女の子だったり、男の子だったり、狼だったり

 儀式が終わった直後、月が木々の上に見え始めた頃。皆は凍った泉の真ん中に集まっていました。その人々の中心にいたのはヤーカと死んだ白狼で、彼女は疲れた表情で森の王の前に座り、彼が口を開くのを待っていました。

「ヤーカよ。儀式の仕上げがある。怪我が辛いと思うがもうしばらく我慢しろ」

 森の王がそう言うと、狼たちの中からくたびれた体を持つ老狼が進み出てきました。彼は森の王と同じく儀式で言葉を得た者だったらしく、老人らしいしゃがれた声を発します。

「我らは獣たちを追い払ってきましょう」

「頼んだ」

 そして、老狼はそう言うと、他の狼たちを伴って泉の外へと駆け出していきました。

「人たちは手はず通りに」

 森の王がそう言うと、父は数人の手を借りながら白狼の死体をばらし始めます。実に丁寧に皮を剥ぎ、死体に残った血を氷の上に垂らしてしまわないようにその上で肉を慎重にナイフを入れていきました

 残りの男衆は泉のちょうど真ん中に大きな槌を下ろし始め、氷を少しずつ割る作業に没頭し始めます。

 ヤーカはその様子を、森の王の前に座り込んで眺め続けていました。

 大人一人よりも体が大きい狼の皮を剥いで内臓と肉と骨に丁寧にバラすのにも、分厚い氷を人力で叩き割るのにも時間はどうしてもかかるので、結局作業が終わったのは月が天頂に昇り切る直前でした。

 すべての作業が終わると、森の王は満足そうに頷き、ちらと空を見上げてからヤーカ以外の全ての者に目配せをします。

「皆、泉の外へ」

 その言葉に、父を含む人間も報告に帰ってきていた狼も大急ぎで泉の外へと駆け出します。ヤーカがどこか他人事のようにそれを眺めていると、森の王は静かに彼女に立つように促しました。

 ふらっとヤーカが立つと、森の王は凍った泉の真ん中に空いた穴を覗き込みます。そこには透き通った水が湛えられており、それは今夜の空を綺麗に切り取っていました。

 白や青、赤色の星々が瞬いているそこを、森の王はじっと見つめヤーカに言葉を投げかけます。

「月が泉へ降りてくるぞ」

 ヤーカも水の鏡を覗き込んでみると、そこの縁が段々と輝き始めて、真ん丸の月が入ってきます。すると、月光が水の中へと入り込んでいき、湖底に乱反射し始め、泉全体が青白く光り輝き始めました。

「凄い……」

 あまりに美しく、幻想的な光景にヤーカが呟きました。

 森の王はしばらくヤーカがその景色を眺める時間をやり、それから儀式を完遂するために彼女に指示を出します。

「服を脱げ」

「へ?」

 ヤーカは森の王の言葉に素っ頓狂な声を出し、はっと彼のことを見ます。そして、泉のほとりにぽつりぽつりとある黒い影を見て、どうしても閉口してしまいます。自分の体の秘密がこうして暴露されることは一切考慮していなかったので、ヤーカは頭が真っ白になってしまいました。

「寒くないから、早く」

 しかし、森の王は的外れなことを言いながらせかし、ヤーカは事ここに至っては仕方がないかと観念して服を脱ぎました。

 ヤーカの体は女性らしく肩のラインなどが丸みを帯びていて、胸も小さいながらもありましたし、筋肉質な腰がくびれてわずかにお尻が突き出ているのも女性の範疇でした。しかし、彼女の股には、人差し指程度の長さの男の象徴が真っすぐ垂れていて、女性的な曲線美に男性的な直角性が交わっていました。

 森の王はそんなヤーカの裸を見て、首を落としながら納得したと声を吐き出しました。

「ああ、なるほど。そう言うことだったのか」

「皆には言わないでください」

「大丈夫だ。向こうからは見えん」

 ヤーカは恥ずかしそうにそう言いますが、森の王は首を振りました。ヤーカはそれを聞いてほっと肩を落とし、気を取り直すように森の王と目を合わせます。

 森の王はヤーカの灰色の瞳にしっかりとした力が宿るのを見ると、愉快そうに尻尾を振り儀式を次の段階に進めることにしました。

 彼は氷の上に置かれた白狼の解体された体を鼻で指し示して、ヤーカに指示を出します。

「心臓以外の内臓と肉、骨を泉の中へ」

「はい」

 ヤーカは裸のまま言われた通りに、殺し合った狼の成れの果てを泉の中へと静かに入れていきます。不思議なことに、赤い血だらけのそれらをいくら投げ込んでも、水面の色は真っ白のままに変わらず、光り輝く泉全体の色も青白いままでした。

 そんな光景にヤーカが感心するのもつかの間、森の王は矢継ぎ早に指示を飛ばします。

「さあ、毛皮を被って。包帯を外せ」

 ヤーカは言われた通りに毛皮を裸の体に掛けて、左腕のきつく縛った包帯をほどいていきます。赤黒い包帯が解かれると、その下にあったのは生々しい傷跡で、縛られていたものが無くなった途端にだらだらと血が流れ始めてしまいます。

 森の王はその傷をみて、焦ったような口調でヤーカに言葉を続けます。

「心臓を抱き、月へ飛び込むんだ」

「凍えませんか?」

 ヤーカはさすがにそれは、と困惑した表情を見せますが、森の王はそれどころではないと鋭い声を上げます。

「いいから!早く!」

 ヤーカは観念すると、白狼のこぶしよりも大きな心臓を胸に両手で抱き、割られた氷の縁に立ちます。そして、深呼吸をして覚悟を決め、水面に浮かぶ大きな満月へと飛び込みました。

 ざぶんっ

 水音と共に足先から身が切れるほどの冷気が来るものとヤーカは覚悟をしていましたが、実際にはそんなことは無く、どこか暖かい水がそこにはありました。どうして、とヤーカが目を開けると、そこは青白い月光で満たされていて、光しか見えないのでした。

――ヘカトイアよ…………ネウロンの………――

 その時、遠くから森の王の声が断片的に聞こえ始めます。ヤーカはその声をよく聞こうと耳を澄ませてみますが、最初は何とか聞こえていた声はぼやぼやとし始め、とうとう何も聞こえなくなっていきます。

 それと共に、ヤーカは被った毛皮が体にまとわりついてくるくすぐったい感覚を感じ、

 ドクン…ドクン…

 止まったはずの白狼の心臓の鼓動の音が、聞こえ始めました。

 ヤーカは胸の強い拍動に目を見開き、よく見ようと顎を引いてみます。ですがそれは、急激に意識が薄れていってしまったために叶いませんでした。

 暖かい、何かに包まれているような、抱かれているような、そんな安心できる感覚にヤーカは微睡み。やがて彼女は首根っこを勢いよく引っ張られる体感に、一気に目が冴えていきます。

 ざぁっと自ら引き上げられる音を耳に感じ、顔にかかった水に目をつぶっていると、ヤーカは体全体から違和感と、妙にしっくりくる居心地の良さを同時に感じます。

 そして、ヤーカが顔を振って目を開けると、いつもよりも視線低く、森の王を見上げることになりました。

「成功だ」

 森の王はそう言って、鼻先で水面を見るようにヤーカに促します。ヤーカが首を傾げながらも、顔をそちらに向けてみると、

「ワン!?」

 そこには死んだはずの白狼が立っていました。そして、ヤーカが驚きの声を上げれば、水面の白狼が口を広げるのでした。

「牙を手に入れるということはこう言うことだ」

 森の王は荘厳にそう言って、ヤーカはそちらの方を見やります。嗅覚や聴覚も狼になってしまったのか、今のヤーカには目の前の森の王の匂いや泉のほとりで待機している人々のざわめきがよくわかりました。

「ワン」

 とヤーカは鳴いてみて四本足で歩いてみますが、生まれた時から狼だったかのように実に簡単に体を動かすことが出来ました。森の王はそんなヤーカの仕草を見ながら解説を続けます。

「人狼とは違う。れっきとした変身の魔法『メタモルフォーン』だ。古い、とても古い時代の魔法で神の御業でもある」

 ヤーカは自分の左腕の傷が治っていることに気が付き、そして、狼に変えられてしまったリュカ神の伝説を思い出します。

「我々は人の言葉を手に入れるだけなのだがな。これはとても便利なものだ」

 森の王はそう言うと小さく笑い声をあげてヤーカに近づき、彼女の顔を毛づくろいする様にぺろりと舐めます。その表情はとても優しい物で、ヤーカはふと自分の父のことを思い出しました。

 森の王は愛おしそうにヤーカのことを舐めたり匂いをかぎ始めます。それにヤーカが何かを問いかけようとすると、彼は首を小さく振って遠ざかっていきます。

 そして、毅然とした森の王の雰囲気にもどると、彼はしかと言い放ちます。

「さ、人に戻りたいと願え」

 ヤーカはなんとなくどうすればいいのかがわかって目をつぶります。すると、狼の形の感覚が一旦縮んで、そこから人の形に広がっていくような物を覚えました。

 そっと目を開ければそこには裸の人の体があって、狼の大きな毛皮を被っていました。それに、森の王は満足そうに頷きます。

「うむ。これで儀式は終わりだ。村に帰ってしばらく安静にするがよい」

 ヤーカはそれに頷き、服を着てから父に向かって手を振りました。


◆◆◆


 深夜。月が一番高い所から降り始めた頃、チリーは家の外でじっと座って待っていました。彼女の周りには、ヤーカの母や兄達、剣の兄弟子達もいて、気もそぞろと言った雰囲気でした。

 チリーは寒さで頬が真っ赤になって霜焼けていましたが、そんなことは全く気になっていませんでした。

 すると、遠くの方から雪が蹴られるぼすぼすというくぐもった音が聞こえてきます。それに、チリーは勢いよく立って、瞳を潤ませながら森へと向かって走って行きました。

 果たして、葉を落とした木々の間に落ちる月光に照らされて現れたのは、白狼の毛皮を羽織ったヤーカで、彼女は晴れやかな笑顔で口を大きく開きます。

「チリー!」

 名前を呼ばれたチリーは、涙をいったん呑んで、それからこけそうになりながらも彼女のことを見つめながら名前を呼び返します。

「ヤーカ!」

 ヤーカは体勢を崩したチリーのことを下から掬い上げるように抱きしめ、ぐるりと彼女のことを一周回して、一番言いたかった言葉を紡ぎだします。

「ただいま!」

 その言葉に、チリーは背が高くて体の大きなヤーカのことを両手で抱きしめ返し、彼女と頬をすり合わせます。そこには、どこまでも優しい本物の暖かさがあり、ちょっとだけ水に濡れていました。

「おかえり!おかえり!おかえりぃ……ヤーカぁ……」

 ヤーカはぽろぽろと泣くチリーの細い体をぎゅうっと抱きしめて、彼女の白い髪に指を入れて頭を撫ですさります。

「ただいま」

 そして、ヤーカは噛み締めるようにそう囁くのでした。

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