最高さ 後編
もうすぐ夏が来る。気が付けば何事もなく数日が経過していた。嶋村さんの首に巻かれた包帯は気が付いたら無くなっていて、いつも通りの姿に戻っていた。彼女を傷つけたという事実が視覚的に確認できなくなってしまったので、再び衝動が暴れ回るのではないのかと危惧していた。しかし初めに与えられた潤いというものは僕の心の奥深くまで浸透しきっていたのか、今のところあの時のように嶋村さんを蹂躙したくなるような衝動は込み上げてくることはなかった。
それでも、僕の海馬がしっかりと記憶している。彼女の身体の熱さを。肌の柔らかさを。事ある毎にそれを思い出してしまい、身体の一部に血が集まるのは衝動のせいではなく思春期の男にあるであろう性欲の爆発であることは自覚していた。衝動とは違うそれは男として十数年生きてきた経験でどうにかできるものだ。簡単に律することができる。少し息を吸って吐けば、情欲はどこか遠くへと霧散していく。生理現象だから仕方がないとはいえ、学校のど真ん中で興奮してしまったという事実が僕の頭をさらに冷やしていく。
「肱川くん、お昼ご飯食べましょう」
そんな事など知ってか知らずか。先日の情事などなかったような柔らかな笑みを浮かべながら嶋村さんは僕の席にやってくる。嶋村さんの声に頷きで応え、席を立つ。背後で孤塚の声が聞こえたような気がするが、おそらく気のせいだろう。雑音をシャットアウトするように教室から出た僕は、嶋村さんの後ろを歩いていく。
校舎の外は太陽が登りきり、燦々と輝いている。そろそろ蝉が喚き出しそうだ。歩くどころか何もしなくても汗が滲み出てきそうな陽気だったが、前を歩く嶋村さんには一雫の汗も見当たらない。歩きながら、まさに涼しい顔をしている彼女に驚いていた。
「いいところを見つけたの」
自信ありげに歩く嶋村さんが足を止めたのは、校舎の裏だった。温厚な生徒が多いこの久我西高校においても、この久我西高校においても、素行の悪い者は存在する。そんな『先客』がいそうなこの場所は真っ先に除外していたところだ。
「なんだ、意外に人がいないもんなんだな」
余計なトラブルが起きないことに安心するが、それと同時に違和感も感じる。よく見ると足元に煙草の吸殻が何個か落ちている。煙草を吸う教師もいるだろうが、分煙を推奨するこの昨今に人の気配がないからとその辺で吸う教師など存在しないだろう。ならばこの吸殻を捨てた人間は限られていく。
バレないと思っているのだろうか。あまりにも短絡的な考えに小さな溜息すら出てくる。吸殻を蹴飛ばし、校舎の基礎周りに腰を下ろす。嶋村さんはいつものように音もなく僕の隣で座っている。気を抜いたら蜘蛛のように捕食されてしまいそうだ。僕はまだ彼女の糸に絡め取られたままかもしれないのに。
「嶋村さん、何人やったの?」
弁当を口にしながら、以前まで聞くことの出来なかった疑問を口にする。糸を振り払うつもりで意を決して言うつもりだったが、思ったより澱みなく出てきた自分自身の声に少しだけ驚く。
「三人よ。あの子の他に、あと二人」
彼女の答えは、まるで世間話のように軽いものだった。やっていることはただの犯罪行為だ。それも困窮の末に行った強盗行為や、恨みが積もった末の凶行ではない。本人の潤いの為という極めて利己的な行動だ。それでも僕は彼女を非難することができなかった。僕も、自身の潤いの為に彼女を傷つけたのだから。
「そうか。思ったより、少ないんだな」
何気なく口にしてから気付く。僕ももう、戻ることが出来なくなってしまっているのだろう。改めて感じる確信に、視界の隅に未だに転がっている煙草の吸殻が嫌に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「たまに思わない? 誰かの人生に影響を与えるような偉人は、どんな人だったんだろうって」
あっという間に弁当を食べ終えた嶋村さんがどこか遠くを見つめていた。彼女の視線を受けた薄い雲は、動くことなく佇んでいる。実際の大きさすらも分からないほど遠くにいる雲は、僕たちのことが見えているのだろうか。見えていたとしたら、潤いのために何かを壊していく僕たちを愚かだと思うのだろうか。
「私は人の人生に影響を与えるような偉業なんて、きっと出来ない。いくらテストでいい点をとっても、『それだけ』なの。それでもね、そんな私を慕ってくれる人はたくさんいた。それはとっても嬉しいことなんだけどね、ただ、違うのよ。肱川くんなら、わかるよね」
少し前の僕であったなら、理解に苦しむものだったのだろうが、今は彼女の言葉を本能で理解することができる。誰かの人生に影響を与えることによって得られる感覚というのは、耐え難い快感だ。社会に生きる僕たち人間は、この世界に生きた証を求めている。それは本能により生まれる『種を残す』こともそうだろう。伴侶を見つけ、子を成す。自分が生きた証そのものである我が子へと、命のバトンを託していく。だがそれ以上に、生きがい、とでも例えるべきだろうか。自分が自分であるという強い意志を持って生きていくことが、種の本能を超えるときも確かに存在するのだ。それこそが崖に身を投げ出すレミングのように、数が肥大しすぎた人間という種族の自己防衛システムなのだろう。
そんなシステムに、僕と嶋村さんは囚われているのだろう。それが、他人を巻き込んでしまうだけ。ただ、それだけのことなのだ。
不意に右のポケットが振動する。マナーモードにしていたスマートフォンが着信を告げているリズムだ。普段電話も殆どしない。するとすれば目の前の嶋村さんぐらいなのだが、今の彼女は手に何も持っていない。取り出して確認すると、登録されていない番号。それでもなんとなく予想がついた。『0110』で終わる電話番号は、警察署からのものだ。
もしかしたら、あの事件に関して何かわかってしまったのかもしれない。胃の奥が暴れ回り、中身を吐き出しそうになる。彼女を失うわけにはいかないのだ。無視することもできたが、連絡をしてくるタイミングが変わるだけだろう。意を決して通話のボタンをタップし、スピーカーを耳に当てる。
「もしもし」
『お昼時に申し訳ありません。久我警察のタカミと申します。今大丈夫ですか』
殆ど忘れていたが、その声には聞き覚えがあった。森本さんが嶋村さんに襲われた、春のあの日に僕の連絡先を聞いてきた警察官だ。ちらり、と嶋村さんの方を見る。彼女は何も言わず、ただ微笑んでいた。少しだけ息を吐き、大丈夫だと電話口に告げる。
『ありがとうございます。4月に久我第三公園にて、貴方が目撃した傷害事件ですが、何か思い出したことなどありましたでしょうか』
相変わらず堅苦しい話し方だな、と思うがフランクに話されても困る。警察官というのもなかなかに難儀な職業なのかもしれない。目の前にいる嶋村七海が犯人です。そんなことを言う気はもう完全に霧散してしまっている。ちっぽけな正義感によって僕の『潤い』の対象である嶋村さんを失うなんて、あってはならないのだ。
「陣内大学の近くで起きた事件の犯人が、一連の犯人じゃあなかったんですか」
『お恥ずかしいかぎりですが……どんなものでも構いません。なにか、ありませんか』
よくもここまで声色を変えずに嘘を言えたものだ。僕の目の前に、事件の犯人がいるというのに。それでも僕の心臓のBPMはロックサウンドのようなテンポだ。僕の話し方如何によっては、嶋村さんに疑いがかかるかもしれない。そうしたら、全てが終わる。考えれば考えるほど、僕のなかの『潤い』が急速に乾いていくのを感じた。
「あの時言ったこと以上のことは、分かりません。そこまで大柄じゃなかったことぐらいしか」
電話越しではあるが、僕の言葉を聞いた警察官の落胆を感じる。彼の息を大きく吸う音が、出ることのない情報により生まれていく焦りを表していた。
『なるほど、わかりました。何かありましたら、どんな些細なことでも構いませんので、この番号にかけてください」
それでは、と言い残して電話が切れる。電話口の警察官とは対照的に小さく息を吐きながらスマートフォンをポケットに突っ込む。潤いを求める衝動と、収まることのない心臓のビートが、僕の視界を急速に狭めていく。
微かに口角を上げて微笑む嶋村さんの眼はいつも通りだ。ただ、彼女の瞳に映る僕の眼だけが、爛々と輝いていた。何もかも受け入れる聖母のような表情をしながら、嶋村さんは一言だけ呟いた。
「おいで」
もう理性などでは止められない。暴れ狂う衝動のままに嶋村さんの肩を掴む。もうすぐ午後の授業が始まるとか、そういうことを考える余裕はない。乾きはじめた僕の心は、すぐに潤いを取り戻すことになるのだった。
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