二十五年目 雛鳥
革張りの上等な長椅子に座るのは人の子と化生だ。傍らに控えた給仕役を尻目に、館の主と共に彼女等は酒杯を傾ける。饗されるのは、彼女の息が掛かったワイン蔵の逸品だ。上等な酒精を愉しむためか、ナッツやドライフルーツ、賽の目に切られたチーズなど素朴な肴が並べられている。
「ふふっ、日本酒も美味しいけれど、ワインも中々でしょう?」
「ふむ……独特の酸味がまたなんとも。成る程、お前さんが勧めるだけの事はあるのう……」
「お気に召したなら何よりだわ、今度蔵元にお礼を言いに行かなくっちゃ」
もうとっぷりと日が暮れている。清潔な部屋は少し薄暗く、硝子戸の向こうからは真白に輝く月明かりが遠慮がちに部屋を覗き込んでいる。
「人の子か?」
「ええ、此方に遷って来て以来だから、随分と年月を重ねたものだけれど。……手伝ったのは、最初だけ、ほんの少し」
ふふっ、と追憶に目を細める館の主を、化生は嬉しそうにそっと見守っている。
「わたくし達は人の影でいいの。生命の系統樹から外れてしまった我々は、彼等を害し、妨げるものであってはならないもの……尤も、皆が皆そう考えられれば良かったのだけれどね……」
頬に掌を添えて、物憂げにそう呟く館の主。成る程化生達の社会にも色々と難事があるのだろう。なにせ彼等は人より優れた何かを持っているのだ、善悪問わず、望む望まざるに拘らず、それに引き寄せられてしまう何者が現れてしまうのは自然な話だ。……なにより、彼の傍らに侍り、身を凭れさせている小さな化生もまた、そのようにして彼の一族へと関わってきたのだろうから。
っと、化生に眼を向ける。華奢な身体がから伝わる体温は酒精のせいか、ほんのりと熱い。静かにワインを傾けている化生は、人の子の視線に気付くと優しげに微笑み、グラスを持ち上げてみせた。
「全く……最近の方は悪事ばかり企むのですもの……鎮める私達の身にもなって欲しいものです……」
少しだけ怒り顔を作って、主はくっとワインを乾かす。そうして空になったグラスは控える給仕の手によって、間髪入れずに次の赤で満たされる。
「――こいつはこの辺りの統括をしておるのよ。人界に交わる化生に便宜を図り、そして悪事を行う不逞の輩を掣肘する役割を担っておる」
「ふむ……自助組織、自警団のようなものでしょうか?」
「ま、概ねそんなもんじゃの、元は荒くれ連の寄合所帯であったものを……なんとも見事なものよ、頭目の素質というやつじゃろうかの」
こくこくと、化生のグラスが中身も少しづつ消費される。ちろり、と赤い舌先が口元から僅かに覗く様はなんとも言えない色気を感じさせる、彼は自然と目を逸した。
「経済力やら組織力の点でわたくし達が適当でしたからね……あれこれと名目を着けては引っ張り出されるので、色々と面倒なんですけれどねぇ……」
ま、これも御役目という事でしょうか、と自嘲気味に主は語る。精緻な作りの相貌は悩みに皺寄せても中々に絵になっている。
「呵呵呵、そのお蔭でコレのご相伴に預かれるわけじゃからの、多少の雑事は諦めるがよかろ」
カラカラと鈴が鳴るように笑う化生を尻目に嘆息する館の主。成る程、どんな化生といえども
「――まぁ、そうですね、私達も人間と変わらないのでしょうね。良いものが居れば、悪いものもまた然り。陰陽の揺らぎを併せ持つからこそ、生き物足りえるのでしょうね……」
「流石に陰陽思想を最近のものと言ってくれるなよ、呵呵呵」
「もうっ、意地悪なんですからぁ」
ここぞとばかりに茶化す化生に、館の主はぷぅと怒って顔を背ける。成る程、力有る者達の代表とは言え、この小さな化生相手には些か以上に分が悪いらしい。
「ああ、私もまた皆と共に小屋を引いて世界を回りたいものです。深い森を超えて、山間から覗く小さな人里。永遠のように続く海辺にひょんと付き出した入り江。土を踏み、水を味方に、草木を纏いて獣と共に往く――そんな素朴な只人の生活の、なんと美しいことでしょう。
いじけて顔を伏せがちにしながら、館の主は月明かりに輝く濃藍に近い黒髪をしゃなりと振り乱しつつ呟く。どうやら肩書きよりも気安く、……そして少々稚気に富んだ方のようだ。
「なァに、その為に眷属たるこいつらがいるんじゃろう?」
化生はそう言いながら何かを手の甲に載せている。はたしてそれは、一匹の蝙蝠であった。本来歩行に向いていない両の脚で化生の腕に降り、足元のおぼつかない子供のようによろよろと肩口まで這い上がってくる。
「あらまぁ、お客様に失礼をしてはいけませんよ、悪い子ね」
「なに、構わんよ。これ位の子供はやんちゃの方が可愛らしかろう。ほれ、おいで……ああ、よく来たねぇ、よぅしよし……」
館の主が窘めるのも聞かず、年若い蝙蝠はよろよろと化生の腕を登り、頬近い肩口にちょこんと座って彼女を見つめる。くりくりとした黒目にふさふさの羽毛。ちょんと突き出した鼻頭の向こうに見える大きな耳が愛らしい。
「ああ、良い眼だね。眩しくて若い生気に満ちている……この子は、変わる事はできるのかい?」
グラスを置いて指先で蝙蝠の頭を優しく撫でながら化生が問うと、主は静かにその子の名を呼んで促す。
「見せて御上げなさいな」
館の主がグラスを持ち上げると、器に満ちた赤色が月の光を飲み込んだ。子供の蝙蝠は、きぃ、と小さな可愛らしい声で鳴いて赤い光を受け、ぱたりと羽根を羽ばたかせ空へ舞う。光差す方へと疾駆し、あわやグラスに額を打ち付けるという所でふわりと浮き上がるように真っ直ぐ上昇し、はたと瞬きをする間に蝙蝠は少女の姿に変わっていた。
「……この姿は久しぶりです」
言いながらくるくるとその場を回り、自分の姿に瑕疵がないか確認する少女。くりくりとした深い黒瞳に、子供特有の丸みを残しつつも愛らしい容貌。灰色のカーディガンの下には仕立ての良いブラウス。濃紺のプリーツスカートに、足先のローファーも良く磨き上げられている。化生よりもやや短い黒髪は少し色素が薄く、僅かに白が混ぜてある。くるりと一房だけに巻かれた真紅の髪飾りは、少女が眷属である証だろうか。
「ご覧の通り雛鳥ではありますが、この辺りを案内するのには丁度良いでしょう。少々変わり者ですが、良ければお使い下さいな」
「……宜しくお願いしますです、太陽とその傍らに座するお方」
するり、と音もなく脚を引いて少女が
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