僕と彼女の破壊衝動 前編

 久我の町を包み込む蝉の声はもう最高潮を迎えていた。コンクリートで埋め尽くされた都会の人々ならば耳を押さえそうなほどのボリュームではあるが、ここに住む僕たちにとっては慣れたものだ。縁側で静かに鳴る風鈴の高い音のように、夏を象徴する音。その一部でしかない。


「さて、と」


 ベッドから身体を起こす。窓を閉め切っているというのに、蝉たちの喧騒ははっきりと聞こえている。殆ど騒音である自然の混声合唱に一瞬だけ眉を顰めてしまった。


「七海、君は今、乾いてるのかい?」


 不快感を情愛で覆い隠し、隣で寝ている七海に声をかける。僕と同じく、一糸纏わぬ姿の彼女はいつものような優しげな笑みを浮かべながらゆっくりと起き上がる。シーツと肌が擦れ合う音が妙に艶かしく聞こえた。


 まるで陶器のように滑らかな白い肌と、それに絡みつく黒く長い髪。ありとあらゆる『無駄』を一切排除した彼女の裸体は、美そのものであり、古今東西全ての芸術家が夢想し表現した全ての作品よりも絶対的に美しいものであると断言出来る。何度も見たはずの彼女の生まれたままの姿であるが、見飽きたことなど今までないし、これまでも決してないだろう。


「ええ、とても。このままだと私、自分が自分でなくなっちゃいそう」


 彼女の肌には無数の傷が刻まれていた。爪痕、噛み痕、打痕、圧迫痕。ありとあらゆる傷痕が、美の象徴である嶋村七海という存在を僕が蹂躙して侵して汚したことを証明する決定的な事実であり、それこそが僕の『潤い』なのだ。侵すべきものを侵し、綺麗なものを汚す。触れれば壊れてしまいそうか硝子細工を地面に叩きつけて粉々にしてしまった時に感じる開放感が、渇ききっていた僕の心を潤すのだ。


 僕の眼を真っ直ぐに見つめている七海の眼は光を放ちそうな程に爛々と輝き、内側に秘めている狂気を隠すことなく表していた。きっと彼女の肌に爪を立てている時の自分は、今の彼女と同じ眼をしていたのだろう。傷だらけになっても、僕の渇きを満たすために望んでその身を差し出した七海に全てを吹き飛ばす暴風のような愛情が僕の胸の奥で暴れ回っていく。


「じゃあ、できる限り早く潤さないとね」


 誰かの人生を滅茶苦茶にする事で、自身の人生に彩りを与える。彼女が今までやってきた事、これからやろうとしている事は傍から見れば到底理解の外の出来事に見えるだろう。だが一歩下がって考えてみれば、人がヒトとして生きている以上、当たり前に存在するものだ。


 この人間社会のなかで、他人と争わずに生きることはほぼ不可能だ。この夏の空の下、野球場で白球を追いかける高校球児も他の無数の選手を蹴落として勝負の舞台に立っている。蹴落とされた選手達は、小さい頃から抱いていた夢と希望と将来を踏み躙られて悔し涙を流して去っていくのだ。誰かの人生が潤うならば、誰かの人生が荒んでいくという世界のバランス。それを嶋村七海という女性は身をもって感じたいだけなのだろう。


 彼女の細い指が僕の胸に優しく触れる。触れるか触れないか程度の、まるで羽毛が撫でるように曖昧なものだ。こそばゆい刺激に僕の脳の内側がじわりと熱を持ちはじめるが、今は彼女のことが最優先だ。理性をもってそれを律する僕を見て、七海は妖しく笑った。


「そうね、今夜辺り、どう?」


 太陽はまだまだ僕たちの頭上で燦々と熱を放っている。一定のリズムで時を刻み続ける壁掛け時計は、午後二時を示していた。日没は大体ではあるが午後7時過ぎ頃だろう。時間はまだまだある。ゆっくり準備しても、問題はない。


「そうだね。なにか計画とかあるのかい?」


 他意はなかった。嶋村さんのことだから、僕のように衝動と欲求に駆られた単略的な行動ではなく、緻密な計算と計画をもって行われていると思っていた。ただ、それだけだ。


 深い意味もなかった問いかけに、嶋村さんは不思議そうな顔をして僕の顔を覗き込む。僕の眼を見て何かを察したのだろうか、焦らすように微かに口角を上げた。


「水を飲むのにわざわざ計画は練らないわ。やりたいようにやる。ただ、それだけ。流石に顔は隠すけどね」


 自分で自分の顔を見ることはできないが、今の僕は驚いた顔をしていたのだろう。七海は赤い唇をちろり、と舐めながら口角を上げる。いつ見ても彼女の仕草は妖艶で、とても僕と同い年には見えなかった。


「でもバレたじゃない。肱川くん、貴方にね」


 気づけば七海は僕のすぐ隣にいた。触れ合ってもいないのに、彼女の体温を微かに感じることができる。焦ったいかもしれないが、セロトニンが分泌されそうなこの距離感が僕にとって一番好ましく感じる時もある。幸せを感じると例えた方が正しいのかもしれない。それでも、僕は荒れ狂う嵐のような衝動を選択してしまうのだが。


「でもね、貴方も私と同類よ。だからあの場所で、私がやったことを見ることが出来たし、私を見失った。だって、よく考えてみれば分からない? 全力で走ったら私ぐらい、簡単に捕まえられるはずなのに。肱川くんは私を追いかけなかった。目の前で倒れた森本さんが心配じゃなくて、追いかける気がなかったんでしょ? 私だって気づいていたんだから」


 彼女の言葉に、何も答えることはできなかった。何故あの時追いかけなかったのか。あの長い髪を見た瞬間に七海だとわかるほどに近くにいたのだ。少し走れば簡単に取り押さえることぐらいはできたのに。何故警官に尋ねられた時に七海のことを言わなかったのか。あの時は彼女がそんなことをするはずがないと自分で自分を正当化していたが、まともな正義感があったならば警察官に事情を説明していたはずだ。彼女の言葉で全てに合点がついた。僕は、あの時から蜘蛛の糸に絡め取られていたのだ。


「だからね、私は貴方のことが気になったのよ。次の日の朝、貴方の眼を見た瞬間に、確信した。私は貴方の、貴方は私のものになるために生きてきたんだって。視界がクリアになったような、そんな気がしたの」


 ゆらり、と彼女の両手が僕の背中に回される。捕食されることなく、ぎゅっと抱きしめられる彼女から伸びている、太陽の光を浴びて艶めく黒く長い髪の感触が少しだけくすぐったく感じた。ゆっくりと髪を撫でているだけで、幾らでも時間が過ぎ去っていきそうだ。


「だからね、肱川くん」


 耳元で囁かれた言葉は、囁くようで力強かった。背中に回された彼女の両指が僕の背中に食い込んでいく。爪を立てられ、血が出そうなほどに深く刺さっていたが、不思議と痛みは感じなかった。続く彼女の声を聞く為に、全神経を集中させていたからだ。


「貴方の全てを、私に頂戴?」


 ぞわり、と背中が逆立つのは彼女の吐息によるものではない。それは、いつか見た夢の中で現れた彼女と一字一句違わぬ言葉。夢と現が重なり合った瞬間、僕の思考は完全に活動を止める。無意識が僕の声帯を震わせ、自然に言葉を発していた。


「勿論」


 視界がどんどん広がっていく。このままどこまでも行けそうだ。何だってできそうだ。どこまでも、どこまでも堕ちていこう。彼女と二人きりでいられるならば、何も恐れるものはない。僕と彼女の破壊衝動は、誰にも止めることはできないのだ。

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