あぁ、そういうこと 前編
嶋村さんは恐らくこうなることを予測して実行に移したのだろう。結論からすると、その選択は大当たりであった。普通に考えて、あの状況で断るという選択をすること自体が許されるものではない。もし断ったならば断ったで『学校一の美少女の告白を断った者』という烙印を押され、この噂が広まる速度が異様に速い田舎においては一瞬でこの学年どころか学校、それどころかこの地域の高校全体へとたちまち広がっていくだろう。更には断ったことにより彼女が本心でも嘘でも涙を見せたら最悪の最悪だ。学校内外にファンが多数いる彼女を悲しませたと、昨夜の同級生のように人気のない夜道で襲われる可能性だってある。
なぜ、こんなになってしまったのだろうか。祝福の声が響き渡り、大量の野次馬が教室のドアの窓を覗き込む異様な光景に困惑を通り越して冷静になっている僕自身がいた。
「あ、あのあのあの、もうすぐ、ね? ホームルームだから、みんな、ね? おちおちおちおち、落ち着いて、落ち着いてね、ね?」
近くでちょろちょろと動き回りながら慌てふためく貫田さんの存在も、僕をいち早く冷静にさせた。他人が慌てているところを見ると落ち着くとは聞いたことはあるが、まさかこんなタイミングでそれを知ることになるとは思ってもいなかった。
慌てる外野と冷静になる僕。そして了承の返事を聞いた嶋村さんは嬉しそうに微笑んでいた。僕の彼女の周りだけ、世界から切り離されてしまったかのようだ。ホームルームを告げるチャイ厶が鳴り響くまで、その空間は存在し続けた。
ホームルームが終わってからは地獄だった。あまり話したこともないクラスメイトから、他のクラスの男子だけではなく女子からも質問責めだ。尤も、嶋村さんも同じようなことになっていたが、離れた机の上で彼女がどのように答えていたかはわからない。15分の空き時間がこれほどまでに苦痛になる日が来るとは思ってもいなかった。クラスの中だけでこうなってしまっている以上、おちおち教室の外に出ることもできない。トイレすらも躊躇われる地獄のような午前中は矢のように過ぎていき、あっという間に昼休みに突入した。
昼休みはとにかく人がいないところに行きたかった。15分の休憩時間ですらもみくちゃにされてるかと思ったのだ。昼食くらいは落ち着いて食べたい。それだけを願って、弁当が入った鞄を持って席を立つ。
「肱川さん」
気がつけばすぐ隣に嶋村さんがいた。他の女子生徒に比べれば長身である彼女ではあるが、いつの間に席を外してこちらにやってきたのだろうか。まるで瞬間移動のように現れたので口から心臓が飛び出そうになるが、どうにか押し留めた。
「お昼ご飯、一緒に食べましょう。二人で、ね」
嶋村さんは優しく微笑み、小さい弁当箱を持ち上げる。『二人で』というところを強調するあたり、周りの野次馬にうんざりしているのは僕だけではなさそうだ。まるで別世界の生き物だと思っていた嶋村七海も僕と同じ人間なのだと驚く自分がいる。
「え、えっと」
「だって私たち、付き合ってるんですもの。普通でしょ、これぐらい」
それでも僕に彼女が朝に告げた言葉と、それに対する僕の返答が現実の出来事であったことが未だに現実味がないのだ。誰かの悪戯なのではないか。何処かでカメラが回っていて、僕を笑い物にするんじゃないだろうか。そもそも昨夜の出来事は嶋村さんがやったことなのだろうか。疑問と困惑が入り乱れて頭の中が再びぐるぐる回り出していく。
そんな僕の右手首を嶋村さんの少し冷たい細い指が掴む。柔らかな感触に驚く暇もなく、彼女は無言で僕を引っ張っていく。僕にできたのは鞄を手に取ることだけだった。意外に強い彼女の膂力に、引き摺られるように連れていかれる。抵抗をする気はないが、冷静になったらなったでこの光景に耐えられる気がしなかったので、意識してそのまま困惑を継続することにした。廊下の同級生の視線が突き刺さるようだが、嶋村さんは表情を変えることはない。それでも心なしか楽しげに廊下を歩き階段を上る彼女についていくと、あっという間に屋上の扉へと辿り着く。
基本的に屋上は立ち入り禁止である。この高校に入学してから一度も入ることのなかったし、これからも入ることはないと思っていた場所だ。普段は施錠されている筈の扉のノブを、嶋村さんはまるで自室の部屋のように捻ると金属製のドアはストッパーの軋む音と共に開かれた。
空は雲ひとつない青空……というわけにはいかず、薄雲が西からやってくる厚い雲に侵食されつつあった。春独特の強い風が身体をそれなりの速度で冷やしていくが、嶋村さんは何も気にすることなくコンクリート製の床にちょこんと座り、弁当箱を膝下に下ろした。
「……来ないの?」
鍵もかかっていないならば誰かしらいそうなものであるが、僕と嶋村さん以外は誰もいない屋上には当然、彼女の視線の先には僕しかいない。冷たい風に吹かれて冷やされた僕の脳はとっくに落ち着きを取り戻している。このまま無視をすることもできたが、彼女にこうやってまっすぐ見つめられると身体が勝手に動き出してしまう。見るものを意のままに操ることができるような、怪しげな魅力に近いものが嶋村七海には存在するのだ。気づけば僕は嶋村さんの隣に座っていた。
「一回、やってみたかったの。コイビトと一緒にお弁当を食べるっていうの」
口に手を当てて小さく笑う嶋村さんを見て、彼女は人を騙すような人間ではないような気がした。所詮人生経験が16年程度の薄っぺらいものだ。それでも、根拠のない理屈ではあるがそんな気がしたのだ。もしかしたら、こんな可憐な女の子に『付き合ってほしい』なんて言われたという事実に、無意識で舞い上がっているかもしれない。
「今度、肱川さんのお弁当も作らせてね。だって私、貴方の彼女なんだから」
その証拠に、僕の首は縦に動いていた。何処かに隠しカメラが付いているのならば、恰好の笑いの種だろう。そんな僕の動きが面白かったのか、嶋村さんは小さく声をあげて笑っている。それがなんだか気恥ずかしくて、弁当箱を開けて中身の白米を口に放り込んだ。
「一応言っておくけど肱川さんが初めてのコイビトよ。それだけは忘れないでね」
風に乗って嶋村さんの声が耳孔に抵抗なく滑り込んでくる。あまり彼女の方を見ることは出来なかったが、それだけで嶋村さんがすぐ隣にいることを改めて実感する。昨夜の一件がなければ手放しで喜べたのかもしれないな。冷凍食品のハンバーグを食べながら、そんなことを考えていた。
「つまり、私の初めてをあげたってことね」
彼女が口にした言葉は朝方と同じかそれ以上に衝撃的なものであり、さっきまでハンバーグだったものを気道に詰まらせるには十分すぎる発言だった。この人は一体なんてことを言いだすのだ。噎せ返った僕を心配そうに見ている嶋村さんは、自分がどういう風に聞こえる発言をしたかまだわかっていないようだった。
「私、変なことを言った?」
「いや、何でもないんだ、何でも」
なんとかハンバーグを食道に移動させることに成功させた僕は、なんとか誤魔化しながら弁当を勢いよく胃に詰め込んでいく。卵焼きやアスパラベーコンなどが入った色とりどりの弁当であった筈だが、味はほとんど感じることはなかった。
「あぁ、そういうこと」
僕の反応で何かを察したのだろう。しばらく考える顔をしていた嶋村さんは急に妖しく微笑みながら、こちらにゆっくりと擦り寄ってくる。僕が逆方向へと逃げるよりも早く、僕のすぐ近くに身を乗り出した彼女は艶のある唇から吐息とともに呟いた。
「安心してね。そういう経験もないから」
耳元で囁かれた彼女の言葉に、上半身の血液が一気に首から上へと迫り上がる。冷たさが残る風程度ではその熱を中和することもできず、顔全体が焼けたように熱くなった。
「そういうことは言うもんじゃあないだろう!」
僕の悲鳴にも似た叫びに、嶋村さんは驚いて身を反らす。彼女の大きな声を上げてしまったことへの罪悪感もあるが、驚きの方が大きかった。自分自身がこんな声をだしたということに、だ。
「え? 彼女ってそういうことも言わなきゃいけないんじゃないの」
「……最低限僕は聞いたことないよ。誰から聞いたんだよ、そんなこと」
「雑誌に書いてあったわ。恋人になったらまず最初に伝えなきゃいけないことだって」
口を尖らせて目を逸らす嶋村さんを見て毒気を抜かれるような感覚を覚えた。柔らかな笑顔と妖しげな笑顔、そしてこの表情を見ると、今まで彼女に抱いていた『浮世離れした高嶺の花』というイメージは全くの偽りで、僕と同じ高校二年生の女の子なのだろう。
それにしても、どういう内容なのかは知らないが恐ろしいことを書く雑誌もあるものだ。おそらく若い女性向けのそれの内容に恐怖する。
「……それで、肱川さんはどうなの?」
再び不意打ちで放たれた彼女の素っ頓狂な問い掛けには、沈黙で答えた。一日目からこんなことになるなんて、これから一体どうなってしまうのだろう。見上げた曇り空は今にも雨が降りそうだった。
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