十二年目 湯気の中に

 凝る大気に身を縮め、あるいは巣穴で息を顰め、訪れる冬の気配に草木は身を屈める。命の眠る時間、熱の隠れたる季ではあるが、それは決して熱自体の失せた事を表すのではない。

 如何な寒の気配とて、その内に熱の予感を孕んでいるのだ。あるものは春を待ち、またあるものは寒に打ち勝つため自らに試練を課して身を晒す。――陽の失せた世の凍えなどは、このように一様ではないだろう。


 ばしゃっ、と水を打つ音が何処からか漏れ聞こえている。


 早回しの日がとっぷり沈み、空には宵の天幕が掛かっている。時代がかった屋敷より漏れ聞こえる水音は、果たして入湯する男のものであった。


 矮躯でないが長身でなく、痩躯でないが堕落もない。手桶から滑る打ち湯が変哲のない男の肉体を清め、木造の浴場を跳ねて流れる。


 その場所は実に浴場であって、個人邸宅の浴室というには少々広く、凝った作りをしている。手入れが手間だろうに木組みで作られている事からも、所有者の念が込められているのが読み取れる。


 男が空の桶をもったまま呆としていると、びしゃり、と何処からか湯を引っ掛けられて身を縮める。


「ほれ、呆けとらんで入って来い。今日は一段と温いぞぅ」


 両の手で水を拭って声をする方へと向き直ると、浴槽の淵に手を掛けた姿勢で少女が微笑んでいた。艷やかで美しい黒髪は手拭いに巻かれ纏められており、覗いた首筋の血色も眩しい。


 一見すれば十かそこらの幼子にしか見えぬその姿ではあるが、身を湯水の流れるに任せている様は艶に婀娜めいており、半ば不気味とも思える情感を発している。――そして我々は知っている、彼女がその見目に倣う歳を経た者でないことを。


「冷水でなかっただけ感謝するべきなのでしょうか、これは」


 男はもう一度手で顔を拭って後、しずしずと足先から湯船に浸かる。少々熱すぎるほどの熱湯に足先からふくらはぎ、内腿まで、ぴりぴりと痺れるような温度が浸透して彼を温める。腰を折って胸先まで浸かると、知らず喉から声が出てしまう。


「……っはあああぁ~」


「ふふ……よう来たの」


 紅潮した顔を緩ませて、化生は呵呵と笑う。浴槽の中には段があるらしく、男が肩まで浸かる傍ら、一段上に座る化生もまた首まで湯に沈んでいる。


「今日は柚子を入れたからのう……冬至にはちと早いが、良き薫りじゃろ」


 ぽっぽっ、と湯船に浮かんだ柚子の一つを手に取って指で叩く少女。その姿は戯れる童女のようであるが、傍らに置かれた徳利などとも、また奇妙に釣り合いがとれている。

 赤みの強い褐色の朴訥な古備前は、気の遠くなる程永い時を渡り使い込まれただけあり、好む者が見れば伏して拝む逸品へと熟成されている。少女はそれを持ち上げると酒呑に注ぎ、音もなく静かに傾ける。


「どれ、一献」


「はいはい、頂きますよ……」


 差し出された猪口に唇を添える。ふわりと広がる芳醇な米の薫に、甘やかで丸みのある味が口の中に広がり、馥郁ふくいくたる残り香を置いて喉元を過ぎ去る。癖の少なく、ともすれば次々に干してしまうその酒は、女酒と呼ばれる類の物の中でも極上だろう。

 透き通る酒精に名残りを惜しみつつ、盃に讃えられた美酒を嗅ぎ、味わい、惜しみ、乾かす。温水で暖を取るのとは違った熱が腹の底から広がり、男の身体を一層温める。


「……美味しいですね、やはり」


「儂のお気に入りじゃからの、冷え込む日にはこいつに限る」


 化生は男に差し出していた杯を引き戻すと次を注ぎ、眼を細めながら口を付ける。手の内のものがなければ、甘味に舌鼓を打つ幼子のように見えたろうに。ぺろりと口の端を舐める様子は実に奇妙だ。


「ああ、芯から温まるのう……、冬は好きではないが、コレばかりは例外じゃの」


 はふ、と一息付いて首まで湯に浸かる姿を見て、彼はなんとは無しに彼女の肩を優しく抱き締める。


「ん、どうかしたかの」


「いえ……、少し」


 うなじから鎖骨にかけて、彼女の肌に男の指が触れる。ハリのある滑らかな肌の上に這わせるようにして、男の細い指が丁寧に触れる。


「……こそばゆいような、妙な気分になってくるのう……」


 むずがる化生に指先で触れたまま、水中に揺らぐ彼女の優しく抱き止める。互いに、一糸も纏わぬ姿で、睦言を交わす褥の男女のように優しく互いに触れる。そしてそれは間違いではない。如何に少女の姿であろうとも、人の子と化生は番いなのだ。


「……香香しの言葉を聞いた時にの、なんというか、気が楽になっての」


「はい」


 ぽつりと呟く化生を腕に収めたまま、人の子はひとり言のように相槌を打つ。化生は躊躇いがちに、それでも少しづつ言葉を続ける。


「ああ、儂は愛して良いのじゃな、というのと、こんなにも愛が返ってきておるのじゃなあと、なんとも誇らしい気持ちになってな」


「儂の子らが、愛を与え返してくれるのであれば、ああ、何時か儂自身の子を持ってよいのだなあ、と実感したものよ。次代へ繋ぐということ。任せてゆけるのなら、それほど幸福な事はない」


 “任せてゆける”と彼女は言った。それが何処へ行くのか、暗黙の内に分かっている。今ではないが、何時かではある。


 化生も人も、いずれは失せて消える。それが摂理だと説いた所で、果たして万事丸く収まるわけでもあるまい。今はまだ、衰えなど毛程も見えない化生も、人の子も、この星も。


 柚子湯の香が立ち込める浴場の中、化生を抱きしめて人の子は思う。永き時を過ごしたはずの彼女の背も、爪先程度の短き生を持った自分と同じように煩悶し、呻吟して怖れを抱く。

 何も変わらない互いの苦しみを、けれどこんなにも違うもの同士で持てる事に、男は奇妙な喜びを感じた。


「ああ、命を産み出すのが怖いのは、最後まで見てやれないからじゃろうなあ……ひとりは寂しいと知っているのに。それでも儂は、この世界を見せてやりたいと、そう思う」


 ならば、私は貴方のお側におりましょう、と男は彼女に囁く。

 化生は男に向き直って、泣きそうな顔で笑った。


「我慢ならんのう……これは。こんな場所で何じゃがの、ああ、愛しい、愛しい、愛しくて堪らない。今直ぐ儂を抱いておくれ、私にお前を抱かせておくれ。ああ、嗚呼」


 羊水から飛び出した赤子のように、生のままの裸身を湯船から引き上げて、化生は生まれる。

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