骨は拾ってやるよ、火葬場でな 前編

 連休が終わり、また学校生活がやってきた。世間では五月病がどうだか自律神経がどうだか騒がれているが、義務教育をとっくに抜け出しているこの高校生活において、原因にはしていいが理由にしてはならない。そしてなにより、今年の僕にとってはそんな言葉と全く対照的な日常を送っているのだ。


「おはよう、肱川くん」


 連休が明けて数日になる。相変わらず優しげな笑みを浮かべている嶋村さんは、僕の左手を手に取る。連休中に出かけたあの一件以来、僕たちは手を繋いで歩くことがほぼ当たり前になっていた。連休明け初日は校内の人々から向けられる視線にそれなりの恥ずかしさもあったのだが、先日彼女に言われた『自信を持て』という言葉を噛み締めているうちに、いつの間にか慣れてしまっていた。


 それでも彼女の手の温もりや、それが離れていくことを感じるたびに頭の中がどうにかなりそうなのは変わることはない。彼女の一挙手一投足の全てに僕の脳の容量の大部分が使われていくような気がするのだ。


 ふわふわとした気持ちのまま登校を済ませていた僕は、いつの間にか自席に座っていた。まるで時間の感覚さえもおかしくなってしまったかのようだ。正月に少しだけ呑んだ程度だが、アルコールを摂取したときの酩酊感によく似たようなものすらも嶋村さんは僕に与えてくるというのか。


「おーい」


 だからか、僕に向けられた声に気付くことに遅れてしまった。慌てて視線を上にあげると、細身の吊り目の男が僕のことを訝しむ眼で見ていた。孤塚こづか 恒之つねゆき。言ってしまえば彼もただのクラスメイトだが、お調子者というか人当たりがいいというのか、いつも楽しそうに笑っている彼は友人を作るのが上手いという印象を持っている。実際に誰にでも分け隔てなく付き合える懐の広さから、クラス内の人気は高い。


「肱川、お前なんか最近悪いことしたか?」


 いきなり変なことを聞いてくる孤塚に、頭の中の酩酊感のようなものが一瞬で吹き飛ばされる。何故彼が僕のようなクラスの隅にいるタイプの生徒にまで声をかけるのかはわからなかったが、彼の真っ直ぐな声に対して親近感を感じないわけではない。たまに会話する程度の関係性だ。


「……してないけど」


 そんな孤塚は僕の返答を聞いて、だよなぁと言って笑う。彼の話の流れが分からずに首を傾げていると、元々細い目をさらに細めて、小さな声で僕に向かって呟く。


「渡り廊下に植木鉢が割れてたらしいじゃんか。なんか屋上から一年に向かってぶん投げたとかいう噂だぜ。あとちょっとで脳天直撃だったとか」


「え?」


 初耳すぎる話だ。そんな事件があったことも知らなかったし、なかなかに衝撃な出来事を知ったことにより、つい裏返った素っ頓狂な声で返してしまう。それが彼のツボに入ったのか、急に笑いだした。


「ぬへ、ぬへへへへへ、悪い、ぬへへ、ねふへへへへへ」


 なんて気持ち悪い笑い声だ。自分の声で笑われた怒りよりも先に、呆然としてしまう。暫しの間、奇妙な笑いを続けていた孤塚であったが、なんとか平静を取り戻し、わざとらしく咳払いをする。それでもまだ笑いを堪えているような表情を見ていると、怒るというよりも、なんだか馬鹿馬鹿しくなってくる。


「ぬふへへ、更に言うと、ガッコで屋上に入り浸ってるのは肱川と嶋村サンだけじゃん。ぬふへ、あんな甘々空間に誰も近づかないっつーの。まぁアレだ、美ッッ人で品行方正な嶋村サンはともかく、ぬふふ、肱川が疑われても仕方ないんじゃねぇか?」


 笑いながらも、言っていることは割と洒落にならないことだった。確かに屋上で昼食を食べているのは、僕と嶋村さんの二人だけだ。あまりにも自然に出入りしている為、元々立ち入り禁止だということすらすっかり忘れていた。


 後頭部から襟足にかけて嫌な汗が流れていくのを感じる。日々を無事に過ごしていきたい僕にとって、疑われることなんてあってはならないのだ。それも植木鉢を投げつけたなんて、生徒指導に呼ばれて尋問どころか下手をすれば停学退学コースではないか。そんなことがあったら、実際にやっていなかったとしても注目の的だ。そんなことは是が非でも回避したい情報だ。


「肱川、肱川は何処だ」


 だが現実は、いつもの通り非情であった。太い声のする方へと振り向くと、強面の生徒指導担当である新井先生が廊下から顔を出していた。静かではあるが怒りに満ちているその表情は、何もしていない僕でも言いようのない不安な気持ちにさせるには十分すぎるものだった。


「ほぅら、噂をすれば、だ」


 背後で笑っている孤塚と、視界の隅でオロオロしている貫田さんの存在が、少しだけ僕を冷静にさせた。つくづく思う。人生の幸福と不幸というものは、器用にバランスが取れているものだ。良いことがあれば、その分同じだけの悪いことも起きる。そうやって人間は生きていくのだ。だからこそ、悪いことを起こさないためには良いことも出来るだけ拾わないような生き方をしていたつもりだった。それも嶋村さんとの日々でそのバランスが大いに崩れてしまったのだろう。ここ1ヶ月ほどの僕は、今までで生きてきた中で最も幸福だったのだから。


「ちょっと聞きたいことがある。来てもらおうか」


 そして、その幸福を甘んじて受けたのは他でもない僕なのだ。ここで文句を言ったところで、どうにもならない。新井先生の声に席から立ち上がることで応えながら、ちらりと嶋村さんの方を見る。僕はともかく彼女になにか言及があることは避けなければならないのだが、肝心の彼女の姿は忽然と消えていた。もうすぐホームルームが始まるというのに、何処に消えたのだろうか。探したい欲求も出てきたが、段々と新井先生の眼光が強くなってきた。いつの間にかいなくなっていた嶋村さんに後ろ髪を引かれながら、彼に向かって歩いていく。


「骨は拾ってやるよ、火葬場でな」


 後頭部に投げつけられた孤塚の言葉はあまりにもナンセンスで、応える気にもならない。彼には聞こえていないだろうが、代わりに出てきたのは小さな溜息だ。冤罪であることは間違いないのだが、噂が噂だ。クラスメイトの視線を一身に浴びながら教室の出入り口の方へと歩いていく。せめて最初の一歩ぐらいは、力強く踏み出した。


「あの、あのね? 肱川くん、何もしてないんでしょ? じゃあ大丈夫だよ、きっと。新井先生ならきっと、わかってくれるよ」


 教壇の近くに立っていた貫田さんの声は相変わらず小動物のように震えている。それでも僕にかけてくれた言葉は優しく、僕のことをクラスの仲間として信頼しているからこそ放たれたものであることは理解していた。


「2時間目の理科は理科室だからなー」


 だからこそ、遠くから聞こえる孤塚の声に尚更げんなりしてしまう。それはひょっとして、一時間目には到底間に合わないというほど長丁場になるのだろうか。廊下に出た僕は、新井先生の後ろを歩きながらもうすぐやってくる苦難の時間のことを考える。他の教室の間仕切りの窓から、多数の生徒たちの視線が突き刺さる。もう慣れたものと思っていたのだが、未だにに慣れることがない。


 ホームルーム開始のチャイムが鳴る。これから何を聞かれるのかはわからないが、今の僕にできることは碌なことにはなりそうにはならないな、と頭の中で嘆くことだけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る