乾きたくないんだ 前編

 僕と嶋村さんは高い高い崖の上に立っていた。草花が生い茂っている大地の下には鮮やかな青色をした海が騒めいている。波は高く、近づくもの全てを飲み込んで海の底へと連れ去ってしまいそうだったが、吹き荒ぶ筈の風は全く吹いてはいない。常夏の島のように美しい海の色を写す空も青ければならない筈なのに、夜よりも深い黒色をしていたし、僕たちを照らしつける太陽も存在しないのに辺りははっきりと見えていた。


 何もかもありえない光景に、一瞬のうちにここが自身の夢の中であることを理解する。違和感が違和感を呼ぶちぐはぐな光景の中、嶋村さんは僕の手をぎゅっと掴む。彼女の手の柔らかさはたとえ夢の中であってもはっきりと感じることができる。それほどに僕の脳どころか魂に、嶋村七海という存在は刻み込まれているのだ。自分の手のひらの汗腺が開き、じわりと水気を帯びていくのを感じる。夢の中だというのに、全く不思議なものだ。


「肱川くん」


 僕の脳が作り出した嶋村さんが、本物と全く変わりない笑みを浮かべている。幻想そのものでありながら、一挙手一投足の何もかも全てが現実の彼女と同じ動きをしていた。彼女の吐息すら、はっきりと感じられている。それでも、僕の脳が作り出す偽物ということは変わらない。手のひらに伝わる彼女の体温も、僕の脳が今までの体験を基に再現しているだけなのだ。わかっているつもりでも、気を抜いてしまえばすぐ隣で笑っている嶋村さんが本物であると誤認してしまいそうになる。


「キミは、これから、どうなるんだろうね」


 偽物の嶋村さんは、真っ黒な空を見上げた。彼女の瞳には漆黒が広がっている。どこを観ているのかわからない、何も映さない瞳が一体何を意味するのか。夢なんて記憶の中からランダムにチョイスされる映像を都合よく切り貼りしたものだと思っていた。だから意味のない夢占いなんて、産まれてからずっと信じたことはないが例えようのない不安だけが高速で僕のなかに渦巻いていく。


「キミは、私に、何をするんだろうね」


 そう呟いた彼女の焦点は黒い空から、顔を空に向けたまま、眼球だけを僕に戻される。普段の彼女なら確実にしない体勢に驚くが、所詮は幻想のものだ。こんな姿勢をさせているのも、こんなことを言わせているのも、僕自身なのだ。


 気がつけば聞こえるはずの波の音も聞こえない。海の匂いも感じない。鼓膜もロクに機能していなかった。そもそも彼女は口を動かしてはいたが、声は彼女の口から聞こえていただろうか。耳の孔で認識していただろうか。偽物の嶋村さんの声だけが、僕の脳を直接震わせていく。


「いいよ。何もかも、受け止めてあげる。首を締める? 爪を剥がす? 顔を殴る? 欲望の限りに犯す?」


 いつもより少し早口で話す嶋村さんの口の端から紅い舌が伸びる。妖しく輝いている彼女の瞳には、僕の顔は映っていない。僕を見ているはずなのに、僕がいないみたいだ。僕が見ている夢だからだろうか。対象がいない彼女の瞳は、虚空と虚無が広がっていた。それでも彼女の吐息や手の柔らかさ、そして温もりだけははっきりと感じていた。


「それとも」


 ぐるり、と彼女の首がこちらを向く。どこか猟奇的な姿ではあったが、それでも彼女は絵画のように美しかった。真っ暗な空の下でも、何故か明るい視界に靡く黒く長い髪。爛々と輝く瞳。艶のある赤い唇。何もかもが調和した、神の創り出した芸術としか例えようのない美貌が僕をじわりと見据えていた。


 ぞっとするような笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開く彼女に魅入られてしまっている。僕の創り出した幻の嶋村さんは口角を大きく上げたまま、言葉を放つ。


「私を殺しちゃう?」


 続く言葉を聞き逃すはずもない。衝動のままに彼女に牙を突き立てた末に、もし彼女の命が失われたとしたら。想像するだけでも全身の毛が差が立つようだ。だがほんの一瞬、考えてしまった。今は傷つけることで潤いを得ることができるが、それで満足できなくなるかもしれないのだ。心というものは消化器と同じで、詰め込めば詰め込むだけ膨らんでいく。消化器と違って、膨みつづけて伸びきった心は元に戻ることはないのだ。際限なく衝動は大きくなっていく。それに、僕自身が耐えることができるのだろうか。


「いいよ」


 そんな僕の心の中は、僕の脳が作り出した存在にはお見通しだ。偽物であることは分かっているが、本物と瓜二つの外見、全く同じ声、同じ眼の輝きをした嶋村七海のカタチをした存在の声が、僕の不安を熱いコーヒーに流し込んだ砂糖のように溶かしていく。


「それが、それがキミの潤いになるっていうんだったら、いいよ」


 彼女の声は、僕の思考を絡め取っていく。彼女の身体を貪れば、彼女から潤いを得れば得るほどに、蜘蛛の糸の強度は増していく。もう僕は、嶋村七海から逃れることはできないのだろう。彼女はそんな僕を食い尽くすつもりでも、食い尽くされるつもりでもあるのか。現実の彼女はどう考えているのかは、わからないのだが。


「だからね、肱川くん」


 虚構の彼女は小さく呟き、僕の腕を掴んだまま崖へと一直線に飛び出した。こうなることは予想できていた。これが夢である以上、僕の脳が作り出す虚構のものなのだ。こうなることが、願望なのかもしれない。それでも浮遊感にも似た感覚ははっきりと感じている。偽物であろうとも、高度から落ちていくのは僕の恐怖心を十分に刺激し続けた。


「貴方の全てを、私に頂戴?」


 風を切る音と共に、微かに彼女の言葉が聞こえてきた。受け身を取る気が起きないほどに視界が高速で回転していく。それでも僕の意識は彼女から離れることはない。僕達はみるみる速度を上げて落下していく。ほんの数秒もない時間ではあったが、幻想の嶋村さんは笑っていた。


 もう戻ることはない。本物ではない嶋村七海の満面の笑みが、無意識のメッセージとして自分自身に語りかけている。破壊衝動は、止まらない。止まることがない。存在しなければならないブレーキなど、とっくに壊されてしまっていた。重力に従い、僕たちは加速していく。


 崖の下にある尖った岩に二人揃って叩きつけられる瞬間に、僕の意識は覚醒した。

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