二十年目 罪

 俄かに春めく外界の様子が、館の内側まで届き始めている。蜻蛉がふわりと空を舞い、生き物たちが静かな冬を超え、歓喜の声を上げている。灰白から薄桃色に階調を変えんとする現世うつしよの一幕。梅や桜の花開く姿を見て誰もが知るだろう。ああ、穏やかな春が訪れたのだと。


 化生は今日も草木を眺めつつ、柔らかに微笑んでいる。慈愛に満ちた、肌を合わせた時のようにじんわりと立ち昇る穏やかな熱を感じさせる笑顔。全てのものを慈しむ太母の抱擁が如きやわ熱がそこにあった。


 つと、朝濡れの木の葉から一粒の露が滴り、庭先の湖面へぴちょんと小さな波紋を拡げる。誰も彼もはしゃがずにはおれない、陽気の満ちる春であった。


 彼女を姿を視界に収めて後、暫くの間、人の子もまた寄り添って彼女と世界を見つめていた。……さて、そろそろ昼餉の支度を、と人の子が身体を捻って立ち上がろうとした時、ふとした重みが肩口から背中に掛かっているのに気づく。彼は後ろ手に見えぬ何かに触れて、子泣き妖怪の如きそれに嘆息した。


じゃれつくのは結構ですが、このままではお昼の準備ができませんよ」


 苦言を呈する人の子を尻目に、化生は素知らぬ顔で愉快そうに笑みを浮かべる。


「ふふ……お前さんはぬくいのう……」


「この陽気ですからねぇ……、日の気、陽の気配が映ったのかもしれません。案外裾の方から太陽の香が滲んでくるかもしれませんよ」


「呵呵、どうかのう……なんにせよお前さんのせなは極楽じゃ……このまま微睡んでしまいそうじゃの」


「負われて眠る歳でもありますまいに」


「言うてくれるのう、小童めが、呵呵呵」


 化生はきゅっと人の子に捕まりながら、悪戯な調子で笑ってのける。しかし調子の良い言説とは裏腹に、小さな掌は男の服に伸び、幼子の如き頼り無さで着物の端を掴んでいる。男は化生の手を、上から覆い被せるようにしてぎゅっと優しく握る。暖かな体温が互いに混じり合って、春の陽気にも負けぬ穏やかな熱が彼等を通してはしゃぎ始める。


「少し持ち上げますよ、……ぃよい、しょっと」


「ははは、もっと軽やかに扱えと常々言うておろうに、しょうのないやつじゃのう、ははは……」


 ほっこりと頬を膨らませて、化生は大層心地良いといった風に目を閉じる。長閑な陽光を泳ぎ、好いた男を抱いて幸福の内に潜り込み、目を閉じる。彼女にとっての甘やかな至福の一風景。己が定めを受け入れて、大いに抗い、多くを失い、それでも彼等には幸福がある。それこそが他の何物にも替え難い……愛というものなのだろう。


「肩に手を掛けてくださいね、ええ、はい……結構です。このまま食卓までお連れしますよ、おひめさま」


「ええ、ええ、宜しく取り計らい下さいましね、おやかたさま」


 楚々としたか細い声音で、男を蠱惑の罠に貶す魔女のようにして、彼女の音は謳いあげる。人の子も慣れた様子で、よござんすと胡乱な演技で優しい返事を返す。


 愛し子はそんな父母の様子を見つめている。だらりと垂らされている母親の脚。か細い母の体躯が、また一段とか弱く成り始めているのを彼は知っているのだ。己が母の病が、決して治る事の無い疾病が二人を引き裂かんとしている事を。彼とて母を愛している、案じている、けれども、だからこそ彼は父母の間に入ろうとはしなかった。己の欲する儘に甘えようとはしなかった。


 人の子として産まれたならば、まだ一年かそこら。身丈と知識のみは一丁前に育ってきたとは言え、父母が恋しくない筈もない。けれど彼は、彼等の抱擁を真っ直ぐに受け取る事ができない。それはある種の、産まれながらに彼という命の抱えた罪だ。彼には拭う事のできない、けれども深い愛の故にある罪咎だ。太古より大神を殺すのはその息子だと言う。彼もまた、確かにその轍を踏み締めているのだ。


 母を負い、ゆっくりと歩いてゆく父の姿を、彼は眼に刻み付ける。ああ、なんとか細い姿だろう。母の様に化生でなく、己の様に力を持たず――けれどもなんて力強いかたちなのだろう。なんて誇らしいのだろう、幸福なのだろう。私は彼等の子なのだろう、知らず溢れ出んとする涙を止める暇もないほどに、全身にざわざわと駆け巡る喜悦を彼は噛み締める。


 彼等と愛子の間に、近親憎悪は起こりそうにない。なにせ彼は己の父をもまた愛しているのだから。少し悪戯好きで、自由な母。背負いがちで控えめだけれども、芯の所に一本の頑丈な柱を持つ父。彼が自らの手本とする、敬愛するかたちだ。


 そう、例え彼が尋常ならざる手法によって命を得たものであったとしても。例え父の欠片を受け継いだものでなかったとしても。それでも彼という子は、あの男を父とした。自らを形作る根本とした。だからこそ、彼の姿形が父に似ているのも当然であろう。


「お前さんは随分と父親似になったものじゃのう……儂としては少々悲しいぞ……」


 などと母が軽口を叩くほどには、彼は姿形は父を志向したものとなった。


 そんな彼には罪がある。きっと誰もが赦しを与えるのであろう、けれども、だから、それでこそ、彼の中に暗い澱となって沈みこむのだ。


 彼は願う。

 全てが幸福がありますように。

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