骨は拾ってやるよ、火葬場でな 後編
初めて呼ばれた生徒指導室。この高校生活において縁のない場所だと思っていたが、現実は時に悲しいものだ。扉を抜けた奥の壁際に立たされた僕は、どこか他人事のように立ち尽くしていた。机を挟んで廊下側に置かれたパイプ椅子に座る新井先生を見ていると、本当に自分がとんでもないことをしてしまったような気がしてくる。
机の上には、僕のスマートフォンが置いてある。基本的に授業中には電源を切っているが、ホームルームの段階ではまだ切っていなかった。理由はどうだかわからないが、撮影などをしないように先生の目につくところに置くようにしているのだろうか。
「渡り廊下の植木鉢の件、知ってるよな」
ドスの効いた声で、新井先生は僕に問い掛ける。本当に10分ぐらい前に聞いた話なのだ。よくわからないので、知っていることをありのまま答えるしかない。
「さっきクラスメイトから聞きました」
「そうじゃないだろ」
ぎろり、と新井先生の眼球が動く。知っていることを言っただけなのに、こういう反応は如何なものか。確かに1人の学生が危うく大怪我……下手をすれば命を落としていたところだったのだ。彼の怒りはわからなくもない。だからといって、それを僕にぶつけるのはお門違いだ。尤も、それを口にする勇気などは持っていないのだが。
大きく溜息をついた新井先生は、握り拳で机を軽く叩く。大柄で筋肉質の肉体を誇る彼にとっては優しく叩いたつもりでも、硬質の物体が机の上に自由落下したような思い音がした。
「そもそもなんで立ち入り禁止の屋上に入ってるんだ。立ち入り禁止の意味、知ってるよな」
それに関しては何も反論ができない。幾ら何を言ったところで、立ち入り禁止は立ち入り禁止なのだ。『鍵が開いてたんで入りました』なんて言ったところで、新井先生の怒りの火にガソリンをぶち撒けるようなものだろう。
こればかりは素直に謝ると、新井先生は面食らったような顔をする。なぜこのような反応をするのだろうか甚だ疑問ではあったが、早くこの場を終わらせたい身としてはそこあたりを詮索する気にはならない。
一瞬の静寂を誤魔化すような、新井先生の咳払い。そろそろ本題に入るようだ。
「屋上に入り浸ってるってのはお前くらいだって俺ァ知ってるんだ。んでもって、植木鉢は屋上から落ちてきた。植木鉢は風でフェンスを飛び越えるか? そんな風が吹くんだったらフェンスごと吹き飛んでるだろうが」
孤塚が言っていた通り、彼は僕のことを『屋上から渡り廊下に向かって植木鉢を投げ込んだ』と思っているのだろう。だんだんと強くなっていく口調に、改めて彼の怒りの大きさを実感する。
否定するだけならばいくらでも出来る。否定をするならばそれを証明する必要があるのだが、それはただの悪魔の証明だ。やっていないことを証明することなど、不可能に限りなく近いものだ。
頭をフル回転させてひたすら考えるが、今の新井先生を納得させるだけの言葉が出てくることはない。静まり返った部屋に、時計の秒針を刻む音だけが聞こえていた。
「生徒を疑いたくはねぇんだけどよ。肱川、俺に隠してること、ないよな?」
大きな溜息と同時に放たれた言葉に、心臓が小さく跳ねる。息が詰まり、言葉を出せない僕に対して新井先生の目の色が変わる。そうじゃない。そうじゃないんだ。彼の言葉で思い出したのは、誰にも当たらなかった植木鉢のことではなかった。僕の頭に浮かんでいたのは、黒い長髪の女の子の後ろ姿だ。
「何もありません」
彼女にカッコ悪いところを見せられない。ただそれだけが僕の呼吸器と声帯を動かした。僕は新井先生の目を真っ直ぐ見る。教師と生徒、尋問する側とされる側。明確な立場の違いがあったとしても、心当たりのないことを肯定する気など存在しない。
視線と視線がぶつかり合う。僕の意思が伝わったかどうかはわからないが、新井先生の疑念というものはありありと伝わってくる。もう少し生徒を信じてくれよと言いたいところだが、今の彼にはそのような言葉は通じないだろう。
再び訪れる静寂はそうは続かなかった。新井先生の背後、出入り口のドアを一定のリズムで叩く音が奏でられたからだ。壁掛け時計もないこの部屋では現在の時刻もわからないが、まだまだ一時間目の授業中のはずだ。基本的に誰かが入ってくるはずがない。まさか、他の教師も加わって僕を詰問するのではないだろうか。
「なんだ」
新井先生の大いに怒気を孕んだ声からして、他の教師が入ってくるという可能性は消失する。だとしたら、いったい誰だというのか。
「失礼します」
もうすっかり聞き慣れた、鈴のような声。簡易的な構造のフック錠ではあるがしっかりと施錠されているはずの扉だったが、音もなく開かれる。ホームルーム直前で姿を消していた嶋村さんが、空気の流れよりも早く僕のすぐ後ろに立っていた。
急に現れた気配に驚くのは僕だけではなかったようだ。新井先生すらも目を大きく見開いている。授業中だと言うのにどうした、どうやって鍵を開いたとか色々聞くべき事はあった筈だが、それを口に出すことはなかった。
硬い音が二つ。僕の1歩先へと進んだ嶋村さんは未だに呆気に取られている新井先生に向かって凛とした声を放つ。
「屋上にいたのは肱川くんだけではありません。私もいました」
恐らく嶋村さん自身も気づいていないかもしれないが、彼女の声には微かに怒気が含まれていた。一方的に僕だけを疑われていたという事実に怒っているのか、それとも何も言い返せなかった僕に怒っているのかはわからなかった。
彼女の声にやっと現状を認識したのだろう。硬直した身体を再び動かすことに成功した新井先生は、恐らく『なんでここに居るんだ』あたりを言おうとしたのだろうが、初めの『な』を発音する前に嶋村さんの続く言葉に覆い被されてしまう。
「肱川くんは何もしていません。私が見ていたのだから、間違いありません。彼がそんなことをすると思っているのですか?」
「いや、しかしだな」
完全にペースを握られてしまった新井先生は、中途半端な言葉で返すことしか出来なかった。それでも何かしらの反応ができているあたり、何も言えなかった僕よりはマシなのかもしれない。だが、それが逆に嶋村さんの逆鱗に触れたようだった。
「しかしも何もありません。何か前科があるなら百歩譲って分かりますが、何もしていない生徒を疑う。それは教師の正しい在り方なのでしょうか?」
先程は微かに感じる程度の嶋村さんの怒気は、いつの間にか肌全体で感じれるほどに強いものへと変わっていた。
怒気を向けられた相手の反応というものは主に二つある。一つはその怒気に屈し、怯えること。そしてもう一つは、それ以上の怒気をもって跳ね返すことだ。
「なんだと? 言わせておけば――!」
跳ね返された怒りは、更なる怒りを連れてくる。まるでマッチ一本の小さな火が大規模な森林火災を巻き起こすように、二人の間の空間が歪むのではないかという程に異様な雰囲気を創り出していく。
このままではどうにかなる話もどうにもならなくなるし、僕だけではなく嶋村さんも巻き添えになってまう。それだけは、それだけは何がなんでも避けなければならない。今日一番の勇気を振り絞り、二人の話に介入する。
「嶋村さん。いいんだ、いいんだよ」
パイプ椅子から立ち上がり、嶋村さんの前に立つ。例え一瞬の間だとしても、彼女が平静を取り戻すには十分すぎる時間だった。僕の背後で小さくごめん、と呟く嶋村さんの声が聞こえた。
怒れる二人が作り出す炎の間に入るよりも、勇気を使うようなことはない。もう腹の中を全て吐き出すのは容易だった。
「確かに僕達は屋上にいました。でも、植木鉢のことなんか知りません。悪い言い方かもしれませんが、誰か、他の人がやったんだと思います。ドラマや小説なんかじゃないんですから、僕には証拠やアリバイなんてありません。だから、だからこうやって言うことしかできません」
思ったより、すらすらと言葉が出てきた。新井先生に向かって頭を軽く下げ、今の気持ちを絞り出す。
「信じてください、お願いします」
再び静寂が生徒指導室を支配するが、僕は姿勢を変えなかった。嶋村さんの手が、僕の手に軽く触れる。不安に駆られた僕の頭の中にその手を握り締めたい欲求が急速で膨れ上がったが、どうにか理性で押し込めた。
「.......いや、こちらこそ悪かったな」
静寂を振り切ったのは、先程までの怒気は完全に消え失せた新井先生の静かな声だった。授業中でも感じることのなかった雰囲気に違和感を感じないといえば嘘になるが、この際は考えないことにした。
「焦っていたみたいだ。よく考えてみたら、お前のようなヤツが、こんなことをするなんてないのにな。肱川、お前を疑ってしまって、済まなかった」
小さく頭を下げる新井先生に、僕は心底驚いた。生徒にこのような行動をとるとは、とても思っていなかったのだ。
そこから先はあっという間だった。疑いは晴れたとは少し違う気がするが、僕と嶋村さんは何事もなく生徒指導室を出た。
「ふぅ、一時はどうにかなるかと思った」
嶋村さんの小さく息を吐く声と同時に、一時間目の終業のチャイムがなる。狐塚の言う通り、それなりの長丁場になっていたようだ。植木鉢の件のお陰で、屋上に出入りしていたことは有耶無耶になっている気がするが、その辺は幸運と思うことにする。
「ありがとう、嶋村さん。ホントに助かったよ」
「屋上は、しばらく使えそうにないね。お昼ご飯を食べるところ、探さないとね」
僕の言葉に、嶋村さんは柔らかい笑みを浮かべる。昼食の場所もそれなりに重要だが、二時間目は移動教室だ。出来るだけ早く教室に戻らないといけない。僕は嶋村さんの手を取り、教室に向かって歩き出した。
そういえば、自分から嶋村さんの手を握ったのは初めてだ。彼女の顔を覗くと、なんだか見た事のない表情をしていた。驚きと嬉しさと照れが混じっているようなその表情を見ていると、初めて彼女に手を握られた僕はこんな顔をしていたんだろうなんて考えてしまう。そしてそれを認識すると同時に、なんだか心臓の裏側が毛羽立つような感覚に襲われる。急速に早くなる心臓のテンポに、周りの血管が悲鳴を上げている。
それでもその手を離す気にはならなかった。ハードロックも真っ青な自分の心臓の刻むビートを聴きながら、教室へ向かっていく。恐らく同じようなリズムの心音を奏でている彼女と、ひと時のセッションを続けていった。
教室に着いた頃には、僕達以外はもう誰もいなくなっていた。もう理科室へ行ってしまったのだろう。がらんとした教室の光景が僕の頭を幾分か冷静にさせたことにより、止まっていた思考が再び動き出す。
割れた植木鉢が屋上から投げ込まれた。僕ではないのなら、他に誰が投げるのだろうか。推理するまでもなく、僕の頭の中に思い浮かんだのは、たった一人だけだった。
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