ごめんね
夏は一瞬で通り過ぎ、秋を飛び越えて冬になった。肌を突き刺す太陽の光も、今では欲してやまないものに変わっていた。真夏の太陽の暑さは我慢できるが、木枯らしの寒さはどうにも耐える事ができない。そして、この冬は特に我慢ならない。それはこの身に吹き付ける風の冷たさや、命の終わりを連想させるぶ厚い雲だけではない。
あの夜、あの公園で美しく嗤っていた七海は無言で何処かへと走り去ってから僕の前から姿を消してしまっていた。いくら追いかけても、叫んでも。まるで初めから居なかったかのように、陽炎のように一瞬で消えてしまったのだ。探しても探しても探しても探しても、彼女がどこに行ってしまったのかわからなかった。
ずっと感じていた彼女の温もり。一日でも感じられないとどうにかなってしまいそうだったというのに、それが延々と続く日々に僕の心は急速にひび割れていった。表面積が増えた分だけ七海を求める想いと渇望は日に日に大きくなっていく。それと同時に、僕の視界はだんだん狭くなっていった。
当然彼女の住んでいたアパートに足を運んだが、既に引き払われていた後だった。学校にも姿を現す事はない。一縷の望みに掛けて教師に頭を下げて頼んでも、連絡先はあの住所しかわからないということだった。自力で情報を集めようとしても、何も収穫はなかった。何度も電話しても聞こえてくる無慈悲なコール音と、悔しさと焦燥感が真冬の乾雪のように急速に積もり積もっていく。両親と連絡が取れない以上、警察に連絡をすることもできない。そもそも、傷害事件の加害者である彼女のことを警察に頼んだりしたのならば、何かしらの問題が発生しそうだった。こんなところで足止めを食らってしまうことなど、誰が想定したものか。
選択肢が一つしかなくなってしまった僕に出来たことは、毎日あの集合場所で待ち続けることぐらいだ。半ば強迫観念に近い義務感に駆られた僕にとっては、周りの住人や他の学生の奇異な視線などまるで気にならなかった。彼女に会うことのできない苦しみに比べれば、そんなものは乾いたタオルで優しく撫でられたようなものだ。朝日が昇ってから、通学時間のギリギリまで。放課後の直後から、日が沈んで夜が町を包み込むまで。晴れの日も雨の日も毎日毎日待ち続けた。いつもの場所で、いつかのように僕に向かって微笑みかけてくれる時が来る。消えることなく燻り続けている希望だけが、僕の身体を動かしていた。
しかし何日経っても、七海は姿を現すことはなかった。その事実は覆されることはなく、ただただ時間だけが過ぎていくが、僕の脳の中から嶋村七海という存在は色褪せることはない。歩いている時も、味のない食事をしている時も、眠れぬ夜を過ごしている時も、僕の頭の中に彼女が存在していた。だがそれは、あくまで僕の創り出した虚像のものでしかない。いくら想像の中の彼女を抱きしめたとしても、僕の中で暴れ回る感情は収まることがない。
七海の指先に触れたい。七海の体温を感じたい。それだけを願い続けていた。久我の町の象徴の一つである並木道の木々に辛うじてへばり付いていた木の葉が全て無くなった時には、自分がどうして日々を過ごしていくのか、曖昧になっていた。何も起きない、平凡な日常。ただ繰り返される、飽き飽きの連続。自分が肱川統義で無くても、何も問題がないのでないか。彩りが全くないモノクロの日々を過ごしていた。
無意識のうちに家を出て、無意識のうちに集合場所で待ち続けた。きっかり1時間待ったあと、足を引きずりながら学舎に向かう。遅刻寸前のタイミングで教室に着くあたり、まだ僕自身の理性は僅かに生き残っているのだろう。いつ自席の椅子に腰掛けたのかも、記憶にない。
「なぁ、肱川……ちょっと最近のお前、洒落にならないぞ。なんていうか、その、死体そのものっつーか。このままだとお前、マジで死んじまうぞ?」
孤塚の声にも、答えることはできない。実際、今の僕は生きながら死んでいるようなものなのだ。七海と歩いた最後の夜、行き着く先へと辿り着いた僕の魂は彼女と共にどこかに行ってしまったのだ。言ってしまえば、今ここにいるのはただのヌケガラだ。蝉のヌケガラに生命が存在しないように、一人の男の残骸が椅子に座っているのだ。
「嶋村さん……一体何処に行っちゃったんだろうね。私、こんな肱川くん見てられないよ。早く元気になってほしいなぁ」
耳に入る貫田さんの声もひどく弱々しいものだが、僕の眼球は動くことはない。恐らく小柄な体を縮めているであろう彼女の姿に視界の焦点は合わないし、どういう表情をしているのかすらも分からなかった。太陽が昇っても、落ちていても変わらない。僕にとっては、真っ暗闇と同義なのだ。
「だなぁ。早いところ帰ってきて肱川を引っ張り戻して欲しいモンだぜ」
二人の心配する声が、本心から出てきたものであり、僕や七海のことを案じてくれている。ヌケガラの僕をここまで運んでくれた、微かな理性の絞りカスがそのことを理解しなかったわけではない。二人に対する感謝の念よりも、七海への渇望の方が遥かに大きい。ただ、それだけなのだ。
授業の始まりを告げるチャイムが微かに聞こえる。「無理だけはすんなよ」という孤塚の言葉も、やけに遠く聞こえた。授業の内容など当然耳に入らない。まるで死骸のように座る僕を、教師が指すこともない。僕の身体の周りだけが、世界に取り残されてしまったようだが、七海への渇望は枯れることはない。
気がつくと昇降口を抜けて集合場所にいた。毎日毎日同じところに立ち続ける僕を周りの人は地蔵か何かだと思っているかもしれない。時間の感覚も曖昧になったまま、ひたすらに待ち続けた。僕がここにいなければ、世界中の人たちが彼女のことを忘れてしまうような気がしたからだ。誰かを傷つけることにより、誰かの人生に強い影響を与える。そうしないと生きてはいられない七海にとって、人々から忘れ去られることは耐え難い苦痛のはずだ。渇いて渇いて渇いて渇いて、踠いているかもしれない。だからせめて僕だけは、彼女のことを忘れないようにしたかった。
それでも世界は時を刻み続ける。年が切り替わり、冬休みになっても、七海は僕の前に姿を現さなかった。年末年始だろうと、僕の頭の中は彼女で埋め尽くされている。もはや現実と虚構の境目さえもよくわからなくなっていた。そんな状態で学校に行けるはずもない。いつしか家と集合場所と学校を行き来していた日々から、学校が消えた。それでも欠かすことなくいつもの集合場所で待ち続けた。
ヌケガラの僕の身体に微かに残った理性を繋ぎ留めていたものは、美しいものを壊したい衝動だった。生きてきたなかで最も美しいものは嶋村七海の存在そのものだ。完璧のその先にある身体を傷つけることによって満たされた潤いは、僕にとって他の何にも代えられぬ快感であった。少しでも衝動を満たし、僕が僕でいられるために、七海に会うために行動する必要があった。夜な夜な家を抜け出し、ヴァンダリズムを満たすために様々な物や場所を壊し、燃やし、汚してみたもの、ほんの一時しか満たされることはなかった。
渇いていくスパンが徐々に短くなっていく。擦り減っていく僕の心をなんとか繋ぎ止めているうちに、冬の寒さが和らいでいく。学校に行かなくなってそれなりの日数が経過していた。いつもの集合場所に立ち続けていた僕は、昇りきった月を見上げながら、ふと思い出す。ちょうど七海が森本さんを襲ったのとはこんな月明かりの下だった。そのことを認識した瞬間、止まりかけていた僕の心臓が大きく飛び跳ねた。それがどうしてか、理由はわからなかった。微かにしか血液を通していなかった血管が一気に膨張し、僕の脳をパニック状態に追い立てる。
止まっていたら全身の臓器が爆発しそうなほどに大きな動悸に居ても立っても居られなくなり、勝手に動き出した足が僕の身体を前に押し出される。そこからはもう、止まることがなかった。足が前に出るペースはだんだん早くなり早足から駆け足へ、駆け足から疾走へと変わっていく。予感というよりも、確信に近いものがあった。脳ではなく、脊髄が行う反射よりも速い。本能と衝動の赴くままに、久我の町を一陣の風となって駆け抜ける。肺が潰れそうなほどに空気を求めていたが、気にすることなく走り続けた。足首の骨が砕けたのではないかと思ってしまう程の激痛が響き続けていたが、構うことなく走り続けた。
急に足が止まる。辿り着いたのは、あの公園であった。息を整えることなく、公園の中を歩いていく。ハードロックよりも早い心臓のビートと、酸欠に歪む視界の中でも、見逃すことのない人影が、そこにあった。
月明かりの下、まるで神話の一幕のように、いつかと変わらぬ妖しい笑みを浮かべた嶋村七海が立っていた。
言いたいことは沢山あった。聞きたいことは沢山あったが、今の僕には言葉など必要ない。ただ、彼女の柔らかな頬に触れることができれば、それでいいのだ。這いずるように彼女に向かって手を伸ばす僕に向かって、七海の赤い唇がゆっくりと開かれた。
突如僕と七海の間を吹き抜ける風が、彼女の言葉を打ち消す。かろうじてわかった唇の動きは、『ごめんね』と動いているような気がした。
その意味を考えるよりも早く、彼女は右手に持った棒状のものを振り上げる。月の光を吸い込んで煌めくそれは、彼女の笑みと相まって幻想的なものにすら見えた。
恐怖など存在しなかった。抵抗する気など起きなかった。今度は僕が、彼女の渇きを満たす番だと理解したからだ。僕が七海に向けていた衝動を、七海が僕に返すだけなのだから、疑問に思うことすらなかった。目を閉じて、彼女の全てを受け入れる。
風を切る音と同時に頭頂部に走る衝撃と、一瞬後にやってくる激痛と何か決定的なものが粉々になったような轟音。それよりも、僕の脳の中を暴れ回る情報は幸福のほうが遥かに勝っていた。これで、七海の人生の一部になれた。僕の全てを、七海に捧げることができた。
「ごめんね、ごめんね、肱川くん。愛しているわ」
燃えるような熱さとともに急速に暗くなる視界。その中で眼球を必死に動かして脳が認識した最後の光景は、泣きながら笑っている嶋村七海の姿だった。
どうして彼女が涙を流しているかわからなかった。彼女は渇きを満たしただけなのに。求めて求めて求めていた彼女の人生の明確な影響を作り出すことのできた僕に、七海が謝る必要など存在しないのに。
『僕も愛しているよ』
そう呟いたつもりだったが、僕の気管からは掠れた声が溢れるだけだった。あれだけ僕の中で暴れ回っていた衝動は、綺麗に無くなっていた。何もない日常が、これで終焉を迎える。それだけで、今の僕には十分すぎる。
月の光が消えていく。崩れ落ちる僕の身体を優しく抱きとめた彼女の柔らかな温もりに包まれながら、僕の視界はゆっくりと暗くなっていった。
僕と彼女の破壊衝動 -告白してきたクラスメイトの美少女が、傷害事件の犯人ということを僕だけが知っている- 木村竜史 @tanukiss
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