あぁ、そういうこと 後編
結局のところ、雨は降ることはなかった。それでも今にも雨が降り出しそうなのには変わらない。放課後を迎えた僕は鞄を手に掴み、出来るだけ早く椅子から立ちあがろうとする。
しかし、僕の方へとぱたぱたと足音を立てて小走りでやってくる貫田さんを見て席に座りなおす。まるで人懐っこい小動物のような印象を与える彼女は、今日の朝の一件があってか妙に落ち着きがなさそうであった。なんだかタイミングを逃したなと思うと同時に、彼女が放課後に声をかけてくることに珍しさを感じていた。
「あ、あのね、肱川くん。ホントにごめんね、ちょっとお願いしたいことがあって」
もし彼女の頭頂部に動物の耳があるのならば、ぺったりと垂れ下がっていただろう。申し訳なさそうに話す彼女を聞いてみたところ、その『お願い』というものはなんでもないものだった。要は書類を職員室に持っていって欲しい。ただそれだけのものだ。正直なところ面倒だったのだが、断れない性格をしている貫田さんはいつもクラス委員の仕事どころかクラスメイトから雑務を頼まれて多忙な日々を過ごしている。かくいう自分も彼女に何かを押し付けている一人ではあるが、その行為に感謝の念を抱かないほど愚かではない。恐らく他の雑務が忙しく、間に合わないのだろう。そして他のクラスメイトは部活やら遊びやらで予定があった為、毎日暇そうな僕に白羽の矢を立てたとい思われる。まぁそれぐらいのことならと了承し、書類を受け取った僕は教室を出た。
廊下では相変わらず朝と変わらぬ刺すような好奇の視線が四方八方からやってくる。朝からするとだいぶ減ってきたので、このペースだと近いうちにどうにかなるだろう。人の噂も75日とはよく言うものだな。そう思いながらも、視線から逃れるようについ早足になりながら職員室に向かう。
事前に説明を受けた通りに、古文の教師に書類を提出する。隣のクラスの担任に朝の騒ぎを聞かれたのだが適当にはぐらかす。こんなところまで余計な詮索を受けたくはなかった。手短に用事を済ませた僕は急ぎ足で教室へと戻ると、僕の机の上に嶋村さんが座っていた。教室には彼女の他に誰もいない。照明が消えた薄暗い教室の中で、音もなくそこにいる彼女の髪が空調が効いていないのに揺れていた。
その長く艶のある髪の毛を見て、改めて確信する。昨夜の傷害事件の犯人は、嶋村七海であることを。
「どうしたの?」
僕の確信などまるで気が付いていないまま、机の上で座っていた嶋村さんは少し不満げそうだった。もしかしたらいきなり教室からいなくなったことに関して怒っているのだろうか。例えあんな形でも、僕にとって初めて付き合ってくれと言ってくれた女の子だ。そしてどんな形であれ、それを了承したのだから僕は嶋村さんのことを『彼女』として接さなければならないということは理解してはいる。情けない話ではあるが嶋村さんが昨夜の事件の犯人であってもなくても、彼女をどういう風に接していいかよくわかっていないのだ。
「なぁ、一つ聞いていいかな?」
だからこそ、聞かなくてはならない。進級したばかりとはいえ、同じクラスにおいても殆ど接点がなかった嶋村七海が何故僕にあのような声を掛けたのか。それが未だに納得出来ていなかった。だからこそ、素直に喜ぶことが出来ないのだろう。疑問と不安がごちゃ混ぜになったまま、言葉がどんどん胸の奥から飛び出してきている。
「なんで、僕なんだ? こういう事は、言っちゃいけないことかもなんだろう。でも、思っちゃうんだ。嶋村さん、なんで、僕に付き合って欲しいなんて言ったんだ?」
嘆きにも似た僕の言葉を表情を変えることなく聞いていた嶋村さんは、ゆっくりと机から降りる。そのまま窓際に移動した彼女は窓に背中を預けた。教室は薄暗いといってもカーテンが開け放たれ、分厚い雲を貫通して入り込んでくる薄い光は、彼女の髪を艶やかに照らしていく。そんな彼女の目を見た瞬間、僕の心臓が不自然に鳴動した。
「そうね、強いて言うなら……眼、かな」
彼女の視線と言葉が僕の脳の視覚と聴覚を刺激した瞬間、ざわり、と全身の毛が逆立つ。この妖しげな眼をしているときの嶋村さんの声が耳孔に入り込むと、僕の脳の全てが滅茶苦茶に蹂躙されていくような気がしてくるのだ。昨日まで一度も聞いたことがない、嶋村七海の蠱惑的な声色に魂ごと吸い寄せられるような感覚を覚える。同い年の女の子がそのような声を出しているという現状を理解できないまま、身体は無意識に窓際……つまり、嶋村さんのほうへと歩いていた。
「私を見ているときの貴方の眼が、とっても好みなの。他の人とは全然違う。羨望や妬みだけじゃない。その他に不安と恐れと憂虞が入り混じったその眼で見ているのは貴方だけだった」
夢遊病患者のようにふらふらと進んでいく。それでも彼女は声を止めることはない。まるで僕だけ時間の流れがゆっくりになってしまったようだ。
「どんなに暗くてもね、肱川さん。貴方の眼はわかるの。だから、貴方の眼に私は、魅せられたんでしょうね」
気がつけば、彼女のすぐ近くに立っていた。僕を真っ直ぐ見続ける彼女と僕の視線が交わっていく。彼女が嘘を言っているようには感じない。だからこそ、胸の内に湧き上がった感情を口にすることにする。
「ありがとう」
うまく言葉にすることはできない。どうにかして捻り出した言葉は何故だかわからなかったが、ただ一言の感謝であった。それでも彼女にはどうにかして伝わってくれたようだ。嶋村さんは一瞬だけ面食らったような顔をした後、照れくさそうに微笑んだ。
そして、嘘を言っていないであろう彼女の言葉だからこそ、あの公園で同級生を襲ったのは嶋村さんであることを再び確信する。今日の朝まで知り合い以下の関係性であった僕たちだ。暗闇の中で彼女が僕の顔を見たのは昨夜のあの一件、ただの一度なのだ。
「もう一つ、いいかな」
できる限り感情を出さないように気をつけていたつもりだったが、自分が思っていたより低い声が出てしまった。右の手のひらを開いたり閉じたりしながら、嶋村さんは何秒か目を閉じて、開く。再度視界に入った彼女の瞳は今までで一番煽情的で、喉が急速に乾いていく。
「一つじゃなかったの?」
嶋村さんの瑞々しい唇がゆっくりと開かれる。切長の目の中にある大きな瞳を鈍く妖しく輝かせながら、静かに口角を上げる彼女を見ると思考がどんどん別の方向へと制限されていく気がする。それだけ、彼女の眼と声には力がある。なんとか視線を逸らすことに成功した僕は勢いのまま、小さな声で彼女に向かって言葉を放つ。
「昨夜、女の子を襲って、ないよな」
嶋村さんの目の色が微かに変わるのを見逃さなかった。いくら同い年と思えないほどに大人びていて、妖艶な雰囲気を漂わせていたとしても嶋村七海は高校2年生の女の子という事実は覆すことができないのだ。
「……どういうことかしら?」
昨夜逃げていったあの人影が嶋村さんだ。それに関してはほぼ確信はしているが、やはり僕の頭の奥底では、彼女がそんなことをするはずがないとも思っているのだ。だからこそ、彼女の一瞬の沈黙に言及する気はなかった。あの場に彼女がいたという確固たる証拠もないし、今この場で僕がいくら問い詰めたところで、どうにでも取り繕うこともできるだろう。様子を見るなんていうとおかしいかもしれないが、今はこれでいいのだ。本当に、本当に彼女が凶行に走ったという決定的な証拠を見つけた場合には、心を鬼にするしかない。それだけを丹田の裏側にそっと閉じ込めた。
大きく息を吸い、吐く。二酸化炭素とともに頭の中で廻り続ける感情が少しでも吐き出されることを願ったが、現状は非情だった。
「帰ろうよ。家はどっちだい? 送っていくよ」
今の状態では何を考えても、何をしてもうまくいかない。そんな気がしたので、今日のところはもう帰って休むことにした。冷静に考えてみれば、朝からずっと気が休まることがなかった。これから続くであろう嶋村さんとの関係、そして学校生活。まだまだ人生は続いていくのだから、今日ぐらいはいいだろう。
「だって僕は、君の、なんていうか、その……」
「コイビトだから、でしょ」
口澱む僕の言葉を遮る彼女の言葉を聞いて、胸の奥が騒めいたような気がした。それが何を意味しているのかはわからなかったが、いつの間にか持っていた僕の鞄を手渡す嶋村さんに向かって首を縦に振る。
口にするのはまだまだ恥ずかしいが、そこはじきに慣れていかなければならないのだろう。教室を出て廊下の窓から外を見ると、先ほどまで分厚かった雲はそれなりに薄くなっていた。これなら、雨に濡れる心配もなさそうだ。
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