女の子だけど、男の子の通過儀礼を行うことになりました
冬が開けて、アッコに遅い春がやってきます。積もりに積もった雪が解けていくと、村の外から商人のことを心配した一団がやってきて、いくばくかのお礼を置いて彼らは村に別れを告げました。
ヤーカは商人から読み書き計算の基礎を冬の間に仕込んでもらい、それに加えて村にやってきた一団から一冊の本を受け取りました。それは商人見習いなら全員読むと言われている行商の本であり、そこには様々な物品の挿絵や相場などだけでなく、地方の風土も書かれていました。
ヤーカはそれに飛び跳ねるほど喜んで、暇さえあればその本の内容を読み上げては、地面にそれを書き写すという練習を始めました。アッコでは食べることができない果物、見ることができない動物、想像すらできない自然現象に、ヤーカは目を輝かせ続けました。
本をよく読んで、自分の知見をしっかりと広げる。その大切さをヤーカは子供ながらに理解したのでした。そして、狩りや装飾品作りの合間を縫って家の裏手の地面に向かう様を、チリーはよく見つめていました。
ヤーカの人生の岐路があった冬から、春がそうやって穏やかに過ぎ去ると、やがて夏が来ます。
太陽の位置が高くなり、北の果てと言えどもそれなりの気温になってきたころ、父はヤーカに真剣なまなざしで問いかけました。朝食の後でした。
「ヤーカ」
「何?」
子供の成長とは早いもので、季節が二つも過ぎればヤーカはそれなりに背が高くなって精悍な顔つきになっていました。黒い髪や灰色がかった瞳はいつも通りでしたが、その目つきには幼さが無くなり始めていました。
父はそんなヤーカの目を見て、肩をすくめると、彼女に問いかけます。
「やっぱり、狩人になりたいか?」
「うん。なりたいよ」
ヤーカは決意に満ちた表情で頷きます。それを見た父は顔を伏せて、何かを考えるように目をつぶると、しばらく静かに何事かを考え始めます。ヤーカはそんな父の仕草を初めてみたので、彼のことをじっと見つめ続けました。
そして、父は十数分も考え込むとやがて顔を上げて、鋭い視線でヤーカのことを見つめます。それはまるで、相手を射殺すかのような物で、ヤーカは背筋に冷たいものが走りました。
「わかった。付いてこい」
父はそう言うと夏なのに外套を、狼の毛皮で作りちょうどフードに当たる部分が上あごの、それを体にかけます。加えてフードを被って、一見して人狼に見えるような格好になりました。
そして、そんな格好の父はヤーカを伴って村を出て森に入っていきます。夏の森は、少しでも光を取り入れようと木々が青々としており、冬とは打って変わって緑や茶色、花々やそこに飛んでいる蝶の鮮やかな色々がありました。
ヤーカはそんな中で、狼の背中をもつ父に問いかけます。
「どこに行くの?」
「森の王に会いに行く」
父の言葉は簡潔でした。
二人の歩みはとても長いものなりました。日の出すぐの朝食の後家を出たのに、目的地に着いた時は太陽が空の頂点に達したころでした。
森の中にぽっかりとあいた空間があって、そこからは雲一つない青空がよく見えていました。そして、その下にあったのは光にキラキラと輝く大きな泉でした。
雪解け水が森中から集まってきて、ここにあつまり、やがて川となって流れ出ていく場所でした。おとぎ話に出てくるような聖域とす形容できそうなほど美しい光景に、ヤーカは息をのみます。
そして、父の言う森の王は、その泉のほとりで眠っていました。森の王とは、大きな狼のことでした。父が来ている外套の狼と同じ種類であろう森の王は、二人が泉にやってきた時に耳をピクリと動かして、それから悠然と立ち上がります。
くすんだ銀色の狼が一歩一歩二人の元にやって来ると、そこでようやく見えたはしばみ色の目には理性が宿っているのがよく見えました。やがて狼が人間の父と子の前に立ち二人を交互に見ると、やがて父に向かって低く唸るような声をかけました
「久しいな」
「ご無沙汰しております」
地の底から響くようなその声は森の泉とはアンバランスで、その声に父は頭を下げて挨拶をしました。ヤーカは間近で見る、自分よりもはるかに背が高く、大男である父と同じくらいの巨躯をもつ狼に足を震わせて息を止めてしまいます。
「して、何の用だ?」
「この子が、狩人になりたいと」
狼の問いかけに、父は隣のヤーカの頭に手を置きます。父の無骨でとても大きな掌を、頭に感じてヤーカはその暖かさにようやく、詰まっていた息を吐き出しました。
そんなヤーカをよそに、狼は父の言葉でヤーカのことを見ます。足元から頭の先までよく見て、狼は首を傾げるように頭を何度か振ります。
「ふむ?女……女だから、森の奥に入っても良いかと聞きたいのだな?」
「それもあります」
一方のヤーカは、今まさに人の顔ほどもある咢が開いて、自分のことを飲み込んでしまうのではないかと気が気ではありませんでした。
そして、狼はしばらくヤーカの灰色の目を見ながら考え込むと、ふと父の方へと視線を向けました。
「儀式か?」
「はい」
ヤーカの聞き慣れない言葉に父が頷くと、狼はヤーカに顔を近付けます。凶悪な顔が近付き漂ってくる獣臭さを感じながら、ヤーカは唇を引き締め、震えるこぶしも握りしめて狼のことを睨みます。
狼は小娘に睨まれたとしても何も感じないのか、すんすんと鼻を鳴らしながらヤーカの周りをぐるぐると回り始めます。そして、彼女のことをよく観察しながらぽつりとつぶやきました。
「確かに女だが、男のような匂いもする」
その言葉に父は首を傾げましたが、すぐに男の気質があるという意味だろうと一人で納得します。狼はひとしきりヤーカのことを観察し終えると、父と目を合わせて何でもないかのように軽い調子で言葉を放ちました。
「良いのではないか?」
「良いのですか?」
父はその一言に眉を顰めて、問いかけ直します。
「良い良い。元より、私とお前たちの間には、一つの取り決めしかないのだから。我々の間にあるのは、儀式だけだ」
森の王は、王らしく、不遜に厳格に言い切ります。
そして、その宣言に父は顰めていた眉に力を抜き、やがてあきらめたかのように背の低いヤーカのことを見ながら小さく呟きました。
「そう、ですね」
「ふぅむ……人の感情はよくわからぬ」
狼は父のその仕草に何かを感じましたが理解を仕切ることはできず、やがてヤーカに向き直ります。
「して、子よ。名前は?いつ生まれた?」
「ヤーカ、7歳」
「ヤーカ、ヤーカ、ヤーカ……」
ヤーカは声が震えないように単語ごとに、腹の底から言葉を絞り出します。名前を聞いた狼は目を閉じて、しっかりと覚えるためにその名を口の中で転がしました。
そして、名前を覚えた狼は目を開くと、そのはしばみ色の瞳の色を強くさせながらヤーカに語り掛けます。
「儀式については?」
「何も知りません」
「そうか。なれば、教えよう!」
ヤーカが首を振ると、狼は一つ頷き、やがて高らかに空を見上げて朗々とした声を上げます。その声は夜闇に響く恐ろしい遠吠えに似ているようで似ておらず、聞くものにある種の決意と勇気をみなぎらせるようなものでした。
「儀式とは、我ら狼とそなたら人が殺し合うもの!生き残れば狼は言葉を。人は牙を手に入れる!」
狼の声は泉を震わし、やがて森へと消えてきます。
「この森にすむ人と狼との古よりの契約!狩猟の神リュカの名のもとに儀式は執行される!」
ヤーカはリュカという神に聞き覚えがありました。神代で最も弓の扱いが上手く、それの腕に嫉妬された他の神に狼に変身させられた男神でした。アッコでは彼をモチーフにしたタペストリーが幾つも飾られていました。
「ヤーカ!人の子ヤーカよ!命を賭けよ!強く、賢く、その灯を永らえさせよ!」
森の王は将来の儀式にヤーカが参加することを、森全体に宣言しました。
声がやがて森の奥に消えていった後、狼はヤーカに向き直り幾分か柔らかい声で問いかけます。
「ヤーカ、お前の心には何がある?」
ヤーカはその質問に言葉が詰まってしまいます。
英雄譚に語られる男達のようになりたい。兎にも角にも弓や剣に触ってみたい。わくわくするような本を読んでみたい。伝え聞く想像もできない食べ物を食べてみたい。なにより、未だ見ぬ景色を見てみたい。
ヤーカは心に去来したそれらを咄嗟に言葉にすることはできませんでした。しかし、狼はヤーカの灰色の瞳に何か強い感情を感じたのか、歯をむき出しにして笑ったような仕草を見せます。
「答えられなくてもよい。ヤーカ、ゆめゆめそれを忘れるな」
森の王のその言葉に、ヤーカは今まで感じていた恐怖はどこへやらこくりと頷きます。
そして、狼はそれに頷き返すと、父に向かい合って一つ思い出したことがあると、口を開きました。
「たしか……。おぬしの子は一人死んでいたな?確か、勇気と答えた子がいた」
「ヤーカの10上の兄でした」
父の簡潔なその物言いに、ヤーカは目を見開いて彼のことを見上げました。見上げられた父はヤーカのことを見つめ返すことはできず、じっとまっすぐ前を見続けます。ヤーカから見て逆光に眩む父の表情は見えず、彼女は開きかけた口を閉じて狼へと視線を移しました。
「そういうことだ。わかったか?」
「はい。よく、わかりました」
ヤーカは声を沈ませながらも、はっきりと答えました。
二人はその後、時間をかけて家へと帰ります。泉に居た時間は短いものでしたが、見慣れた森の景色のあたりに付くころにはもう日が暮れかけていました。
地平線に沈みかけた太陽は森を横からよく照らして、長い木々の影をオレンジ色の光で作ります。肌に感じる光が少しだけ暖かいのに、ヤーカの心は冷えていました。
そんな中、父は太陽を見ながらぼそぼそと口を開きます。
「ヤーカ……本当に、一人前になりたいか?」
その言葉に、ヤーカは父のことを見上げて、それから彼が着ている狼の毛皮の外套を見て、それからまっすぐ前を向きました。
「なりたい」
「そうか」
言葉と共にため息をついた父はこの期に及んでは何も言うまいと、ヤーカの言葉を尊重することにしました。そして、手を娘の小さな頭に乗せます。
「明日からは狩りだけだはなく、戦い方も教える」
父の大きな手の中でヤーカは頷き、彼は優しく彼女のことを撫でました。
やがて、村が遠くに見えてきた時、父はヤーカに一つだけ言葉を投げかけるのでした。
「死ぬなよ」
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