乾きたくないんだ 後編

 今日の全ての予定が終わったことを告げるチャイムがなる。放課後の始まりだ。部活動がある生徒は足早に活動場所へと向かっていくし、僕達のような未所属の生徒は帰宅の準備を進めていく。何らかの部活動に入らなければならない学校もそれなりの数が存在するようだが、この久我西高校では幾つかの部が結果を出しているからか、そこまで生徒を縛り付けるような校則はない。


 だからこそなのかもしれないが、部活動に参加している生徒が先に教室を出るまで未所属の生徒は残る。誰かが言い出したようなことではない。彼らが部活の準備で慌ただしく動き回るのを邪魔してはならないとか、単純に廊下を混雑させるのがよくないとかいろいろ考えられるが、実際のところはわからない。俗に言う暗黙のルールというものだ。5分程度のことなので、今ではもう気にすることもない。


「というワケでみんな、お先ー!」


 狐塚は教室の引き戸の前で馬鹿でかい声を出して片手を振り回し、廊下へと飛び出していく。彼の肩には大きなエナメル製のショルダーバッグが下げられていた。たまに忘れそうになるし実際今まで忘れていたのだが、狐塚恒之は野球部に所属している。しかも来年にはエースとして球場のマウンドの上に立つらしい。野球部といえば坊主頭というイメージが強いからこそ、短髪とはいえ綺麗に切り揃えられた髪型をした彼が野球部に所属しているイメージが湧かないのだ。


 一度、練習しているところでも見てみるか。そんなことを思いながら筆記用具をカバンに詰め込んでいく。教科書などは教室にある個人用の棚に押し込んではいるが、あと数日で夏休みだ。少しずつ持ち帰らなければ、最終日に痛い目を見るだろう。もう秋まで使わなそうな美術の資料集を持ち帰る為に棚に行くために椅子から立ち上がり足を踏み出した瞬間に後頭部に視線を感じる。振り向かなくてもわかる。嶋村さんのものだ。彼女が僕に向けるものはいつだって最優先で受け取らなければいけない。そう決めている僕は資料集のことなど吹き飛ばし、視線の方向に顔を向ける。


「お疲れ様。今日は真っ直ぐ帰るの?」


 嶋村さんは敢えて足音を立てながら、もう殆ど人がいなくなった教室の机と机の間をすり抜けるように僕の方へと歩いてくる。僕と彼女の関係など、クラスどころか学校中に知れ渡っている。いちいち僕に向かって歩いてきたところで、もうクラスの人達などいちいち反応などしない。


「そうだね。何処か行きたいところとかあるなら、付き合うよ」


 僕自身もクラスメイトの視線が刺さることのなくなったことに安堵しているからこそ、彼女の言葉に幾らかの余裕を持って対応できるのだろう。ぎこちなかった笑顔はいつの間にか、自然に出る笑顔に変わっていた。


 嶋村さんはいつものように黒く艶のある長い髪を靡かせながら優しく微笑む。美人は三日で飽きるというのはただの戯言だ。彼女の笑みは何度見ても飽きることはない。この教室で見せるその表情よりも、あの怪しげな笑みや『潤い』を満たすあの苦しげな顔は僕にとっては更に美しいものであっても、だ。


「そう言ってくれると思ってた。夏休みのことでちょっと相談したいことがあるんだけど」


「なるほど。構わないというかむしろ歓迎だ」


 僕の言葉に嶋村さんは大きく頷き、鞄を小さく掲げる。そろそろ帰るタイミングだと告げる、彼女のサインだ。棚から資料集を素早く掴み、鞄へと詰め込んだら帰る準備が完了する。少し大きな本なのでファスナーが閉まりづらかったが、気にはしない。


「じゃあ、行きましょうか」


 運動部の人達の喧騒は完全に廊下から消え失せている。僕達以外の帰宅部の人たちも教室から出始めていて、気付けば僕と嶋村さんの他に数える程しか残っていなかった。教室の隅で携帯ゲーム機を持った何人かのクラスメイトを一瞥し、僕達は廊下から昇降口を通って帰路に向かう。


「私の家でいいよね」


 蒸し暑い風が吹き、太陽は燦々と輝いて僕達の身体を急速に熱していく。あと数日で夏休みということもあり、夏の虫の代表格である蝉の声が至る所で聞こえている。自然に包まれた町であるこの久我は、一定間隔で街路樹が植えられているし、自然豊かな公園も点在している。木が多いということは、そこに留まる蝉達も多いということだ。360度から聞こえてくる夏のオーケストラが、暑苦しさを増長させていく。


 彼女の言葉に異論はないが、どうにも嶋村さんの家という場所は落ち着かなくなる。学校の敷地内で『潤い』を補充した身としてはまるで説得力がないのだが、あの狭い空間で彼女と二人っきりになると自分で自分を抑えられなくなるような気がするのだ。彼女はそれを受け入れるかもしれない。それでも、思春期特有の性欲の爆発を向けているだけなのかもしれない。そう考えてしまうと、彼女の張る蜘蛛の糸に絡め取られることに微かではあるが不安を覚えてしまうのだ。


 僕の身体を熱くしているのは、夏の暑さだけではない。額を流れる汗程度では、一向に冷える気がしない。


「大丈夫だよ。今の肱川くんなら、大丈夫」


 鈴のように透き通った嶋村さんの声が、僕の耳孔を通り抜けて脳を揺らしていく。大丈夫とはどういった意味で言われたものかはわからなかったが、僕の足は止まることなく嶋村さんの隣を歩き続けていく。


 数分後には気負っていた割にはあっさりと嶋村さんの自室へと到着してきた。すぐに用意してくれた冷たいお茶が注がれた青いマグカップを受け取り、中身を一気に飲み干すと火照った身体が幾許か冷まされていく。


「ねぇ、次はどうしようか」


 音もなく僕の隣に座っていた嶋村さんが、妖しく笑いながら囁く。彼女の言葉が何を意味するのかなど、今の僕にとっては容易く理解できるものだった。


「そうだね、嶋村さんのやりたいことをしようか。僕は、君の『潤い』を満たす手伝いがしたいな」


 彼女は誰かの人生を滅茶苦茶にする事で『潤い』を得る。嶋村七海という存在に溺れる僕の人生を間近で見ることによって、彼女自身はどう思っているのだろうか。聞くことは容易いが、こればかりは聞く気にはならない。だからこそ、彼女の問いかけに対してこのような返答をしたのだ。彼女が僕の『潤い』の為にその身を差し出したように、彼女の『潤い』の為に僕は何でもしよう。何もかも壊してしまおう。時計の針が刻まれる音と、冷房が部屋を冷やしていく音が真っ白な部屋を支配していく。


「だって僕は、嶋村さん……七海の恋人なんだから」


 流れるように口から出てきたのは、彼女の名前だった。目を見開いて驚く彼女は、一瞬硬直したあとに両手を伸ばしながら僕に向かって飛びついた。背中に回された彼女の手が、僕の身体を締め付けていく。


「ふふ、くふふふふふ、そうね。そうだね。嬉しい、嬉しいわ肱川くん」


 不意に力強く抱きしめられたことの驚きよりも、僕の鼓膜を激しく揺さぶる彼女の扇情的な笑い声に意識を持っていかれる。よく考えてみれば笑顔を浮かべることはあっても、声を上げて笑うようなことが今まであっただろうか。耳元で笑い続ける声に、僕の後頚部あたりがぞわぞわとするような感覚を覚えた。


「楽しい夏休みにしよう、ね」


 勿体ぶるようにゆっくりと離れた嶋村七海は、目を爛々と輝かせながら満面の笑みを浮かべていた。


 の言うとおり、楽しい夏休みになりそうだ。

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