十九年目 叱責
暖かな陽気、草樹も笑う朗らかな太陽。春に近い季節になっても、化生の病は治ってはいなかった。
人の子と愛し子の献身的な看護もあってか、当初のように伏せってしまう程重篤ではない。それでも尚、小康状態の儘、深く長く、静かな微熱が続いている。
そんな化生は、人の子を伴って縁側に座っていた。
近頃には部屋に篭り切りでは気が滅入ると宣う彼女の意を汲み、彼の付添の下、無理のない程度に屋敷内を出歩くことがしばしば有る。――それでも、水場に立つなどの家事は禁止されたままだったが。
彼らの愛し子はというと、今は庭先で何をするでもなく歩き回っている。時折化生の方を向いては、母御が笑い返すのを見て、少し頬を綻ばせている。彼もまた、母の復調の気配を喜んでいると見える。
「あの子も随分と大きくなりましたね」
ひとり言のように人の子が呟くと、彼に抱き抱えられるよう総身を預けた化生は、そうじゃな、と応答する。
「人の子で言うなら、数え十二、三といったところかの。そろそろ一端の男になるじゃろうて……」
「いやはや、早いものです、それにとても心優しい子だ」
誰に言われるでものなく、愛し子は父の助けとなるように―なにより母たる化生を身を案じている故―慣れない身であれやこれやと手伝っていた。恥じらいを覚えつつも真剣な顔で、慣れない粥を差し出して見せる様子といったら。えも言われぬ熱が、確かに化生の中に宿っていた。
身の丈より少々短い衣を着た彼らの愛し子は、そんな事を言われていると知ってか知らずか、何やら見つけたらしく溝の辺りを覗き込んでいる。
「……子が育つのは早いものよ。そうこうしておるうちに儂らの方が取り残されて、いや、託してゆくと、そう表しておいた方がよいかの……」
「まだ、それを考える年でもないでしょう。お互いに……」
「そうかの。……ま、今はの。兎も角もこの鬱陶しい病をどうにかせねばならんのじゃが……さて、どうしたものかのう……」
何をするでもなく、二人は子の方を見やる。彼はほっそりとした指先で何かを掬い上げ、二人の方へと駆け寄って来る。
「父……」
「どうしたんだい?」
「これを……」
彼が差し出したのは鼠の遺骸だった。病か飢えか、はたまた仲間に見捨てられたか。見る限り目立った外傷はないが、既に息絶えて久しい様子だ。小さな瞼は閉じられて幾日だろうか、腐葉土と水を入り混じった泥に浸った体毛はべっとりと重苦しく纏わり付き、
愛し子がその鼠を一度きゅっと小さく抱き締めると、くるりと半透明の膜が遺骸を包んだ。シャボン玉のような虹の見え隠れする膜に包まれ、遺骸は宙に浮いたかと思うとみるみる光量を増し、そうして人の目に捉え切れぬ程の光を放ち始める。そうして彼の掌へと戻って落ち着いた頃には、骸であった鼠は息を吹き返していた。彼の掌の上でしっかと両の後脚で立ち上がり、ひくひくと髭を揺らしている。
「……こっちに来い」
「何でしょうか、母よ」
疑問符を浮かべながら腰を屈めて彼。その顔をぱちんと、力ない平手打ちで、それでもしっかりと張った。
「……儂らには力がある、それは疑いもなく儂ら自身のものじゃ。けれどもの、それは思うがままに全て使って良い、というわけでもないのじゃよ」
化生は怒っていた。微熱のせいもあるが、その顔は常よりも紅潮している。
「確かにその鼠は命を取り戻した、それくらいは造作も無い。けれどのう……それでは次に別の鼠が死んだ時、お前はそれを助けるか?」
今の事ではなく、先の事を含めて考えろと化生は言う。
「人が失せた時はどうじゃ、草木が息絶えたときは、水は死んだときは」
「それは……」
そんな事は無理だ。幾ら力があるとは言え、際限なしに使ってしまえば何時か限界が来る。その時にはもう、誰も救えなくなってしまう。
「そう、際限がなくなってしまうんじゃよ。選び取った誰かにのみ力を発揮する、それは贔屓じゃ。儂らが無自覚にやってしまったとしても、それは彼ら自身の命への冒涜となる」
「……それでは、母よ。今黄泉帰ったこの子は……」
悲しげな顔で問い掛ける子に、化生はやっと表情を和らげて優しい声を掛ける。
「命に罪はないからの……その子はもう生き返った。なればそのまま生かしておやり……けれども。我等の力に触れたその鼠が、この先増上慢を起こしてしまったなら、その命を摘むのもまたお前の仕事じゃ。それだけは忘れてはならん」
最後には厳しく、けれども柔らかく彼の顔を両手で抱き締める化生。彼は手にした鼠が潰れないようにしながらそっと眼を閉じて頷いた。
「ほれ、野に返してやって来い、その子もうずうずしておる」
「はい」
元気良く返事をして、ぱっと駆け出す二人の子。
「いい子じゃの、矢張りお前さんの子じゃ。素直な所がそっくりじゃ」
「まさか、貴方の子ですよ。くりくりとした大きな瞳と、優しい所がそっくりです」
「そうかの」
「そうですよ」
「そうか……矢張り良いのう……、子供というものは。何よりも嬉しくて、眩しい気分にさせてくれる」
優しげに目を細めて、化生はまた人の子に身体を凭せ掛ける。それは照れ隠しのせいでもあるのだと、人の子は密かに勘繰った。
「すまんの、少々疲れたようじゃ。このままうたた寝をさせておくれ」
「ええ」
人の子は化生の髪を優しく撫でながら、彼女が眼を開くまで優しく抱いていた。
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