十七年目 化生の風邪


 穏やかな夕餉の一幕、日常の風景。一つの夫婦、一つの子供。それだけならば極普通の風景であろう。けれども席に着いているのは男が一人に、兄妹らしき男女が一組。果たして妻は何処へ行ったのか、そう考えるのが普通であろう――けれども我々は知っている。最早己の息子よりも矮躯ではあるが、彼女こそ男の妻であり、彼の母である事を。


 本日の夕食は大根下ろしを添えた赤海鼠あかなまこの刺身にほうれん草と豆腐の白和え。さわらの西京焼きにわかめと麸の澄まし汁、それと燻製にされた鴨の肉だ。米は彼女の加護する里で取れたもので、名の売れた品種では無いが、太陽が宿ったかのように艶があり、自然と頬が緩むまぁるい甘さが特徴のふくふくとした白米だ。


 人の子と化生の子、そして彼ら二人の愛し子は静かに食事を口にしている。


「お前は好き嫌いがなくて良いのう……流石儂の子じゃて」


「そのようにお望みになったのでしょうに、妙な事を仰いますな」


「望み全てが叶ってしまうのも詰まらん事よ……。限りがあり、遊びがあるからこそ楽しめると言うものよ。予測ができんからこそ喜びがある、お前さんには少々早いのやもしれんがなぁ……」


「全てが――全てが良い様に定まっているのは、いけないことなのでしょうか?」


 きょとんとした顔で眼を丸くして愛し子が己の母を見やると、そうとも、と彼女は優しく微笑んだ。


「それではいかんよ。よいかの、物事と言うのは、定まらぬからこそ面白い。決まりきった形が悪いというわけでも無いが、遊びのない造りは脆いものじゃて。……何事も、ともすれば曖昧と言われる程度が余程善い。そうすれば、その曖昧そのものが一層良い方へと運んでくれることもある」


「けれど、悪化する事も御座いましょう。失敗して、全て駄目になってしまう事も……」


 そうじゃの、と化生は首肯する。


「じゃがのう、失敗の一つや二つで駄目になるような事は早々ありはせんよ。そんなものにこそ、遊びを与えてやるべきなのじゃて……、いずれ分かる時が来る。何事も経験じゃろう。お前さんが愛し、愛されている事を忘れずにおれば、ふとした拍子に気付くとも。きっとな」


 呵呵呵と笑いつつ、化生は器を持ち上げる。ずずと啜られた澄まし汁が彼女の口に吸い込まれ、そのまま机に戻されると思いきや、力の加減を間違えたのか、予想外に強く置かれた器は傾いて、ぱしゃりと中身が机上へ撒かれた。


「ああ、大丈夫ですか。動かないで下さい、今、台拭きを」


 ぽたり、ぽたりと溢れた澄まし汁が机を伝って床に落ちる。化生は痛みに耐えるような、寂しそうな顔をして、くっと歯を噛み締める。


「ああ、すまんのう……どうも体調が優れんようじゃて……、今日は早々に床に入るとしようかの。坊、儂と添い寝するか?」


「母よ、あまり私を苛めないで頂きたい」


 もう、と子供のように頬を膨らませる彼の様子を見て、化生はカラカラと笑い声を上げた。

 けれど、人の子には、どうにもその笑顔が乾いているように見えてならなかった。


 彼が寝静まって後、片付けを終えて床に入ろうと部屋に戻った彼は、化生がまだ起きているのを見て訝しんだ。


「早々にお休みになった筈では?」


「ああ、どうにも眠れんでな。横にはなっておるので幾らか楽にはなっておるんじゃがなぁ……」


 はて、と思い人の子は手を差し出して化生の額へと上げる。小柄な体格を差し引いても、若干熱があるように思える。


「風邪でも召されましたか」


「さて、どうかの。なんせ病なんぞ患った記憶がとんとないからのう……けれどそうか、儂のこれは風邪の気か」


 化生の声は少しくぐもっている。喉が少しやられてしまっているようだ。


「恐らくそうでしょうね……貴方に効くか分かりませんが、置き薬を取って来ましょう。漢方ですから、市販品よりは幾らか身体に良いでしょう」


「うぬ……漢方か、苦いのは嫌じゃのう……」


 戯けて渋顔を見せる化生の頭を、人の子は掌を乗せるようにしてにしてぽんと軽く撫でる。


「その年で駄々をこねないで下さいよ……、飲み終わったら果物でも出しますから、我慢して下さいな」


「はは、最近は美味い飯ばかりじゃったからの……苦い不味いはどうにも不得手になってしまっておるのよ……、ははは」


 はあ、と一つ大きな溜息を吐く人の子。本当に、時に外見相応の反応を示すのだから、この方は。そんな化生の事を愛しく思いつつも、なんとも仕方のないなあ、と心の中で呟く人の子。


「終わったら少しだけ、梅酒を舐めましょう。身体が温まりますし、喉にも良い」


「ほほ、酒か。これは怪我の、否、病の功名というやつじゃの」


 酒と聞いて俄に活気立つ化生。人の子は、はいはいと返事をしながら彼女の額を押して布団に寝かしつけた。


「ああもう、ほんのちょっぴり舐めるだけですからね。そんな身体でへべれけになってしまっては、治るものも治りませんよ」


「ふふ、悪うなってしもうたら、その時はまた看病しておくれよ、儂の愛しい人」


 ほんのり紅に上気した頬を綻ばせて、布団の中から微笑みかける化生。人の子は少し恥ずかしくなって、彼女の顔を乱暴にわしわしと撫で付けてから、薬を取ってきます、と捨て台詞のように残して部屋を出ていく。


「……病、のう……」


 取り残された静かな部屋で、化生は独りごちる。果たしてこれまでに、病というものに罹ったことがあったろうか。確かに化生妖の類が強靭とは言え、疾病の類が無いではない。けれど――少女の姿をした化生は並の化生ではない。


 そんな彼女が、これまでに病などというものに冒された事はあったろうか。果たして、これは本当に風邪なのだろうか。


「ま、考えても詮無い事じゃろうがのう……」


 闇夜に光る三日月は、星々を傍らに備えつつも、薄雲に姿を覆われている。太陽はまだ、大地の底で眠っている。

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