三章 化生と人の旅路

二十三年目 番いの旅路

 熱を感じる。

 天より陽光燦々と降り注ぐ往来には熱帯由来の植物が彼方此方で胸を張り、草木は過ぎる夏を惜しむかのように一杯に顔を上げている。

 丘沿いに林立する家々の数々は一昔前の作りだろうが、丁寧に手入れされているそれらの立ち並ぶ風景は古き時間を想うのに丁度良い。今時分には最早骨董の品とも評すべき木製の電柱に、錆で半ば以上に禿げ上がった炭酸飲料の看板。遠間に見える海辺には、澄んだ水底に真白い砂粒の絨毯が広がっている。


 かたん、と石造りの道の上を車椅子が進む。此方も又、今時珍しい木造りであり、重厚神棚の如き威容を放ちながらも、細工は控えめに幾つかの装飾がなされている程度の質素なものだ――手妻の虚栄ではなく、木自体が善いのだろう――。それに坐する少女は随分華奢な身なりで、ゆったりと身体を預けて静かに佇んでいる。我々は知っている、彼女が見た目通りの少女でないことを。

 臙脂色の華やかな色調に、散りばめられた花々と檜扇ひおうぎに囲まれた和装。楚々とした愛らしさのある少女の姿は、重厚な車椅子に在る姿が不思議と馴染んでいた。


 彼女が身を預けている椅子を押すのは、同じように和装の男だ。一見すると父と子とも思える程に歳の開きがあるが、そのような事は人の子たる彼にとっては些事だろう。


 化生が太陽を見上げ、眩しげに小さな手を空へ掲げると、人の子は小振りな帽子を取り出して濡れ羽色の彼女の御髪へそっと被せる。化生は少し眼を大きくして振り返り、そして言葉も無いままに静かに微笑む。人の子は彼女に笑みを返して、その小さな手に己の指をそっと絡める。そうして静かな時間を送っているうちに、太陽すら恥らいを覚え、薄雲で顔を隠してしまった。

 化生と人の子はお互い言葉も無しに、またゆっくりと街々を見て回る。微笑む化生の坐するところを押しながら、人の子は静かに思案する。


――あれから……


 化生の脚が動かなくなって、そうして生活の多くに人の手が必要となった事を聞きつけたカガシは、鴉や狐狸達と示し合わせて木造りの車椅子を彼女に送ったのだ。

 彼女等の持つ力が籠められた特別製で、化生の身体が楽になる格別の造りをしているそうだ。


 そしてそのお陰か否か、どうやら彼女は少しばかり遠出が出来るようになった。化生としての力が弱まったからこそ、逆に場所に縛られる力も弱まっているとのことだ。……なんという皮肉だろう、己の脚と引き換えに行動範囲が広がるなんていうのは。


 音もなく車輪は回り、化生の体躯は震えるほどに軽い。愛しき者の、その重みを感じることすら許されないのだろうか――


「あれは何かのう?」


 ふと何かを見つけた化生が人の子の視線を促すと、成る程先には小さな改造台車を引いた老婆だ座ってた。ご丁寧に日除け傘まで立てて、控えめな吊り下げ旗がちょこんと顔を覗かせている。


「ああ、氷菓子の屋台ですかね。どれ、一つ頂きましょうか」


 男は屋台の側まで車椅子を寄せると、折り畳みの小さな椅子の上でにっかりと笑っている老婆に代金を支払う。老婆はよっこいせぇ、と掛け声を上げて膝を起こすと、流石に年季を感じさせる手慣れた様子で氷菓を盛り付けて男に手渡す。


「ふむ、これは――」


 老婆はにっかりと笑いながら、ありがとうねぇ、と懐っこい顔で二人に返した。


「おやま、随分と独特な盛り方じゃの」


「飾り盛り、というやつですかね。一種の持て成しですよ」


 見事に盛りつけられた白い氷菓は、幾重にも羽を拡げる花弁のように連なっている。薔薇の花、という事か。


「そうかい、ちょっとした工夫というやつじゃのう……うれしいねぇ」


 彼等の言葉が聞こえているのか定かでないが、老婆は先ほどのように人好きのする笑顔のままで椅子に腰を下ろしている。


「ふふっ、冷たいのう、甘いのう」


 大事そうに両手で抱え、細く赤い舌をつるりと伸ばして舐め取る所作の、愛らしくも蠱惑的な気配。人の子はなんとも言えない幸福を感じつつ、静かに微笑んだ。


「ほぉれ、お前さんもどうじゃ」


「おや、それでは頂きます」


 そうして椅子から手を離し、膝を折って彼女の手元へと口を近づける。背凭れの後ろから顔を伸ばすが、流石に少々遠い。後ろに逸らした化生の髪がさらりと流れ、日向の優しい香りがふわりと人の子の嗅覚を刺激する。


「ふむ、少し遠いようじゃの」


「ははは、そうですね。……食べさせて頂けませんか?」


「うむ、よかろ」


 笑顔で答える少女はそのまま手を伸ばすのかと思いきや、顔を出した男の方へ身を捩って向き直る。男へとそっと触れるのは彼女の眞紅の唇。彼女の熱に蕩けたあまぁい氷菓の味がちゅるりと男の中へと流し込まれ、控えめに差し出された舌先が彼のものと絡み合う。鼻孔を刺激する氷菓の香りと、ふわりと漂う彼女の芳香が混ぜこぜになって人の子を甘味で満たしてゆく。たっぷり何分か、口づけのような、じゃれあいのような時間を過ごし、そうして名残惜しげに口元を離して化生は儚げに笑う。


「……美味かったかい?」


「ええ、それはもう甘露で御座いましたとも」

 そう言って人の子はちゅっと化生の額に親愛の口づけをする。


 彼等は老婆の笑顔が伝染したかのように奇妙に笑いたくなって、身を寄せ合いながら甘味に舌鼓を打った。


「ふふふ……こうして公然とお前さんに甘えられるのも悪くないのぅ……」


 ほんの少し照れた笑顔で人の子と笑い合う化生に、人の子は意味もなく彼女の肩をそっと撫でる。穏やかな熱が人の子と化生の間で交換され、愛しい血がお互いの中に巡ってゆく。


「それにしても、この辺りはまだ温かいのう……これだけの熱があれば、草木もよくよく育つじゃろうて、優秀な土地じゃの」


「そうですねぇ……海も近いようですが、この辺りなりの違ったやり方があるようですね」


 眼下には家々の合間に小さな田畑が見える。整然とした棚田ではなく、生活に根ざした小粒な土だ。沿岸部であれば塩害なども間々あるのだろうが、それの対策という意味合いだろうか。


「あの子に家を任せきりにしてしまったが、存外旅というものも悪くないものじゃのう……ふふん、生きるものの営みというやつは……」


 彼女は愛おしそうに手を下ろす。動かぬ化生の脚に掛けられたひざ掛けは、彼女等の愛し子が編んだものだ。素朴な幾何学柄のそれは、彼女が脚を冷やさぬようにと、そして何より母へ何か送りたいという愛し子の思案の末に出された成果物だ。


「そうですね……さて、次はあちらへ行ってみましょうか、なんでも戦前から残っている船が見られるとの事ですよ」


「中々面白そうじゃのう……ああ、宜しく頼むぞ……」


 そっと握り返してくる化生の指を感じながら、人の子は静かに車椅子を押した。

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