十一年目 いいこ
とぉぉん、と何かが庭で跳ねた。すわ鳥獣某の闖入かと男は訝るが、これ程跳ね廻るものは早々あるまいと思考を改める。
「おやま、珍しいものが降ってきたのう……」
音もなく化生がそれを受け止めると、果たして唯のゴムボールであった。
どうしたものかと彼女が思案していれば、持ち主らしき子が表より顔を出す。陽に焼かれて真っ黒に照り輝く肌を晒しながら、剥がれる皮膚がむず痒いのか、赤くなるまで指を擦りつけている。
「ボール入ったんで取らせて下さい」
良く通る幼い声を聞いて、化生は目を細める。坊主頭の彼が居心地の悪い顔をすると、化生は優しい顔をする。
「ああ、待っておいで、取ってきてあげるから」
「ほれ、次からは気をつけるんじゃよ」
コロコロと化生が笑う。少年はひったくるようにボールを受け取ると、駆け出しながらも手を振り、礼を言いながら去って行く。
「ありがと、おばさん」
少年の駆け出した先には、彼と似たような背格好の子らが並んでいる。木造の勝手口から走り去る少年に手を振り、淡い笑みのまま化生は呟いた。
「そんな年に見えるかのう、儂」
「そのように細工していらしゃるのでしょう?」
少々語弊があるのう、と化生は手を振る。
「無いものをあるようにはしておらん。何某かが儂を見て感じ取ったものを助長させておるだけよ」
なるほど、と男は相槌を打つ。なれば先の少年から見れば、この化生は十分に貫禄のある女性らしく映ったのであろう。あるいは和装の成りがそう見せたのかもしれぬし、古屋敷に佇む彼女の気配がそうさせたのかもしれなかった。この身は鏡のようなものなのだと化生は告げる。
「老爺に童女、武士に乙女、それこそ獣や草木の影すら、相手の望むまま見せたものよ」
口元を裾先で隠す化生は、先の柔かな印象と一変、気怠くも艶然とした香を纏い佇んでいる。怪しき気配の立ち昇る中、ああ、確かに彼女は妖に通ずるのだと男は考える。
「おまえさんには、何が見える」
身を捩りつつ、甘やかな声で化生が囁く。その姿形は少女の物だが、彼女が外見通りの童でないと、我々は知っている。人智の外にある化生の問い掛けに男は答えず、代わりに微笑んで彼女を優しく抱きしめて見せた。
「相も変わらず小狡い男よの……、此方の都合なぞ決して考えんのじゃから」
化生は悪態を吐きつつも男の胸に顔を伏せる。風の音がささあと響き、秋の来る道を掃き清めている。
「儂は決して良き相手ではない、そんなことは言わずとも分っておるじゃろう……ああ、怖くて悲しくて堪らない。それに何よりも、悔しくってたまらないのが一番嫌だ」
「それでも、愛されてはいけない道理などはありませんよ」
「いいや、あるとも」
少女は顔を伏せたまま、擦り付けるように頭を振る。
「儂ではお前の子を授かることなんぞ出来んよ。……
男は彼女を抱きしめる力を少し強めながら、先の闖入者の事を思い出す。きっとあの少年には、彼女の事が自分の母親のように見えたのだろう。そうして化生もそれを知ってしまった。
だからこんなにも悲しい顔をしている。彼が未来に持つ筈であった子を奪ってしまったのだと、彼女は今でも悔いているのだろう。
感傷だ、そんなものは。けれども彼女自身が折り合いを付ける以外に、それを伝える方法はない。口惜しいのは此方も同じなのだと、男は思いを巡らせる。感情は物語の様に簡単に折り合いの付けられるものではない。誰も彼も惑い続ける。
不意に、きぃ、と扉の開く音。二人が顔を上げると、若い娘が一人立っているが、一目で化生の類であると分かる。
丈の合わないボロ布に、農村の媼が身に付けるような年季の入った手拭を首に巻きつけている。確かに街では無いにしろ、その身形は余りにも不似合い過ぎる。男が彼女から手を離して向かい合うと、来訪者は居心地が悪そうにはにかんでこう言う。
おかあさま、と。
薄緑の鮮やかな茶が注がれる。漆塗りの頑丈な机に並べられた湯呑みは、常のように化生と人の子二つ。それと、客人へと差し出されたものが一つ。暗い色調の上に
男が三者それぞれにそれを配ると、来客は恐縮した様子で軽く会釈した。
「さて、お前さんが外に歩いてまで何のようかの。大概の事では動かん筈じゃがのう……」
音を立てて茶を啜り上げ、化生は客人に問い掛ける。来客は緊張しているようで、ぱくぱくと口を開くも、声を出そうにも音が出ないらしい。
「……ああ、口では無しに喉じゃよ。さっきは喋っておったろうが、何で忘れるんじゃお前さんは」
眉を下げて化生が呆れ顔を向けると、客人は赤面して一層縮こまる。
「全く……ほれ、音を出してみろ。落ち着いて、ゆっくり、ひとぉつ、ふたぁつ」
「あァア……、アア、あー……」
真っ赤になった客人は、それでも化生に言われるがまま、右手を喉に当ててながら、不思議な発声練習を繰り返す。暫くして漸く安定したのか、
「おはよう……ございます……」
と昼の最中には珍妙な挨拶を繰り出した。
「ん、よう言えたのう……。さて、もう落ち着いたじゃろ、話せるか?」
化生は一度立ち上がり、客の頭を撫でてやる。客人の女性は心地よさそうに眼を細め、されるがままになりながら、「ん」と小さく頷いた。
「おかあさん、嬉しい、なる、する、私、来た」
ぐ、と両手を握って彼女は力を込めるが、人の子はどうにも要領を得ないといった風で首を傾げる。
「儂の、嬉しい事になるように、お前が来た、と、そういう事か、香香し」
“カカシ”とも“カガシ”とも取れる発音で化生が応答すると、客人はまた、「ん」と小さく返事をして頷く。
「私、力、こめる、身代わり、できる」
「うん? 何にこめると言うとるんじゃ? ……そも、それで何になる」
「木、力、子供、燃える、ない……いいこ」
化生は反復をせず、懐に手を入れてそれを取り出す。いつぞやの木切れ。手慰みだと彼女は言いつつ、それでも長く持ち続けているそれ。元は彼女と同じ、化生の姿を持つ大樹であったものの一部。
「おかあさん、嬉し、子供、嬉し、私、も」
にっこりと花の咲くような笑顔で客人は笑う。その様は誇らしげに胸を張って、両親に何事か報告する幼子のそれだ。
「阿呆め、人の心配なんぞする前に、己の事をどうにかせい、声の出し方も覚えておられん癖に」
嬉しいような悲しいような、独特の顔をして化生は言う。心なしか弱まる語調に、傍らの男は、彼女が急速に小さくなってゆくように感じた。
「こども、おかあさん、大好き。……恩返し、大切、嬉しい」
ぬん、と両の掌を胸の前で抱きしめる様子は、辿々しい言葉遣いと裏腹に温かな説得力がある。
カガシ、カカシ、案山子。田畑に佇み、作物を見守り慈しむもの。成る程不釣り合いに見えた装いは、案山子としてのそれなのだろう。人としては奇妙だが、先の温かみを発するものとしては実に整合性があるな、と男は分析する。
「無茶をするでない……、お前さんは直接産み出すものではなかろ。見守り、育てるのが本分じゃろうに……」
化生が抗弁する言葉も弱々しく、童女のごとき化生ごと先の木切れを抱きしめて、カカシの客人は、ほう、と力を力を送り込み、小さく輝き、そして、ぺたりと座り込む。
「なんと、」
ぱたりと倒れたカカシを化生が気遣うが早いか、新たに一人、音も無く部屋の中へと身なりを正した男が入ってくる。
「ああ、居ましたか……。さて、そろそろ帰りましょう。実りある土が待っておりますよ」
「ん」
芝居ぶった所作で以て恭しく礼、鴉の羽毛のように黒い燕尾服を来た男は、白い手袋をした手をカガシに差し出す。
彼は勢いもそのままに、逆の手で以て遮って言う。誰何しようとした男の言葉は押し留められる。
「本日はもう遅うございます。後日改めて、ご挨拶に伺わせて頂きます。それではお二人とも、ごきげんよう」
とっぷりと日が暮れる。湯呑みの中に浮かんだ月が、いつの間にやら真の夜空に麗々とと輝きを透き通らせている。
「どうにも、今日は疲れた……早々に眠ろうぞ」
男が口を開く前に、化生は粛々と寝支度に入り、灯を落とす。今日はつくづく言葉を出せぬ日らしいな、と男は腹の内で呟く。今の時流には珍しい蚊帳の内側に身を滑らせ、人の子と化生は身を寄せ合う。
「そろそろこれも使い納めじゃな……、もうじき夏の名残も消える。……次の季節がやって来る」
一枚厚い布団を出して、それでも冷え込む明け方には互いに触れ合い、二人は夢に落ちる。
夢枕に化生が呟く。
――私は母になれるだろうか。人の子のように、お前の妻の様に。
蚊帳の中で、儚くも優しき結界の内側で、彼らは今日を寄り添い眠る。
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