱなしだ。何を聞いたか、何を話したかまるで頭に入らない。一歩進むごとに心臓のビートが早く大きくなっていく。


 僕自身が抱く彼女への感情を理解してしまっているからこそ、尚更どうにかなってしまいそうだ。戦闘機のパイロットに存在する現象らしいのだが、高いGにより、眼球の毛細血管が破裂して視界が赤く染まるという話を聞いたことがある。流石にそこまではいかないが、耳にも聴こえるほどの大音量で鳴動する心臓が送り出す大量の血液が僕の視界をだんだん狭くしていくような気がした。


「どうしたの?」


 当然僕の緊張は繋がれた手を伝わってしまう。手汗も物凄いし身体は強張っているから当然といえば当然だろうが嶋村さんには丸わかりのようで、不思議そうな顔をしながら僕の顔を覗き込んできた。手を繋いでいる以上、僕達二人の距離は近い。顔と顔なんて1メートル程度しか離れていない。狭くなった視界に丁度収まる嶋村さんの美貌が、更に心臓のビートを早めていく。


「な、ななななな、何でもない。気にしないでくれ。ホント。いやぁ、今日は暑いね。汗だくだよホント」


 代謝が良いとかそういう次元ではない。汗が噴き出て止まらないし、なんだか寒気までしてきた。それでもヘビーメタルのドラムも真っ青のスピードで暴れ回る心臓に翻弄されたのか、舌もうまく回らない。口から出てくるのは自分でも訳のわからない言葉だけだった。


「変なの」


 そうは言っても、嶋村さんはきっと僕の頭の中なんてお見通しなんだろう。どうして僕がこんなに緊張しているかも、今日ずっと自分の様子がおかしいことも。


 ここ最近は彼女の手を引くことも増えてきたのだが、今日は完全に嶋村さんが僕の手を引っ張っていた。為すがままというか、完全にリードされながらいつもの十字路を通り抜け、あっという間に嶋村さんの住むアパートへと辿り着いた。


 僕の手を握ったまま、残る左手で鞄から鍵を器用に取り出した嶋村さんは扉を開けて僕を招き入れる。足元に赤と青のスリッパが置かれているあたり、僕を自宅に誘ったのは衝動的なものではなく、計画的なものだったのだろう。


「お、お邪魔しま、す」


 尚更緊張が強くなっていく。気を抜くと胃の中身を吐き出しそうになってしまっている。歯の根が小さく震えている。まだ玄関口だというのに、彼女の部屋まで行ってしまったならば僕の身体はどうなってしまうのだろうか。


 赤いスリッパを履いた嶋村さんは、僕が残されたもう片方を足に通したのを確認したと同時に再び僕の手を掴み、自室へとぐんぐんと進んでいく。躊躇う暇も争う暇もないままに、僕は蜘蛛の巣の中央部である、彼女の部屋に迎え入れられた。


「どうしたの肱川くん、なんか今日、ずっと変じゃない?」


 先日と同じ位置に座らされた僕の耳孔に、すぐ隣に座った嶋村さんの細い声が吸い込まれていく。学校にいるときには殆ど聞くことがない、周りの声や環境の音というノイズが存在しない純度の高い彼女の声が、鼓膜を突き抜けて脳を震わせる。


 爆ぜてしまうかもしれないと恐怖を抱いていた割には、僕の心臓は先ほどよりも幾許かは落ち着きはじめていた。僕の中の帰巣本能が導いていく嶋村七海という存在が普段いる場所なのだというように、この場所に奇妙な落ち着きを感じていた。恐らく蜘蛛の糸に雁字搦めにされた虫が最後に感じるの一瞬の安らぎの瞬間というものは、きっとこんなものなのだろう。


「そうかな」


 精一杯の強がりだ。彼女にそれが通じないということは十分に理解していた。彼女の優しい微笑みがそれを示していることなど、いくら鈍くても容易にわかる。


「悩みとか、あるの? よかったら話してみてほしいな」


 机の上に置かれた僕の左手を、嶋村さんの両手が静かに乗せられる。握られた時とはまた違う種類の温もりが、強ばりきっていた僕の緊張を解していく。僕と彼女の距離は殆どない。肩と肩が触れ合うような位置で僕たちは隣り合って座っているのだ。否応なしに視界に入る、小脳の内側で暴れ回る煩悩を刺激してくる真っ白なベッドを見ないようにするにも限界があった。


「だって私は、貴方の『コイビト』なんだもの」


 嶋村さんの目が細められ、口角が更に上がる。まるで慈母のような笑みに、僕の肺と口が勝手に動き出し、声帯を震わせていく。



「……ニュースを見たんだ。ここ最近、この辺であった傷害事件の犯人が捕まったってやつ。安心するべきなんだろう。実際僕の家の近くでも犯行があったらしいし、物騒な世の中だ。僕だけじゃなく、家族や嶋村さんだって被害に遭うかもしれなかった」


 自分の声すらもほんの僅かにしか聞こえない。今の僕が感じるものといえば、左手の上に乗せられた嶋村七海の手の温もりだけだ。


 殆ど無くなった視界の中で見えたものは、何も言わずに僕のことを見ている嶋村さんだった。妖しく光る眼を光らせながら、蜘蛛の巣の中心で踠いている僕を楽しそうに見ていた。


「でもさ、違うんだよ」


 抗うように、左手に力を込める。爪が肉に食い込むことで発生する痛みが、幾許か視界を元に戻してくれたような気がした。


「僕は、僕はどうにも納得できないんだ。一連の事件の犯人が、あの男だったなんて、とても思えない。だから、教えて欲しいんだ」


 自身の手を彼女の手の甲に乗せる。乾き切った口から、血の味がした。それでも、言葉は止まることはない。感情に身を任せながら、嶋村さんの目をまっすぐ覗き込んだ。


 僕の水晶体が映し出す嶋村七海は、表情を変えることはなかった。それでも、問わなければならない。


「森本さんを襲ったのは、嶋村さんなんだろう?」


 僕と嶋村さんの二人しかいない密室であったが、空気が張り詰めたような気がした。


 答えが欲しい。ただそれだけなのだ。事実であっても間違いであっても、彼女から口にした言葉で確信を得たかったのだ。当然、間違いであって欲しいという気持ちの方が大きい。


 認めてほしくないのだ。彼女がそんなことをするとはとても思えないし、思いたくない。僕が好きになってしまった女の子が、クラスメイトに襲いかかっていたなんて、僕の勘違いであってほしいのだ。


「そうだよ」


 願望、希望を抱いているときほど、それは容易く裏切られる。なんという事もなく、当然のように答えられた彼女の言葉は僕の胸を突き刺すように放たれた。


 何も言えないでいた僕に向かって嶋村さんは静かに、口角を大きく上げて笑みを浮かべる。僕はその笑みを見て息を呑んだ。


 窓から入る太陽の光に照らされた彼女の笑顔は、ありとあらゆる芸術を遥かに凌駕するほど神々しく、美しく見えた。今まで見てきた嶋村七海という人物が見せてきた様々な表情のなかで、今の彼女が浮かべている笑みが一番美しかったのだ。彼女になら、殺されてもいい。圧倒的な美貌に、そんなことさえ思ってしまうのだ。


 蜘蛛の巣の中心で動くことをやめた僕の手の甲に、嶋村さんが爪を立てた。手に走る鋭い痛みが、今の僕にはなんだかとても心地良く感じた。

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