ダメに決まってるだろ 後編
嵐のような口付けは終わり、嶋村七海は潤んだ瞳で僕の顔を真っ直ぐ見つめていた。彼女の艶のある唇が妖しく光っている。そしてそれを舐める赤く長い舌が先程まで僕の口腔内を暴れ回っていたことを思い出すと、脳どころか全身の臓器が爆ぜそうになる。
頭の奥底で暴れ回る衝動をなんとか抑えつけていたが、理性の限界は近い。このまま身を委ねてしまえばどれだけ気が楽になるのだろうか。
『押して押して押して押し倒しちゃえよ。案外、イケるかもよ』
耳の後ろ側で孤塚の声が反響する。垂れ下がっていた手を彼女の腰に回し、滅茶苦茶にしてしまいたい欲求が脳の中で飛び回ってく。自分の中で湧き上がる、炎のような情動に段々と呼吸が浅く早くなり、視界が狭くなっていく。
僕の視界には嶋村さんの綺麗な顔しか見えていない。混ざり合ったふたつの視線が絡みついて離れない。このまま溶け合ってしまえば、どれだけの快楽を得ることが出来るのだろうか。僕だって思春期真っ盛りの年頃だ。そんな事を考えなかった事がなかった訳では無い。しかし、彼女のとてつもない美貌を見てしまうと、未だに感じる現実感のなさにそういった考えは一瞬で霧散してしまうのだ。偉大な芸術家が描いた裸の女神の絵画に性的興奮を抱かないように、神々しさのようなものを先に感じてしまう。
それでも、彼女の瞳が宿しているものは清らかな女神のような侵すべきではないような美しさではなかった。女神は女神でも、人の悪性や本性を何もかも受け入れて人の精神を奈落の底へと突き落とし、骸を抱いて静かに微笑む魔性の蜘蛛の化身。彼女の蜘蛛の糸に絡めとられてしまった僕は、これからどうなってしまうのだろうか。
視線を上げると心臓が大きく跳ねる。先程のものとはまた違う感覚。心臓を握りつぶされるような動悸が僕に襲いかかるが、なんとか平静を保つことに成功した。しかしその動悸のせいで彼女に声をかけるタイミングが喪失してしまう。ひたすらに頭を回転させるが、ただただ沈黙だけが続いていた。
人気のない裏路地で、抱き合ったまま動かない二人。側から見れば二人の世界に没入していると思う人がいるだろう。実際のところはこうやって、何も出来ないだけの場合も存在するのではないだろうか。嶋村さんのいつもより早く激しい心音を感じながら、どこか他人事のように考えていた。
「ごめん」
暫くの沈黙が続いた後、捕食されて呑み込まれる直後の僕に彼女が放った言葉は謝罪の言葉であった。一瞬の間に嶋村さんの瞳から急速に熱が失われていて、あまりの温度差に僕の頭の中も急速に冷やされていく。
こういう時は、何を言えばいいのだろうか。何をすればいいのだろうか。お互いの吐息すら感じられる距離のまま、僕たちは密着したまま何も言えずにいた。
「嶋村さん」
「ごめん。こんな形でなんて、よくなかったよね」
絞り出すように言えた言葉も、彼女の呼び名ぐらいだ。ここから先が、何も出てこなかった。僕の言葉を遮るような彼女の声は、細く消えそうなほど弱々しいもので、何が嶋村さんを駆り立てたのかはわからない。そんな彼女の声を聞いていると、僕の側頭部あたりがじんわりと熱を放ってくる。その熱のままに動いてしまえば、僕は彼女に恐ろしいことをしてしまうだろう。
唯一まともに動いていた脳の前の方をフル稼働させて、意思の力で雑念をひたすらに振り払う。彼女に悟られないように口の中を軽く噛む。口内で鋭く走る痛みが、僕を幾分か冷静にさせた。少しだけ冷えた頭は、嶋村さんへの気持ちを言葉にできた。
「いいんだ、なんていうか、嬉しかった」
初めての口付けがこんなことになるとは思ってもいなかったのは事実だ。それでも、嶋村さんとできたこと。その事実が全てを上塗りしていた。
出来るだけ優しく嶋村さんの背中に手を回す。強く抱きしめると、耳元で嶋村さんが小さく声を上げた。初めて自分から抱きしめた彼女はまるでガラス細工のように繊細で、力を込めすぎたならば粉々に砕け散ってしまいそうだ。もし砕け散ってしまったなら、バラバラになった嶋村七海の破片は僕を傷つけてしまうだろう。その傷は決して癒えることがなく、僕の肉体を抉り続けるだろう。
再び熱を持ちはじめた側頭部から声がする。それはとても悍ましいものだった。彼女を傷つけろ。侵すべからずものを踏み躙り蹂躙して凌辱して冒涜しろ。ありとあらゆる情欲を突き立ててしまえ。消えない傷跡を刻みつけろ。
自らの頭から出てきたとは思えない程に恐ろしい考えは、微かに聞こえてきた嶋村さんの温かな吐息によって中断される。このままだと彼女に対して本当にとんでもないことをしてしまいそうな気がして、急いで腕の力を緩めた。少しでも気を抜くと衝動に全てを持っていかれそうな気がする。そして、そんなものを自分がいつの間に仕舞い込んでいたことに恐れを抱く。
これではまるで破綻者のようではないか。美しいもの、貴ぶべきものを破壊・汚染することに喜びを見出そうとしている自分自身を自覚し、嶋村さんの背中に回した腕を完全に解く。目の前で少し寂しそうな顔をしていた彼女の眼が一瞬だけ再び妖しく輝いたのは、おそらく気のせいだろう。
そのままゆっくりと下がり、僕たちは密着した状態から離れていく。2回目ではあるが、やはりこの瞬間は寂しいものだ。徐々に無くなっていく彼女の体温が名残惜しく感じてしまうが、それと同時に薄れていく側頭部の熱に若干の安心感を得ていた。
未だに目を伏せている嶋村さんの手を取り、引っ張っていく。順番がごちゃごちゃな気がするが、初めて自分から彼女の手を取った気がする。殆ど勢いでの行動だったが、握り返してくれたあたり孤塚が言っていたことは間違いではなかったかもしれない。
「帰ろう。貫田さんや孤塚には、この事は内緒にしようよ」
口角を上げることを意識しながら、嶋村さんに笑いかける。冗談を言っているつもりではなかったけれど、嶋村さんは一瞬驚いた顔をしたあと微笑んだ。
「――ありがとう」
そこからは、僕たちは何も話すことなく帰り道を進んでいった。無言で電車に乗り、無言で電車から出て、無言でいつもの交差点へと歩いていく。それでもいつもの場所でいつものように別れるまで、僕たちは繋がれた手を離す事はなかった。
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