喜んでくれれば、それでいい 後編

 自然と都市部の一体化を目指した街。僕達の住んでいる久我は、そういったコンセプトで開発を進められたらしい。地方都市によくあるものであり、それは結果としてどちらにも中途半端になることが多々あるのだが、この街においてもそれは例外ではなかった。都市部よりも不便で、自然が豊かな田舎よりも空気が悪い。更には交通網もそれなりに充実していないという始末で、何かしらが食い違っているという印象を受ける街。それがこの久我という街であった。


 それでも、街路樹が数多く植えられているこの街のメインストリートは観光客にもそれなりに人気があるし、ぶらつく上にはもってこいだ。そんな街並みを僕と嶋村さんは歩いていた。


 相変わらず彼女の右手は僕の左手を離さないし、僕自身も振り払う気もない。あの夜に同級生に襲いかかったのが彼女だということすらも忘れてしまいそうになる。それほどに手と手の間に作られた温もりに浸り切っていた。


 僕は顔どころか全身から熱を発している人間カイロ状態なワケだが、僕の手を引っ張る嶋村さんの顔色は変わらない。まるでこの状態が自然体であるかのようだ。もしかして、意識しているのは僕だけなのだろうか。そう思えてしまうほどに、僕の手を握る彼女は堂々としていた。


 僕と嶋村さんは付き合っているのだから、こういう風に手を繋いで歩くのは普通にあることなんだ。自分で自分に言い聞かせながら、空いている右手を握りしめる。爪が肉に微かに食い込む痛みにより、ふわふわとした熱を帯びていた僕の頭の中に冷たい空気が流れ込んでいき、ゆっくりとではあるが頭が少しずつ冷えていく。


 幾許か冷静になると、今まで気づいていなかった通行人たちの視線を感じる。学校で感じていた物とは種類が異なる、重油のようにどろりとしたものに熱かったはずの背筋が急速に冷たくなっていくのを感じた。相変わらず嶋村さんは表情を変えることはない。


 彼女は僕の眼が気に入ったと言ってくれた。確固たる理由があるからこそ、こうやって堂々としていられるのだろう。ならば僕はどうだ。冷えた頭がいつものように回転を始める。


 僕は彼女のことを夜遅くに知り合いかもしれない同級生を背後から襲いかかった犯人だと疑っている。今だって、彼女が何かしないか、何かするような人なのか。監視の意味合いが含まれているのではないか。疑念は尽きることは無い。それでも、CDショップで見せたあの笑みが僕の脳にこびりついて離れないのだ。


 不意に、嶋村さんの手の力が強くなる。何事かと意識を現実に引っ張り戻し、辺りを見回すと下卑た笑いを浮かべながら20歳ぐらいの男が僕達に向かって近づいてきている。他の通行人など見えていないかのように大股で歩く男の髪の毛は、脱色しすぎたのか金色を通り越して白髪に近い。こんな時期に寒くはないのかと思えるほどに開けられた胸元には様々なネックレスがジャラジャラと音を立てそうな勢いで揺れていた。


 俗に言う、典型的な粗暴者という外見をした漢は口角をいやらしく上げながら嶋村さんに視線を向けている。隣にいる僕のことなど、まるで視界に入っていないようだ。


「お姉さァん、こんなヤツじゃなくて俺と遊ぼうよォ」


 よくもまぁ、手を繋いでいる男女に向かってこんな事を言えるものだ。頭の中ではそう思っていても、それを口にすることは出来ない。僕に出来た事と言えば嶋村さんの手を引き、ペースを上げて歩くことだけだった。しかし男も僕たちに追従するように速度を上げてくる。相変わらず僕のことなど見えていないようで、嶋村さんにネェ、とかモシモーシなど何回も声をかけていくが、彼女がそれに反応することは無い。


「シカトかよ、お高く止まりやがって」


 一瞬だけ、嶋村さんの細い眉毛が寄ったような気がしたと思えば、急に足を止めた彼女の動きに対応出来ず躓きそうになり、つい手を離してしまう。嶋村さんといえば嶋村さんで、振り向いて男に向かって真っ直ぐ身体を向けていた。


「私に言ってるの?」


「あ?」


 放たれた言葉は、今まで聞いたことがないほどに冷たいものだった。自分に向けられた訳ではないのに、背筋どころか脊髄に液体窒素を流されたように身震いをしてしまう嶋村さんの声に対して、殆ど反射で出た男の言葉には確かな怒気も含まれていた。


「あぁ、なんて醜い眼」


 先程の声が身体を凍てつかせるものであったなら、彼女の瞳は魂を凍り尽くすようなものだった。それは、ヒトには向けてはいけないものだ。彼女の声と相まって、まるで駆除すべき害虫でも見るような印象を覚える。まるで抜き身の刀よりも鋭く人を切り裂くような彼女の眼を見て、あの夜の出来事を再び鮮明に思い出すと同時に。頭の中の棚に置かれていた彼女に対する疑念を思い出す。


「貴方の眼からは下卑たものしか見えないんですよ。下らない、下らなすぎて見ていて吐き気すらしてきました。どうしてくれるんですか」


 情けない話ではあったが、僕は彼女の瞳をこれ以上直視することが出来なかった。だがそれは男も同じようで、右手を前に出したまま蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまっていた。


「もうこれ以上視界に入れたくないから早く消えて。お呼びじゃないのよ、豚野郎」


 もう何も話すことは無いとでも言うように、嶋村さんは僕の左手を再び取って歩き出す。言われるがままに引っ張られながら、後ろを振り向くと男は魔法にかけられたように先程の硬直から未だに復活していないようだった。同情するつもりなど更々無いが、再び左手から伝わる彼女の温もりに全身の寒気が少しずつなくなっていくのを感じた。


「行きましょ、これ以上茶番に付き合う暇はないわ。もうすぐ目的地だし、ね」


 僕に向かって柔らかな笑みを浮かべた嶋村さんの表情は、いつものものに変わっていた。今浮かべている笑顔と、時折浮かべる妖しげな笑顔。そして、つい先程見せた何もかも凍りつかせるような冷たい顔。一体どれが嶋村七海の本性なのだろうか。回答のない問題文への思考は終わることなく、僕の脳の中をぐるぐると公転していく。


 相変わらずぐるぐる回り続ける僕の思考を置き去りにして、嶋村さんはどんどん足を進めていく。おそらく目的地が近いのだろう。左手に伝わる彼女の指の力や踏みしめる足の力強さがだんだん強くなってきている。周りを見渡すと、メインストリートの終盤へと差し掛かってきたところだ。駅からそれなりに距離がある筈なのだが、あの粗暴な男の件もあり長い時間歩いた気がしなかった。


 メインストリートから小さな路地へと入る。この辺りは今まで一度も入ったことのない場所なので、何があるのか皆目見当もつかない。雑居ビルや居酒屋などが立ち並ぶ、高校生はあまり立ち寄ることがないであろうこのエリアに一体何があるのだろうか。


 その答えはすぐに出た。僕の腕を引いた嶋村さんは小さな雑居ビルへと入っていく。階段を降りた先にある自動ドアを通り抜けると、そこには別世界が広がっていた。


「ここが、私の行きたかったところ」


 簡潔に説明するなら、ここは雑貨屋だった。文房具や食器、衣料品だけでなく、果ては食料品や本まで置いてある形態の店舗は、今日日そこまで珍しくはない。根本的に違うのは、今ここにあるものの全てがアナグマをモチーフにして作られていたことだ。アナグマのマスコットが先端についたボールペン、アナグマのイラストがプリントされた食器に小さな可愛らしいアナグマの耳が付いたパーカー。そしてアナグマの形にくり抜かれたクッキーにアナグマの写真集。見ているだけでアナグマがゲシュタルト崩壊しそうになる。


「なんていうか、その」


「意外だった?」


 やはり僕は、考えていることが顔に出ているのかもしれない。嶋村さんの言葉に驚きながら頷く。しかし、アナグマが好きだとは思ってもいなかった。普段の彼女からは想像することができない一面を知れたことに喜びながら嶋村さんの方へ視界を動かすと、手近にあったぬいぐるみを手に持つ嶋村さんの姿があった。間抜けな顔をしているが、どこか愛嬌のあるフォルムを愛おしそうに撫でている彼女を見ているとつい口角が上がってしまう。


「前々からちょっと言いたかったけど、肱川くんはもうちょっと女の子に慣れた方がいいと思うな」


 僕の視線に気づいたのか、どこか恥ずかしそうに笑う嶋村さんを見ていると、つい先程に粗暴者の男に向けていたあの絶対零度の表情との温度差でどうにかなってしまいそうだ。彼女にとって、あの男と僕が決定的に違うという事実を認識すると喜びと同時に、彼女の言葉がよりいっそう深く突き刺さった。


「私の『コイビト』なんだから、自信持って、ね」


「なんとか、頑張ってみるよ」


 慣れたところでどうにかなるとは思えないが、彼女の本性がわかるまでは、嶋村七海の『コイビト』として堂々としていかなければならない。そうでないと、僕の頭の中を容易に蹂躙することのできる彼女から逃げられなくなりそうな気がしたのだ。


 雑貨屋を一通り見たあと、僕と嶋村さんは様々なところを見て回った。あっという間に楽しい時間は過ぎていくもので、日は傾きはじめたのでそろそろ撤収することになった。まるでテープを逆再生するように、来ていた道を戻った僕達は昼前に待ち合わせしていたいつもの交差点で解散することになった。


「じゃあ、また、ね」


「うん。楽しかった」


 離された彼女の手の温もりがまだまだ冷たい空気に晒されて急速になくなっていくことに、不思議な寂しさを覚える。家へと帰っていく嶋村さんの後ろ姿を見送りながら、彼女の手の柔らかさを早速思い出していた。


 このまま何も起きず、何もかも僕の気の所為であればいいのに。何度も何度も頭の中をよぎる考えであり、いつしかそれを願う自分がいたのだが、それがただの甘ったれた空想であることを数日後に知ることとなる。

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