ダメに決まってるだろ 前編

 雨が降りしきる6月。梅雨真っ盛りだ。実際に今、僕たちがいる久我の街も冷たい雨粒が静かに降り注いでいる。湿気だとか、低気圧や温度差などでこの時期は憂鬱だとかいう人もいるだろう。しかし雨音で様々な音を流して、ゆっくりと時間が過ぎていく感じのするこの時期が、僕はとても好きだったりする。


「嶋村さん」


 そんな好きな時期だからか、珍しく僕から彼女へと声をかけていた。少し驚いた顔をした嶋村さんであったが、すぐにいつもの柔らかな笑顔に戻る。


 正直なところ、どの顔をしている嶋村さんが本当の彼女なのかなど、もうどうでもよくなってきていた。柔らかな微笑みをしているときも、見るものを狂わせるような妖艶な眼をしているときも、全てを凍てつかせるように冷たい表情をしているときも。その全てが全て嶋村七海なのだろう。そして、その全てを受け入れはじめている自分がいることに気付いたのだ。


 だから、もう、どうでもいいのだ。彼女が何かをしているようならば止めなければならない。ただ、それだけは忘れてはいけないとは思っているが。


 それでも時折、不安に思うのだ。もし彼女が誰かに危害を加えているのを目撃したとして。僕にそれを糾弾し然るべき処遇を受けさせることができるのだろうか。ほんの僅かな正義感など一息で吹き飛ばす嶋村七海の魔性に、抗うことができるのだろうか。澱みはじめた思考を無理やり押し込み、嶋村さんに提案をする。


「次の週末、どこかに出かけないか?」


 この関係が続いて早くも2ヶ月が経過していた。何度か二人で出かけることはあっても、いつも提案していたのは嶋村さんだ。なんというか、『コイビト』として過ごしている以上、何もかも彼女に任せっぱなしは如何なものか。なんとなくそう思ったのだ。


「ん、いいわよ」


 頷く嶋村さんを見て、一人胸を撫で下ろす。誘う立場になったらなったで、『断られたら』という考えもなくはなかった。もしかしたら、今までの嶋村さんもこんな気持ちで僕を誘っていたのか。そんなことを思ったりした。


「どこか行きたいところはあるの?」


 その言葉を待っていた。実は個人的に行きたいところがあった。大きく息を吸い、吐き出す勢いで言葉にしていく。例によって僕の好きなロック関係のグッズを扱っているショップがあるという話をどこかで聞いたのだ。行かない理由はないし、嶋村さんが好きそうな雑貨屋も何店舗かは存在していることもリサーチ済みだ。流石に久我の駅前のようなアナグマグッズ専門店はなかったが。


「そうだね。日比生あたりとかどうだろうか。最近ショッピングモールが出来たらしいんだけど」


「あぁ、あそこね。私も行ってみたかったし、そこにしましょうか」


 じゃあ決まりだ。胸の中でガッツポーズをしながらそう答えると同時にホームルームを告げるチャイムが鳴る。まだ担任の教師は教室に入っていないが、先に動いていることに越したことはない。自席に戻り、一時間目の数学のノートを鞄から引っ張り出していると、前の席に座っていた孤塚が相変わらずの笑顔を貼り付けながら僕に向かって振り向いた。


「なになになになに? 日比生行くのか?」


 先程の話を聞いていたのか。そんなに大きな声を出していないつもりではあったが、もしかして聞き耳を立てていたのか。あからさまに訝しむ顔をしてみても、彼には届くことはない。半ば諦めながら無言で教科書を取り出し、机の上に置く。


 僕の沈黙を肯定と取ったのか、孤塚は心底楽しそうな顔をしている。朝っぱらから何がそんなに楽しいんだろうか。彼も嶋村さんの言っていたような、潤いのある日々を送っているのだろうか。そう思うと、乾いている自分自身が惨めに思えてくる。そんなことなどまるで気づいていない孤塚は、馬鹿みたいに大きく口を開いて笑った。


「いやー、俺も行ったことなかったんだよ。ついていっていいか?」


「ダメに決まってるだろ」


 思考を挟むことなく、脊髄反射で即答した。嶋村さんと二人でいるところを誰かに見られるだけでも相当嫌なのに、複数人――それも孤塚なんて最悪の最悪だ。喧しいことこの上ないだろう彼が暴れ回ることによって、僕達のペースが掻き回されるのは明白だった。


 なんでどうしてと騒ぐ孤塚を適当にあしらうが、従ってくれそうにない。嫌なものは嫌なのだと言っても、おもちゃコーナーの前で駄々をこねる子供のように喚き続けるだけだ。このままだと折れそうになる自分に内心で喝を入れながら、彼の誘いをひたすらに断り続けていく。


「いーじゃんいーじゃん、貫田さんとかも呼んでさぁ。ダブルデートって感じにしようぜ肱川ァ、うはへへへへへははへ」


 しかもコイツはさも当然のように貫田さんを巻き込むつもりらしい。なんというか、ここまでフリーダムに考えることの出来る孤塚に、一種の憧れのようなものもあるというのも事実だ。それでも彼の提案を受け入れる気など更々ないのだが。


「というかなんで貫田さんが出てくるんだよ」


 何気なく思った疑問を口にすると、孤塚は急に硬直し、額から大量に汗を流し出す。整髪剤が全て落ちてしまうのではないかというほどに流れる汗の量は尋常ではない。この梅雨空の下で走り回ってきたかのように身体中の水分を放出している彼は、このペースだとそう時間がかからないに干上がってしまうのでないだうか。


「それは、その、なんだ。貫田さん、人付き合いいいからさ。呼べば、来てくれると、思って」


 急にしどろもどろになる彼の異様な反応に、脳の処理が追いつかず、乾いた瞳で見てしまう。孤塚はポケットからハンカチを取り出し、整髪剤によって微かに濁った汗をひたすらに拭きながら誤魔化すように叫びだした。


「かーっ、ケチだ。ケチだねぇ。それともアレか。二人でラブラブするどころかヌチャヌチャするんじゃねぇよなァ。それなら俺ァお邪魔虫どころかお邪魔大皇帝になるっつーのはわかるんだ。つまりそういうことなのか!」


「違うわ。人聞きの悪いことを言わないでくれ」


 自身の動揺を塗りつぶすように、大声でズルヌッチョンだとかバチュバチェだとか訳の分からない擬音を喋り続ける孤塚の言葉を聞きながら、普段は出来るだけ遅く来て欲しい担任の早い到着を心の底から祈っていた。


 担任が来るまでのおよそ5分間、孤塚恒之はひたすらに絶叫を繰り返していたが、呪詛に似たその叫びは外の雨粒が全て吸い込んでしまっていた。

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