僕と彼女の破壊衝動 後編
「あー、今夜は友達の家に泊まるから。帰るのは明日になるよ」
『そう、くれぐれも失礼のないようにね』
「わかってるよ、じゃあ」
通話を終えたスマートフォンをポケットに突っ込む。窓の外は間もなく漆黒へと切り替わっていた。もう夜の帳は完全に降りていて、七海の渇きを潤す時間になっている。
「よし、行こうか」
彼女は何も答えず、玄関のドアへと歩いていく。手に持った小さなカバンには『道具』が詰め込まれているのだろう。誰かを傷つけることでしか、己の人生の充実を認識できない彼女にとっては、カバンの中身が薬箱のようなものに感じているのだろう。
僕は彼女のすぐ後ろを歩きながら、心臓のビートが加速していくのを感じていた。それは、これから起こるであろう凶行により人生が変わってしまう人への不安と、それとも腕を振り下ろした直後の彼女の歓喜に歪んだ表情を無意識のうちに発生している興奮の両方であり、どちらかというと興奮の度合いの方が大きい。もう既に、僕の全ては嶋村七海に捧げきっているのだ。
ドアをくぐり抜け、外に出る。久我の町を満天の星空が見下ろしている。頭上にてベガ、デネブ、そしてアルタイルが眩く輝くアステリズムを形成し、夏の夜空をロマンティックに演出していた。だが七海は空を見上げることはなかった。彼女の心を震わせるのは煌びやかなアクセサリーでも豪華な晩餐でも、夜空に煌めく星達でもなく、人生が粉々に砕け散る音なのだ。
「適当に歩きましょう。いい感じの人がいればいいんだけれど」
僕の腕を抱き寄せ、組みながら夜の久我を歩いていく。耳を塞ぐほどに大音量だったセミ達の鳴き声は、カエルと虫達の混声合唱へと変わっていた。静かではあるが優雅で壮大な自然の旋律は、星が輝くこの夜には絶好のハーモニーだった。
もう夏休み。8月になる直前だというのに、蒸し暑い夜風が僕と彼女を通り抜けていく。これから僕たちは、どういう夏休みを過ごすのだろうか。そして何より、僕たちはどうなってしまうのだろうか。
「肱川くんは見ているだけでいいからね」
微かに膨らみ始めた不安を見透かしたように、七海は笑う。いつものような柔らかな笑みが、彼女にとって何気ない日常であることを示していた。
「私が、私であることを見ていてほしいの」
そう言って七海は抱いた僕の腕を強く引っ張っていく。彼女の足取りは早く、それでいて力強い。星の光を妨げる街灯の明かりが、彼女の黒く長い髪の毛を照らしていく。その流れるような髪の動きに、つい見とれてしまいそうになる。
「この辺りにしましょうか」
七海が足を止めたのは、市の外れの方にある数ある公園のひとつだった。春に森本さんを襲った公園とはまた違うが、同じような構造をしたところだ。この久我の町には、このような公園が点在している。まさか都市計画を立てた人は、この田舎町でこのような行為を行う住人が出てくるとは思ってもいなかっただろう。
こんな夜の町外れの公園に人がいるのかはわからないが、七海は僕に絡みついていた両腕を解き、駅前にあるアナグマグッズ店に入る時と全く同じ表情をしながら入口にある車止めの間を通り抜けていく。
彼女の後ろをついていく。足元はインターロッキングブロックが舗装されているが、あまり手入れがされていないのか普通に歩けばコンクリートとコンクリートがぶつかる音がしそうな程に敷設が甘いものだった。この夜闇の下ではところどころぐらついたそれを踏んでしまえばバランスを崩してしまいそうになる。気をつけて歩かなければならないと身構えている僕の前を歩く七海は、まるで空中を歩いているのではないかと思えるほどに音もなく軽やかに歩みを進めていた。
街灯は確かに存在しているが、肝心の数が少ないのか公園はまだまだ薄暗い。夜目が効いていない状態でなければ、足元すら良く見えないほどに夜の闇は勢力を強めていた。視覚が頼りにならない分、他の感覚が鋭くなっていく。夜のオーケストラもどの辺りからどれぐらいの音が聴こえてくるか段々と分かってくるし、風に乗って微かに香る土や葉の匂いも感じ取れるようになってくる。
だから、わかってしまったのだ。
この公園には、誰かがいる。
姿形まではわからない。だが確実に存在する。嶋村七海の人生に潤いを与えるための生贄の羊が、ここにいるのだ。もう間もなく彼女の振り下ろす手によって誰かが深い傷を負い、その叫びや嘆きが七海の心を満たしていくのだ。この人間社会に生きていくにあたって、これほどに適さない考えはあるのだろうか。ある意味で殺人衝動よりも性質が悪いかもしれない。殺してしまえば、対象の将来はそこで終わる。しかし彼女は、将来を潰した対象が苦悩して涙する瞬間を夢想することで悦びを感じるのだ。全くもって難儀な生き方だ。
僕も彼女の凶行をスプラッター映画を観るようなスリル溢れる決定的瞬間を見たいと思っている訳ではない。ただ彼女に寄り添う為に見届けたいと思っているだけなのだ。そんな自分自身も、彼女と同じく救いようのない存在なのだろう。
「ここから動かないでね」
鼓膜を微かに振るわせる、風の音に乗ってやってくる七海の微かな囁き。木の葉と木の葉が掠れ合う音よりも小さいかもしれない声は鋭敏になった聴覚ですら辛うじて聞き取れるようなものだ。いつの間にか4メートルほど離れていた七海は小さなカバンから棒のようなものを取り出す。ステンレス製であろうその銀色のものは、辺りを仄かに照らす街灯の光を浴びて鈍く光っていた。
夜目に慣れた視界の中で、七海が視線を向けている先には、確かに人影が見えた。目を凝らして見てみると、スーツを着崩した壮年の男性と見られる人がベンチに座っていた。飲み会から帰ってきて疲れたのか、上を向いて眠っているようだ。その男は働き盛りというか、潤いのないまま20年も過ごしていたら僕もこんな感じになっていたのではないか。そう思えるような風貌をしていた。漠然と働いて、漠然と家族を養っていく。渇ききったまま生きていく人生。初めて見るはずの男に、何故か『ありえた僕の可能性』を感じていた。
その男以外には人の気配はない。まるで獲物にゆっくりと忍び寄る蜘蛛のように、音もなく男の側に立っても、男の寝息は途切れることはなかった。あと間もないうちに、七海の持った鈍器は男の頭頂部に振り下ろされるのだろう。はじめて見ることになる、彼女の渇きを満たす瞬間は近い。まるで三日月のように、彼女の口角が大きく上がった。
何か硬いものを潰したような音が聞こえてきた時、ふと気づいてしまった。たった今彼女が壊したのは、男とその周りの人間の人生ではなく、僕の可能性と未来も粉々にしてしまったのだ。七海が右手を振り下ろした瞬間に僕は行き着く先に向かって進み続ける事を選択した。その先にどんな光景が広がっているかわからない。眩いばかりの祝福の光が満ちているかもしれないし、底知れぬ絶望の闇が広がっているのかもしれない。
それでも、選択したのは僕自身なのだ。往く道がどのようなものであったとしても、僕自身の意思に従って、七海と一緒に歩いていくことを決めたのだ。肱川統義の全ては嶋村七海のもので、嶋村七海の全ては肱川統義のものだ。
自分自身の頬を流れる涙が、世界を洗い流していく気がした。綺麗になった視界のなか、潤いを取り戻した七海が優しく微笑んでいる。
「これから、どうなるんだろうね」
「さぁね。でも、楽しくなることは確かさ」
衝動のままに生きていこう。僕たちには、それができるのだから。
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