さよなら
薄暗い寝室で、ヤーカは目を開けていました。彼女は自分と同じ枕に頭を置いた、白い髪と肌を持つ幼馴染のチリーの横顔を眺めて寝転んでいました。
布団の中はとても暖かくて、僅かに甘い香りがしていました。
今の季節は春で雪も解け始め、雪の下からはもう草花が芽生え始めています。ヤーカは、チリーはそんな花達よりも良い香りだ、と思いながら彼女の頬を撫でます。
柔らかい。ちょっと指を立てたら、どこまでも沈み込んでいくのではないかと錯覚してしまうような柔らかさ。ヤーカはチリーのその感触を決して忘れないように何度も撫で、最近ますます美人になって、霜のように綺麗で長いまつ毛を見つめます。
やがてヤーカはため息を小さくついて、彼女から手を放し布団から出ようとします。すると、もぞもぞとチリーが寝返りを打ってヤーカの体に抱き着いてきました。
全体的に細いチリーの体でしたが、彼女の二つの丘はそれなりに大きく育っていて、ヤーカは体に感じるその頬よりも柔らかい感触に顔を赤らめていきます。
一瞬もっと堪能したいと邪な考えが浮かびますが、ヤーカは首をぶんぶんと振ってチリーの腕の拘束をそっと解いてしまいました。
ヤーカは今度こそベッドから降りて床に立ち、最後にチリーの額にキスをし、部屋から出ようと踵を返します。そしてドアノブに手をかけた瞬間、ぎしというベッドが軋む音が鳴り、ヤーカは扉に顔を向けたまま後ろに声をかけます。
「起こしちゃった?」
「うん」
衣擦れの音がごそごそと聞こえて、やがてチリーの小さな足音がヤーカの真後ろに来て止まります。ヤーカは少しの間目をつぶって考え、やがて何も言わずに扉を開けてチリーを伴って家から出て行きました。
家の外は霧が出ていて、まだ太陽が顔を出していないものの、地平線の向こう側から光が漏れ出ていたために白く薄明るく、ヤーカとチリーはそんな村の中を無言で歩きます。
背の高いヤーカの方が歩くのが当然早く、チリーはそんな彼女の後姿を早足に追いかけます。いつものヤーカならチリーに合わせてゆっくり歩くのですが、今日は自分のペースで歩いていました。
二人はやがて村はずれにある、いつも二人で過ごした大きな木の下にやってきます。そこには隠すように荷物が置いてあって、ヤーカはそこで無言で旅装へと着替えていきます。旅支度は数分もかからずに終わり、ヤーカはあとは荷物を背負えば出発できるといった出で立ちになりました。
チリーはそこでようやく、ヤーカの背中に向かって声をかけます。
「行くの?」
「……うん」
ヤーカは沈んだチリーの言葉に、自分の足元へと視線を俯かせながら応えます。
「私は、このために努力したんだ」
そしてそう言って、こぶしを握り、振り返ります。そこには、眉間にわずかにしわが寄って、ルビー色の瞳が潤んだチリーが立っていました。ヤーカはそんな彼女の表情を見て、口を開き何事かを言いかけて、すぐに口を閉じてしまいます。
そして、ヤーカは彼女から目を逸らしながら握ったこぶしに力を込めて、静かな声で言葉を紡ぎだします。
「ごめん。チリー」
風が吹いて葉を鳴らし、チリーの長い白髪とヤーカの短い黒髪を揺らす中、ヤーカは一拍置いて言葉を続けます。
「チリーから貰ってばっかりだったのに、私からは何もあげられてない」
申し訳なさそうに言ったヤーカはチリーと目を合わせ、灰色の瞳を潤ませて声を震わせながら頭を下げます。
「ごめん」
チリーは謝罪の言葉に唇の赤が見えないほど口を真一文字に引き結び、ヤーカの下げられた頭を見やります。そして暫く押し黙った後、チリーはあきらめたように目を閉じながら首を振り、ヤーカの黒髪を手に持ちながら口を開きます。
「いいの」
ヤーカは頭を上げて、チリーの寂しそうな微笑みを見ます。その表情を見たヤーカは、鼻をすすりながら心からの感謝を述べます。
「ありがと、チリー。君がいたから私はここまで来れた」
チリーは目を細めてヤーカの前髪横の、もみあげの上あたりを三つ編みにしていきます。きっとこれが最後のふれあいなんだな、とチリーは思いながらお守りの編み紐を作った時よりも丁寧に髪を編んでいきます。
遠くで獣の鳴き声が聞こえるほど静かになり、その沈黙がもったいないのかチリーは口を開きます。
「夢なんでしょ?村の外に行くのが」
うん、とヤーカは頷きます。
「最初は子供っぽいと思ったよ。でも、そんな夢を持ってるからヤーカなんだよ」
微笑みながら髪を編むチリーはとても大人びて見えて、ヤーカはその表情を目に焼き付けようとしますが、視界がゆがんでどうしても難しいのでした。
「できたよ」
チリーが髪を編み切って手を離すと、ヤーカはぽろぽろと雫を目の端から零し始めてしまいます。それを見たチリーはしょうがないなと困ったような笑顔で、ヤーカの頬に垂れた涙を指で何度も何度も掬ってあげます。
チリーは瞳を潤ませながらも決して泣かずにずっと笑顔で、代わりにヤーカは静かに涙を流し続けていました。
やがてヤーカは自分の頬に当てられたチリーの手に自分の手のひらを重ねて、言わなければならない言葉を、涙でつまりながらもなんとか言い切ります。
「さよ……、なら」
初めての言葉でした。小さい村だからいつも「また明日」と言っていて、儀式の日だってこんな言葉など吐きませんでした。でも、今日はこの別れの言葉を使わなければいけないのです。
チリーはヤーカの顔をゆっくりと引き寄せ、彼女も腰を折って二人は顔を近付けます。そして、チリーはヤーカの額にキスをしました。
一秒、二秒、と続いたキスは長いようで短くて、チリーはヤーカへのキスをやめると、至近距離で見つめ合いながら最後の言葉を投げかけます。
「うん。さよなら」
チリーは笑顔でヤーカから手を放し、一歩離れて手を振って見せます。
ヤーカはずずっと鼻をすすって、木の根元から荷物を持ち上げると、服の袖で何度も何度も目のあたりをこすります。そして、真っ赤な目元で酷い表情になりながらも、何とか笑顔を作って見せます。
ヤーカは笑顔でチリーに手を振って、踵を返し、霧の中へと歩き始めました。
チリーは白い霧の中へと、大きな背中が消えていくまでずっと笑顔で手を振り続けます。手を振って、手を振って、やがてヤーカの背中が見えなくなると、涙が頬を伝っていきます。
チリーは震える両手を口元に持って行き、濡れた声で、言いたくなかった、絶対に言いたくなかった言葉をもう一度吐き出しました。
「さよ……なら」
そして、本当に言いたい言葉を、言いたくない言葉で上書きして、嗚咽を鳴らし始めます。
――行かないで、帰ってきて、私を抱きしめて。
「さよなら……さよなら……」
チリーは両手で顔を覆いながら涙を零して、終ぞ伝えなかった気持ちを一人吐露します。
「さようなら……私の初恋の人……」
チリーはひとしきり泣くと、涙を拭って顔を上げ、ヤーカが好きだと言ってくれた歌声を高らかに紡ぎ始めました。
――風よ。この声を届けておくれ。
――遠い場所にいる、わが友へ。
――花も与えられぬ友へ。
――狼のような気高かった友へ。
――この愛を届けておくれ。
――雲と共に、鳥と共に。
――黄昏より遠くへ。
一人霧の中を歩くヤーカは、ポケットの中から始まりのコインを取り出しながら歩みを止めます。銀色のそれの表側には三角形が、裏側にはらせん状の模様が彫られていて、ヤーカはそれを上に投げます。
表なら行く、裏なら帰る。
そう念じて、ヤーカは投げたコインを左手の甲と右手の手のひらで捕まえます。結果は右手を開けずとも、感触で分かりました。
裏だと。
しかし、ヤーカは顔を険しくして、歯をぎりぎりと音が鳴るほど食いしばり、喉の奥から声を絞り出しました。
「今更、だろ?」
ヤーカは右手にコインを取り込みながら、首にかかったチリーが作ってくれた首飾りをコインごと握りしめます。
「私は……私は………いや――」
そして、ヤーカは歩き始めます。涙で真っ赤にした目に、ゆるぎない決意を滲ませて、真っすぐ、どこまでも真っすぐ歩き始めます。
「俺は、騎士になるんだ!」
そして、国を巡るんだ。ヤーカはそう強く想って朝靄の中へと消えていきました。
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