二十二年目 対価
緞帳が降りてくる。
濡羽鴉の漆黒に、鮮烈な
暗黒の水底へ沈む毎に、総てが緩慢になってゆく。音も匂いも、光すら。誰かが知っている、誰もが知っている、けれども耐えられるとも限らない、長き、けれども永くはないその時間。夜明け前にて飾られた影こそが、この世の静寂の形なのだから。
夜半過ぎに起き出した化生は、ぼんやりとした顔のままで一つ生欠伸をすると、自分がどのくらい眠っていたのかと傍らの男に尋ねた。男は努めて平静を装っているのだろうが、裏で狼狽している様が手に取るように分かった。
「随分と寝坊助になってしもうたようじゃの……すまんなぁ、夕餉も何も作ってやれんで」
「いえ……貴方が大事無いのであればなによりです。もう起き上がっても宜しいので?」
ふむん、と頬をぷっくり膨らませて化生は笑う。その微笑みは薄明の如く優しげで、そして何処かに影がある。草原に遊ぶ童女のようでもあり、隠棲した老婆のようでもある。永き夜を越えた化生の者は、彼女自身のように笑う。
「そうさな、大分疲れが残っておったようじゃがのう……半身を起こす程度であれば問題なかろ。もっとも、これ以上は出来そうにないがのう……」
つと、指先で布団の端に寄り、畳の目を手持ち無沙汰に撫でながら、化生は笑う。乾いた顔色に影が差す。憂いに満ちている。潤んだ瞳は室内の灯すら眩しいのか何時にも増して細められ、曖昧に歪められた口元の形、諦観、諦念。届かぬものを思う姿。
「――――ッっ、」
何か発しようと歪められたその口は一瞬逡巡して、そうしてまた曖昧な形になって微笑む。
「……ちと水をくれんかの、どうにも口が乾いてしまっておる」
「こちらに」
男は一つ頷くと、傍らに有る盆から水差しを取り上げて湯呑みに注ぐ。化生は覚束ない所作で手を差し伸べており、ふらふらと宙を舞うようにして―まるで視界が定まらないか、あるいは腕が動かないかのように―中々受け取ろうとしない。人の子は彼女の手に己の手を重ね、優しく湯呑みまで導いた。
「持てますか?」
「寝起きで腕まで萎えているようじゃの……呵呵、どうにも、面倒なものじゃな……体が動かんというのは」
強がりを見せつつも、化生はくぃ、と水を飲み下す。勢い込んだ故か顎下から一筋、っと水が線を描く。人の子は何も言わずに、彼女の顎元を優しく拭う。
「すまんのぅ」
「いえ、構いませんよ」
ふふふ、と愛らしい笑顔の少女。幼子のような少女は、けれども永きを生きた老女は、嬉しそうに笑いながら、拭き清められた顎先を自分の掌でもぐしぐしと撫で付ける。産毛一つない滑らかな彼女の肌の上に、艶めいて白く美しい指先が線を引く。常ならば優しく赤らみ生気に満ちた彼女のそれも、今ではどうにも青白い。人外の化生ではあれども、彼女もまた永久の時を生きるものに非ず。必ず、必ず己が終を見つめる時がくるのだ。が、未だ、未だ――
湯呑みを人の子に渡し、胡乱なまま化生は視線を泳がせる。柱時計の音がやけに大きく聞こえる静寂の中で、彼女は手を差し出そうとして逡巡し、そして結局は布団の上へと力なく投げ出される。やがて化生は観念したかのよう口を開いた――その表情は一つの感情を表して静かに形作られる。その想いは、哀愁。
「……脚がな、どうにも石に成ってしもうたようでなぁ……、はは、情けないのぅ、粗相をしても気付きもせんとは……」
戯けた素振りで言ってのける化生だが、その言葉はふらふらと力なく宙を舞い、墜落した。感覚が無いことから予想していたのか、それとも何らかの臭気を感じ取ったのか。悪戯を自白する子供のように肩を窄めて縮こまって、唯でさえ小さな化生の姿が一層小さく見える。
「もう、お前さんと同じ床に入るのは難しいのう……」
「私は気にしませんよ」
「……儂の小水塗れになるぞ、呵呵呵、お前さんにそんな倒錯した癖があるとはのう……」
「茶化さないで下さいよ……そんなこと言ってると、本当に一人で眠って貰いますよ?」
「ああ、ああ、悪かった、悪かったとも……、なあ、こっちに来てくれんか?」
床の上の化生に誘われるがまま、人の子は彼女の傍に侍り、その体を優しく抱き締めた。
か細い化生の肢体。寝間着越しにも分かる、羽根のように軽い、愛しい人。その軽さが人の子には途方もなく悔しくて、大声で叫びたくなるのだ。けれども、それでも――。彼女を信ずる彼の心が、彼女の傍らにて在れと囁くのだ。
人の子の指先が、化生のか細いそれに絡め取られる。
「ああ、温かいなあ……未だ分かる、儂は未だお前さんの温かさが分かるぞ……良かった、ああ、良かった、なあ……」
きゅっきゅっと、弱々しい指先が握り返してくる。その痛々しいまでのか細さに、彼はまた涙を流しそうになる。その顔を悟られぬよう、ぎゅっと彼女の体を抱き締める。
ああ、どうして世界は彼女に時間を与えてくれないのだろう。これからじゃあないか。愛しい人に、愛し子に、静かで幸せな時間で息をつく彼女の余生は、穏やかな午睡は、これからじゃあないか。たったの百年ぽっちの猶予から、更に取り立てようと言うのか。
部屋の光に照らされた先、障子戸の向こう側に控える彼等の愛し子は、脚を崩さずじっと座っている。彼は呻吟し、煩悶し、心の中で反芻する。本当に己に産まれる意味があったのか。父は言った、己は産まれてきてよいのだと。けれども、未だ得心できない、腑に落ちてはくれない。私は母の命を徒に削っただけではないのか。幸福な父母の間に乱暴にも分け入り、彼らを苦しめているだけではないのか。己の欲する生の儘、彼等を傷つけて――。
愛し子は苦悶する。人の子と化生の子の結ばれた先に産まれた、優しい御子の切なさを、誰が拭ってやれるのだろうか。
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