二十一年目 いつか、きっと
暗雲が太陽に蓋をしている。大気は湿り気を帯び、蛙が草花の間から顔を出す。燕は羽虫を喰もうと低きを飛び、大地はそれの訪れを待ちわびて肌を震わせる。
雨が降るのだ。
「どうにも天気が悪いですねぇ……梅雨時は矢鱈にべたついてかないませんね」
「全くじゃの、陽の光が当たらんと息が詰まる。なんとはなしに暗ぁい気が漂ってしまうからのう……」
玄関口で革靴に脚を通す人の子、その肩口にブラシをかけながら化生は暗い顔で呟く。
「ん、よかろ、今日も気張ってくるがよい」
「はい、それでは行って参ります……、あの、どうかされましたか?」
常の様に平穏な一風景、その調和が崩れたのは化生のちょっとした変化であった。常ならば静かに笑って男を送り出す化生が、言葉と裏腹にしっかと彼の袖口を掴んでいるのだ。困惑した男が化生の顔を見やると、いつぞやの熱発とは違う、青い顔をしているのが分かる。
「もしやまた、調子を崩されているのではないですか」
人の子は脚を通しかけた靴を脱ぎ捨てて、化生の額に己のそれを押し当てる。だが、化生はいやいやをするように彼を引き離そうとする。
「なんでもない、なんでもないんじゃ……放っておいておくれ……」
「そうはいきませんよ、どう見ても良い調子ではなさそうです。ほら、布団を敷きますからもう一度お休みになって下さい」
「ええい、良いとゆうておろぅーー」
抗議の言葉も弱々しく、化生はふらりと身を崩して、倒れた。床板が軋む事もなく、それは余りにも軽くか細い転倒だった。
人の子はぎょっとして彼女を覗きこむと、化生は小さな声で、
「大丈夫……大丈夫……」
とうわ言の様に呟いている。控えめに見ても化生の痩せ我慢だろう。
人の子は彼女の意識がないのに不安になって、このまま眼が覚めないのではないかと、闇の中に放り込まれたような恐ろしさを覚えた。抱き寄せた彼の腕に答える彼女の指はか細く、しっかりと抱き留めていなければそのままするすると解けて何処か遠くへ言ってしまいそうで……。
「父よ、動揺は分かりますが、一先ず母を床へ」
何処からか顔を出したわが子の言葉で正気に返った彼は、いまだ心が引き千切られたように無様な有様ながらもなんとか化生を床の間へと抱き上げて運んだ。
そうしてがっくりと項垂れて彼女の傍らに侍る父に、人と化生の御愛し子は声を掛けた。
「父よ、これも総て私のせいなのです」
と。
御子は訥々と語り始める。……如何なる手段を用いたとしても、矢張り彼が生を受ける事には無理があったのだと。
「母は余りにも力の強き化生なのです。望むと望まざるとに関わらず、強くなり過ぎた。その有様は最早神の近い。従って、母の子と成り生を受けるものもまた、莫大な力を持って産まれてきてしまうのです……。日本神話を知っていますか? 火之迦具土は産まれ出る際、己の母たる伊弉冉を焼き殺してしまった、私と母の関係もそれに近いのです」
――如何にカガシが力を込めたとしても、化生達が言祝ぎを送ったとしても、愛されて産まれて来たとしても……
「神が子を産むという事は、己を分け与える他にありません……恐らくは母も、私の命を作る為に、相当な力を譲っております。そしてそれは当然、母の命なのです。恐らくは、もう長くないのでしょう……」
呆けた顔で、人の子は御子の言葉を聞く。いや、彼の言葉が本当に聞こえているのか妖しい。呆然と床に伏す化生を見つめているのみだ。
「……けれど、方法はあります」
その言葉に、胡乱なままだった人の子の眼がぎょろりと御子へと向けられる。
「私を母へ返しましょう。母の命であるからこそ、それを返上すればきっと具合も良くなる筈です。回復を促すにはこれが最上の方策でしょう」
男はぎょるんと眼を向いたまま、御子をじっと見ている。愛し子は総て受け入れているとでもいった風に、静かに佇んでいる。
俯き、顔を上げ、整えた頭髪を掻き毟り、腕を組んで、たっぷり時間を取り……男は愛し子に言葉を発した。
「……この莫迦息子め、二度とそんな事を言うんじゃあないよ」
優しげな口調で、それでも少しだけ語気を上げて、男は子に語りかける。愛し子はびっくりして父に詰め寄る。何故、と。何故最上の方法を捨て去るのか、己の言った手段を取らないのかと問い詰めると、男は煌々と輝く瞳で愛し子の肩を強く抱き締める。
「私達がそんな覚悟も無しに君を迎えたと思ったのかい? ――いいかい、これだけは決して忘れてはならないよ、“君は愛されて産まれてきたんだ”。それだけは、それだけは決して間違えてはならない。愛すべきものを贄に捧げるような生き方を、私達は望んじゃあいない」
ああ、ああ、子供達よ、貴方達は愛されるために産まれてきたのだ、そして、愛する為に生きるのだ。
「喜びも、悲しみも、飢えも乾きも苦しみも共に分かち合ってこそ、愛と言うのだよ。……都合の良い事だけを選び取って分け合うのは善い愛じゃあない。総てを互いのものとするからこそ、愛というものは本当のものになる」
分かっておくれ、と心憂い顔色にて愛し子の肩を抱えて言い聞かせる。
「だから……安易に君が死んで事を収めようなんて手段は取らない。なにより、それは私達を一番悲しませるからだ」
「けれども、それでは父よ……」
愛し子は己が父に抗議しようとしたが、彼の顔を見てはっと息を飲む。
父の顔は、泣いていた。涙など流れてはいないのに、はらはらと光のような涙を流していた。けれども、彼の口はぐいと引き絞られて、零れ出ようとする嗚咽を噛み殺していた。
「すまないなぁ……随分と思い詰めさせてしまった。優しい子だ、聡い子だ、その真心を、私は嬉しく思うよ。けれども、そうだね……親の勝手と笑っておくれ、私達は君に生きていて欲しいんだよ」
愛し子は引き絞られた父の顔を見て、殉教者のそれを思い浮かべた。苦痛に喘ぐ悲しき人々。けれど、ああ、彼らの精神のなんと誇り高いことか。
雨が降ってきた。
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