女の子だろうが、男の子だろうが怖いものは怖い
ヤーカが森の王と会った日、太陽が沈んで夕食を作る湯気が立ち昇っては星空へと消えていった後、彼女は一人村を歩いていました。
アッコには街頭なんてものはなく、家やそれらの間の道、村の外の森は月明りのみに照らされていました。対して明るくないその光は、それらを黒く浮かび上がらせるだけで、時々聞こえる風のざわめきはとても不気味なものでした。
そんな中をヤーカは歯を食いしばって、泥沼に絡めとられたかのように思い足取りでチリーの家へと向かっていました。やがて、彼女は一番の友人のチリーの家にたどり着いて、その家の扉を叩きます。
すると、すぐにチリーの母親が出てきました。彼女は突然やってきたヤーカに首を傾げながらも問いかけ、ヤーカは先ほど一人で歩いていた時とは違ってにこやかな表情で応答します。
「どうしたのヤーカ?」
「こんばんわ、おばさん。チリーに会いたくて」
「泊っていく?」
「良ければ」
しかし、ヤーカは家の中に通されて、チリーがいる寝室へとやってきた時には、やはり眉根を顰めてとても険しい表情をしていました。
寝室で今まさに寝ようとしていたチリーは、部屋に入ってきたヤーカの今にも泣きそうな顔を見ると驚いて彼女へと駆け寄ります。
「どうしたの?」
チリーは初めて見るヤーカの表情に、彼女の頬を両手で包み込んで彼女の灰色の瞳を覗き込みます。すると、段々とその瞳は潤み始めて、すぐにそれが決壊して目の端から涙がはらはらと落ち始めました。
「怖…かった」
ヤーカは、チリーの心配そうにこちらを見るルビー色の瞳を見ると、安心したかのようにそう呟きました。声は震えていて、いつもは自身に満ち溢れていたヤーカのまなざしは、とても弱弱しくなっていました。
「食べられるかと思って怖くて……。それに、死ぬかもしれなくて」
ヤーカの言葉にチリーは、狩りで何かがあったのだと察して、彼女の頭を優しくなでてあげます。
そして、二人はベッドに隣り合って座ると、ヤーカが今日あったことをぽつりぽつりと話し始めます。チリーも儀式のことについては初耳でしたが、少なからず村の一員として生きてきて何となく察するものはありました。
ヤーカは、森の王に会った時に震えが止まらなかったこと、兄が実は儀式で死んでしまっていて、もしかしたら自分も同じように命を落とすかもしれないという恐怖を、チリーに正直に話しました。
すると、チリーは涙ぐむヤーカの頭を自分の胸へと引き寄せて、抱きしめてあげました。
「大丈夫」
そして、そう言ってヤーカの髪に指を通して、彼女の小さな頭をもう一度なでてあげます。ヤーカは顔に感じるわずかに柔らかい感触と、髪が梳かれるくすぐったいような感触に目を細めて自分もチリーの細い体に手を回します。
涙も震えも、チリーに撫でられている内に収まってきて、ヤーカはどこか甘いような匂いのする彼女の胸に頬を摺り寄せながら甘えた声を出しました。
「ありがと、チリー」
ヤーカに素直に甘えられたチリーは、顎を引いてそこにある黒い髪とつむじを見て、それからちょっと顔を赤らめながらそっぽを向きました。
「終わり!」
チリーがそう言ってヤーカの頭から手を放すのですが、一方のヤーカはまだくっついていたいと言わんばかりに両腕をチリーの腰に回して、チリーの胸に顔を埋めるように頬ずりをします。
「ヤーカ、くすぐったい」
「あはは!」
ヤーカはそう言ったチリーのことを抱きながらベッドへと押し倒して、彼女のことを本格的に擽り始めます。チリーもやられた分ヤーカに擽り返して、二人は子供らしいスキンシップをきゃあきゃあと楽し気な歓声を上げながら気が済むまで行いました。
古くもよく手入れされた白いシーツが乱れて、夏の気温に少し汗ばみ始めたところで、ヤーカは気が済んだと言わんばかりにチリーから離れます。
チリーは暖かい体温がどこかへ行ってしまうのに少しの寂しさを覚えましたが、すぐにまたくっついてくるだろうと思って、今度こそ寝るために掛け布団を自分の体にかけました。
「さ、入って」
ヤーカはチリーのその言葉に、彼女にかかった掛け布団へと潜り込みます。そして、二人は同じ枕の上に頭を乗せて短い距離で向かい合いました。しばらく、お互いの赤い瞳と灰色の瞳で見つめ合うと、チリーは先ほどとは打って変わって真剣な表情でそっと口を開きました。
「ね、やめないの?」
「何を?」
ヤーカはチリーの真剣な表情に、心を引き締めながら問い返します。すると、チリーは一つ瞬きをしてから、言葉を重ねました。
「怖いなら、やめないの?」
ヤーカはチリーの心配の色を覗かせる視線から逃げるように、あおむけに寝返りを打って天井へ視線を向けながら静かに応えました。
「夢だから」
チリーはそう言ったヤーカの横顔を見ます。いつか囲炉裏の前で見た時のように、彼女の視線はとても遠くを見つめていました。子供っぽくない、達観したような大人っぽい表情でした。
「村の外に行くのが?」
「うん」
ヤーカはチリーの確認の言葉に、口角を上げながら頷きました。少し前にチリーに語って聞かせた時よりも、今の方がその思いは強く、ヤーカは冬の時よりも少しだけ増えた知識でとても広大な空想をしていました。
チリーは、先ほどとは打って変わって無邪気に笑うヤーカの横顔を見て、小さくため息をつきました。
「子供っぽい」
「子供だよ」
「そういう意味じゃない」
「痛てっ」
ヤーカはまたも寝返りを打って、チリーと目を合わせて当然だという風にそう言います。しかし、チリーは呆れた様子で彼女の額をパチンとデコピンしてしまいます。
そして、二人はそのやり取りがどうにもおかしくて、小さく笑い合います。目を細めて、大きな声にならない程度の笑い声を上げて、それがやがて無くなっていきます。
二人は笑顔のまま見つめ合っていると、やがてヤーカは段々と真剣な表情になってチリーに、もしくは自分自身に語り始めます。
「でも、でもさ、男の子は、お兄ちゃんたちは皆儀式をするんだ」
その言葉を聞いたチリーは目を細めて、悲しいような誇らしいような、複雑な心境になります。
「甘えてられないんだ」
「そう……」
ヤーカのその宣言にチリーは目を閉じてしっかりと頷きます。最愛の友人がここまで言うなら、チリーはもはや彼女のことを止めることなどできないと思い知ってしまったのです。
チリーは目を閉じたまま、ヤーカが狩人として森へ行くところを想像します。雪がなくて色に満ち溢れた森でヤーカは弓を引き絞り、雪があって色が少ない季節ではかじかむ手でわなを仕掛けて。それから、いつかあるはずの儀式では狼と対峙して。
チリーはそんな友人のことが誇らしくもあり、それでもやっぱり心配なのは代わりないのでした。だからこそ、チリーはヤーカの頭に手を伸ばし、彼女のことを引き寄せます。
そして、チリーは不思議そうにしたヤーカの額に口づけをしました。
ヤーカは突然感じた潤んで柔らかい感覚に目を見開き、チリーに手を放してもらうとすぐに顔を離して彼女の優し気な表情を見やります。
「おまじない。きっと大丈夫」
「あ、ありがと」
そう言ったチリーの表情はとても大人びていて、ヤーカはそれにドギマギとして口を閉じてしまいます。チリーもチリーで、普段はやらない大胆な行為に顔を真っ赤にさせて黙りこくってしまいました。
そして、奇妙な沈黙が流れ始めて、最初に耐えきれなくなったのはチリーでした。彼女は真っ赤な顔のままヤーカの脇に手を差し込むと、指先を乱暴に動かして擽り始めます。
「くすぐったいよ!」
突然のことにヤーカが悲鳴を上げると、チリーはすぐに擽るのをやめて、先ほどよりは赤色が引いた顔で彼女のことを見つめました。次は二人は落ち着いた気持ちで視線を絡ませ合って、やがてヤーカは力を抜くかのように微笑んで、チリーの顔にかかった髪を払いのけながら口を開きます。
「元気出たよ」
「そう。よかった」
チリーはそう言いながらヤーカの頬に手のひらを当てると、怖い事があった日母がいつもそうしてくれているようにゆっくりと体温を分けてあげます。そして、少し得意げに口角を上げると、何度か調子を確かめるように喉を鳴らします。
「んっ……、んー。よし、子守歌歌ってあげる」
「子供じゃない」
子守歌と言う単語にヤーカは不満げな声をあげますが、チリーは意地悪な微笑みでヤーカの頬を優しく摘まみながら言葉を返します。
「さっき『子供だよ』って言った」
「……」
そういう意味じゃない、とヤーカは口を開きかけましたが、すぐに口を閉じて視線だけでチリーに『歌って』と伝えます。それに、チリーは頷くと、息を一つ吸い込んで小さく歌い始めました。
「ラーー…………」
チリーの歌声は雪解け水のように澄んでいて、奏でられる旋律は風に乗ってやって来る鳥の声のようでした。歌声は静かな部屋に満ち溢れて、それをヤーカは目をつぶって静かに聞き入ります。
「上手」
ぽつりとヤーカが短く、万感の思いを込めて賛辞します。その素直な褒め言葉にチリーは気分よく微笑み、ヤーカの顔を指先で撫でながら歌い続けます。
目をつぶって子守歌に聞き入るヤーカは、まるで青空にいるような想いでした。どこまでも高く透き通ったその光景は、やがてヤーカの見る夢へと変わっていき、彼女は小さく寝息を立て始めます。
チリーは幸せそうにリラックスした表情で眠るヤーカの表情を見ながら、やがて子守唄を歌い終えます。そして、自分も寝るために目をつぶる前、チリーはもう一度ヤーカの額に首を伸ばして口付けをします。
「おやすみ。ヤーカ」
チリーはやはり顔を赤らめながらそう言って、ぎゅっと目をつぶります。
二回目のキスはチリーの大切な秘密になりました。
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