喜んでくれれば、それでいい 前編

 あっという間に日時は通り過ぎていく。気づけば4月が終わりゴールデンウィークを迎えてしまったが、急に始まった僕と嶋村さんの関係はまだまだ続いている。


 とはいってもなにか進展があったという訳ではない。強いて言うならば彼女が僕のことを『肱川さん』と呼んでいたのが『肱川くん』に変わったぐらいだ。僕は僕で相変わらず彼女との距離感を上手く掴めているとはいえないが、当初に比べてはだいぶ良くなってきたという自負はある。会話もそれなりに続くようになっていたし、教室での好奇の目線も殆どなくなっていて、今まで通りの学校生活に近いものを取り戻していた。


 警察から連絡はなかった。捜査はしているのだろうが、恐らく難航しているのだろう。あの夜に起きた事件の犯人と思われる嶋村さんは学校生活を満喫していたし、あれからずっと僕の隣で笑っていた。


 ちなみに僕と嶋村七海という二人が『付き合って』いる中でしていることといえば、僕が家を出て暫く歩いた先の交差点で立っている彼女と合流し、他愛のない話をしながら校門を潜る。そしてホームルームや授業を受け、時折嶋村さんが作ってきてくれた弁当を食べたりして、授業が終われば一緒に帰って朝に合流したところで別れる。そのサイクルをひたすら繰り返すという、まるで漫画か何かのように健全な付き合いをする日々だな、と、冷静になった時になんとなく思ったりする。


 一応僕だって年頃の男だ。それなりに思うことはあるのだが、嶋村さんに対してはそのような感情を抱くことは殆どなかった。唯一の例外は、彼女が妖しく瞳を輝かせたときだ。彼女があの眼をすることは付き合いはじめたあの日から一度もなかったのだが、ふとした拍子に思い出すたびに途轍もない劣情が脳の奥から吹き出してくる。その度に首を振ってその感情をどうにか振り払っていた。


 この関係が続いて、そろそろ1ヶ月になろうとしていたが、未だに嶋村さんと付き合っているという事実に現実味を感じられない。自室のベッドに寝転がりながら、唐突に自分の頬を抓ってみると鋭い痛みが顔の右半分に突き抜けた。この連休というイベント、去年であったならば特にやることはない為にひたすら寝るか何処かへと当てもなく出かけるかぐらいしかなかった退屈なものだったが、今年は違うのだ。


 ベッドから抜け出し、身支度を済ませる。今日は嶋村さんと出かける約束をしている日だ。窓の外に広がる空はどこまでも抜けるような晴天ではあったが、吹き抜ける風はまだまだ冷たく、Tシャツ一枚などではいられなそうだが追加で上に一枚羽織ればなんとかなるだろう。準備をしているうちに待ち合わせ時間の午前11時が近づいてきたため、そろそろ出かけることにする。


 家を出る前にリビングにいる両親に声を掛けようとしたが、そこには誰もいない。両親は朝から出かけていたことを思いだす。夫婦仲が良いことは結構なのだが、息子を差し置いてこの連休中に旅行に行くのも如何なものかとも思う。靴を履いて外に出る。


 このタイミングになるまであまり自覚はしていなかったのだが、これはもしかしてデートとかいうヤツなのではないか? そう認識した瞬間に心臓が刻むリズムが若干ハイテンポになり、妙に落ち着かなくなる。少しでも紛らわす為に、スマートフォンのイヤホンジャックに繋がれた大きなヘッドホンを耳につけ、音楽アプリを起動する。エレキギターの旋律が派手なロックサウンドが、幾らか意識をそちらの方へと移してくれた。


 お気に入りの黄色いスニーカーを履いて道路を歩く。通学路と全く同じルートを辿っているので、目を瞑ってもその場所に着けるだろう。嶋村さんとの待ち合わせの場所は、いつもの交差点だ。特に何処かに行くとかそういう予定は決めていなかった。ただ二人で、何処かに行く。それだけを決めていたのだ。まだ誰もいない交差点に到着した僕は、携帯の音楽を停止してヘッドホンを鞄の中にしまう。今の時間は10時40分。まだそれなりに時間はあるものだ。


「おはよう、少し遅かったかしらね」


 透き通った声は、すぐ聞こえてきた。遅かったと言いながらも、嶋村さんは集合時間よりも早くやってきた。白いシャツにベージュのフレアスカートという大人びた服装をした彼女を見て、心臓の鼓動が大きく早くなるのを感じた。休日に会うことなどなかったので、彼女の私服を見るのは本当に初めてだ。できる限り平静を装いながら、嶋村さんに向かって笑いかける。


「おはよう、いま来たところさ。とりあえず、何処に行こうか。行きたいところとか、ある?」


 今日出かけるということと、この時間に集まることは決まってはいたがそれ以外は特に決まっていなかった。映画に行くとかテーマパークに行くとか、冷静に考えると選択肢は無限にあっただろう。何故かつい先程まで嶋村さんと二人で出かけるということの重大さに気づいていなかった僕は、まさに一人で出かけるような気分で物事を考えていた。まるで考えていなかったことを悟られないように心掛けた問いかけを、嶋村さんは少しだけ考えるような仕草をして応える。


「うーん、まずは肱川くんが行きたいところがいいかな。終わったら、私が行きたいところに行く。そういう感じにするのはどう?」


 なかなかに妙案なような気がした。お互いがプランを少しずつ組み立て合う。そのようなやり方も、有りといえば有りだ。そうと決まれば、どうにでもなるものだ。


 横に並んで久我の町並みを歩く。自然と融合した地方都市、という謳い文句は聞くだけならば素晴らしいとは思うのだが、実際には駅前と主要道路、そして近くの大学周辺以外は閑散とした住宅地だ。当然、自宅の近くは住宅街にあり、この場では特に寄るべきところはない。とにかくこの町で一番繁栄している駅前あたりでぶらつく方が合理的だろう。いまだに彼女の好みなどがわかっていない以上、どうプランを立てればいいのかわからなかった、という理由もあるのだが。


 僕たちがいた住宅地から駅まではそれなりの距離はあるとはいっても、徒歩で20分程度だ。バスや電車の本数もそれほど多くないこの地域では、これぐらいの距離ならばこうやって歩いたほうが早いし楽であることが多い。それにこの晴天だ。もうすぐやってくる梅雨に向けて出来るだけ太陽の光を浴びておくに越したことはない。なんでもない会話を繰り広げながらアスファルトを歩いているうちに、公園の入り口が見えた。例のあの夜、同級生が襲われた場所ではあったが、事件を目撃した夜から僕はここを通り抜けていない。


 無意識に足が遠ざかっていた僕ではあったが、嶋村さんは公園の入り口へと進んでいく。あの夜、同級生を襲った犯人が嶋村さんであることはほぼ事実だと思っている。だからこそ彼女の行動に疑問が浮かぶのだ。普通、なんらかの事件を起こした者がその現場に近づくのだろうか。事件を目撃した僕ですら、公園に近づいていないのに。


「こっちの方が駅に近いよ」


 僕が勝手に戸惑っている間に、公園の敷地の中に入っていた嶋村さんは赤茶色のインターロッキングブロックを踏みしめながら身体を捻り、不思議そうな顔をしていた。もしかしたら全てが僕の勘違いだったのかと思えてしまうほどに自然な仕草でいる彼女を見て、身体が硬直していた。


「……どうしたの?」


「いや、なんでもない。なんでもないよ」


 気取られないように努めながら、彼女の横へと移動する。入口から事件の現場まではそれほど離れていない。あと100メートルも歩けばその場へと辿り着いてしまうほどに短い。自分から何かを話すような気にはなれない。出来ることならば早足どころか駆け抜けてしまいたい欲求をなんとか抑えながら、無言のまま公園の道を歩いていく。


 足を踏みしめる度にあの時の記憶が蘇っていく。1歩歩けば街灯と月の光を。もう一歩歩けば、動く影を。そして、崩れ落ちる人の姿と逃げていく影が靡かせた、黒く美しく長い髪の毛。僕の隣で歩く嶋村さんと、同じもの。


 僅か数秒ではあったが、嶋村さんは笑っていた。それも今まで他愛のない話をしていた僕に向けていたようなものではない。どこか熱を帯びたようなその笑みを浮かべていた彼女の目は、真昼だと言うのに妖しく煌めいていた。妖艶で見るものを狂わせるような、およそひと月見ることのなかった嶋村さんの目を見て、全身の毛穴が開くような感覚を覚えた。


 すぐにいつもの微笑みに戻った嶋村さんの横顔を見ながら、今日一日が平穏で終わることを願い始めている自分がいた。


 僕たちの間を風が通り抜ける。5月独特の爽やかなものではなく、梅雨が近づいていることを思わせる微かに湿り気のある嫌な風だった。

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