今は何も言わないで 前編
平穏な日々が過ぎていく。植木鉢の件など何も無かったかのように、僕と嶋村さんは日常を過ごしていた。相変わらず4月の事件に関して警察から連絡などなかったし、なにか進展したという噂も聞くことがなかった。
『ニュースの時間です』
母が作ってくれた朝食の目玉焼きを胃袋に放り込みながら、BGM代わりに垂れ流していた地方テレビ局のニュースを映していたテレビの方向に顔を向ける。一瞬理解できなかったが、液晶に映る街並みはこの久我の町並みであった。
『深夜1時頃の久我市の郊外の通りにて、24歳男性の
朝からいきなりなんてニュースだ。まだまだ眠気で脳が覚醒していなかった僕は、テレビに映された被害者の男性の写真を見て言葉を失った。ゴールデンウィークに嶋村さんと駅前に行ったとき、僕たちに変な絡み方をしていた粗暴者だ。見た事のある人が傷害事件に巻き込まれたのを知って急速に眠気が醒めていく。
『久我市では、ここ数ヶ月同様の事件が数多く発生しており、警察は関連性があるものとして捜査を続けています』
アナウンサーの声がだんだん無機質に聞こえてくる。頭の中がぐるぐる回る。先程まで口にしていた朝食に手をつけることが出来ずにいる僕を、母が怪訝そうな顔で見ていた。慌てて少しだけ冷めたパンを胃に詰め込んでいく。
「うわぁ、ここって陣内大学の近くじゃない」
母の呟きを聞いて、再びテレビへと視線を向ける。画面には被害者が襲われたと思われる場所が薄いモザイクを入れて放送されている。現地の人からすれば、この程度の修正は存在しないようなものだ。
ちなみに陣内大学とは、自宅から歩いて20分程度、高校と逆方向に向かって歩いたところにある私立大学だ。偏差値はそこまで高くない、俗に言うモラトリアムを楽しむための大学だと言われている。個人的な考えだが、大学というものは『ここからどうやって更に学ぶか』という場だと思っているので、国立大に行ったところでそこから何も学ばなければ意味がないという考えだ。国立大学に入学するのが目標で試験勉強に興じて、その結果合格したらそこで燃え尽きてしまうという人間もそれなりの数が存在するらしい。燃え尽きることなく、勉学に励み続ける環境を求めるならば国立だろうが私立だろうが関係ないのではないだろうかと常日頃から思っているが、実際のところ僕はまだ高校二年生だ。これからどうなるかなんて、わからない。
「アンタ、気を付けなさいよ。特にあの時みたいに夜遅く出歩いちゃ駄目だからね」
心配そうな声をする母の気持ちはわかっていた。4月の同級生が襲われた事件。よく考えてみると、僕も襲われていた可能性も十分に存在するのだ。黒く長い髪の毛をした女性、嶋村さんに。
奇妙な関係がずっと続いているのは自分でも不思議に思うし、時折本当に彼女があんな事をしたのか、なぜ彼女が僕に告白してきたのかわからなくなる。嶋村さんは『僕の眼が良い』と言っていたが本当のことは何も分からないのだ。
「ご馳走様。気をつけるよ」
出来る限り母のことを見ないようにしながら答える。僕と違って勘のいい母だ。なにか察してしまう前に食事を済ませ、食器を持って流しへと歩いていった。
「気をつけるじゃなくてやめてくれって言ってるのよ、全く」
溜息と同時に吐き出された母の言葉が、背筋に重く突き刺さったような気がした。
『続いて、今日の天気です。今日はスッキリとしない空模様です。お昼から雨が降りますので、傘を持って――』
いつの間にかニュースは終わっていて、爽やかな笑顔のお天気キャスターが今日の天気を伝えていた。殆どの人にとって、こんな事件など対岸の火事以下の存在なのだ。何事もなく地球は回るし、世界も動いていく。気にしている人の方が、余程少ない。
身支度を済ませた頃には、あの男の名前も薄ぼんやりとでしか思い出せなくなっていた。そういうものだよな、と思いながら玄関のドアを開ける。もうすぐ梅雨の到来だ。毎日毎時間ごとにだんだん強くなってくる厚く長い雲の気配は、元々憂鬱だった僕の心を更に陰らせていく。
雨は嫌いだ。雨粒が周りの音を吸い取って、辺りの音をかき消してしまうから。人は皆、根本的なところで孤独であることを思い出してしまうのだ。僕も母も嶋村さんも、人格全てを分かり合うことなどできやしないのだ。
傘を手に持ち、いつもの通学路を歩く。あの十字路に行けば、嶋村さんが待っている。今朝ニュースで見た事件は、もしかして彼女がやった事なのではないだろうか。脳の奥で発生したほんの小さな考えは、あっという間に膨れ上がり頭の中を埋めつくしていく。発泡ウレタンを彷彿とさせる粘り気のあるモヤモヤとした感情を抱えながら十字路にたどり着いたが、そこには誰もいなかった。
いつもあのガードミラーのそばで微笑みながら佇んでいる嶋村さんの姿が見えない。数ヶ月前までは当たり前の光景だった筈だが、彼女がいないことに思ったよりも寂しく思っている自分がいた。
頭脳明晰、運動神経抜群な彼女だって、たまには寝坊ぐらいするだろう。むしろ毎日僕を待っていたことを当たり前に思っていてはいけなかったのだ。自戒の念を持ちながら、彼女を待つ。
なんだかんだで10分経った。これぐらいはよくある誤差の範囲内だろう。イヤホンをスマートフォンに接続し、音楽アプリを起動する。プレイリストを編集しているだけで、時間の経過は幾らでも早くなるものだ。
更に15分が経った。さすがにこれ以上待ち続けると、遅刻が確定してしまう。皆勤賞を狙っているつもりなど全くないが、ここまできてもやって来ない嶋村さんに何かあったのかな、と今更ながら思い始めてきた。
音楽を垂れ流していたスマートフォンを操作し、メッセージアプリを起動する。最初からこうすればよかったのだ。連絡先を交換したものの、なんだか気恥ずかしくてあまり活用したことがなかったが、こういう時こそ使うべきものだろう。
『おはよう、何かあったのかい?』
挨拶のスタンプを送った後に簡潔なメッセージを送る。目を通せば既読のサインが付くはずの僕のメッセージは彼女の目に入ることはなかった。
もしかして、風邪をひいて寝込んでしまったのかもしれない。物騒なニュースのことなどもうどうでもよくなっていた。胃が心配で縮んでいくが、学生という身分としてはそろそろ校舎に向かわなければならない。
『ごめん、先に学校に行ってるよ。何かあったら連絡して欲しい。すぐに飛んでいくから』
そもそも、僕は彼女がどこに住んでいるのかわからないのだが、気持ちだけは伝わってくれと思いながらメッセージを送ったが、やはり既読のサインが付くことはなかった。
後ろ髪を引かれる思いで、校舎へと足を向ける。頭上の雲は厚くなっていて、今にも雨が降り出しそうだった。
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