十七年目 化生の風邪
穏やかな夕餉の一幕、日常の風景。一つの夫婦、一つの子供。それだけならば極普通の風景であろう。けれども席に着いているのは男が一人に、兄妹らしき男女が一組。果たして妻は何処へ行ったのか、そう考えるのが普通であろう――けれども我々は知っている。最早己の息子よりも矮躯ではあるが、彼女こそ男の妻であり、彼の母である事を。
本日の夕食は大根下ろしを添えた
人の子と化生の子、そして彼ら二人の愛し子は静かに食事を口にしている。
「お前は好き嫌いがなくて良いのう……流石儂の子じゃて」
「そのようにお望みになったのでしょうに、妙な事を仰いますな」
「望み全てが叶ってしまうのも詰まらん事よ……。限りがあり、遊びがあるからこそ楽しめると言うものよ。予測ができんからこそ喜びがある、お前さんには少々早いのやもしれんがなぁ……」
「全てが――全てが良い様に定まっているのは、いけないことなのでしょうか?」
きょとんとした顔で眼を丸くして愛し子が己の母を見やると、そうとも、と彼女は優しく微笑んだ。
「それではいかんよ。よいかの、物事と言うのは、定まらぬからこそ面白い。決まりきった形が悪いというわけでも無いが、遊びのない造りは脆いものじゃて。……何事も、ともすれば曖昧と言われる程度が余程善い。そうすれば、その曖昧そのものが一層良い方へと運んでくれることもある」
「けれど、悪化する事も御座いましょう。失敗して、全て駄目になってしまう事も……」
そうじゃの、と化生は首肯する。
「じゃがのう、失敗の一つや二つで駄目になるような事は早々ありはせんよ。そんなものにこそ、遊びを与えてやるべきなのじゃて……、いずれ分かる時が来る。何事も経験じゃろう。お前さんが愛し、愛されている事を忘れずにおれば、ふとした拍子に気付くとも。きっとな」
呵呵呵と笑いつつ、化生は器を持ち上げる。ずずと啜られた澄まし汁が彼女の口に吸い込まれ、そのまま机に戻されると思いきや、力の加減を間違えたのか、予想外に強く置かれた器は傾いて、ぱしゃりと中身が机上へ撒かれた。
「ああ、大丈夫ですか。動かないで下さい、今、台拭きを」
ぽたり、ぽたりと溢れた澄まし汁が机を伝って床に落ちる。化生は痛みに耐えるような、寂しそうな顔をして、くっと歯を噛み締める。
「ああ、すまんのう……どうも体調が優れんようじゃて……、今日は早々に床に入るとしようかの。坊、儂と添い寝するか?」
「母よ、あまり私を苛めないで頂きたい」
もう、と子供のように頬を膨らませる彼の様子を見て、化生はカラカラと笑い声を上げた。
けれど、人の子には、どうにもその笑顔が乾いているように見えてならなかった。
彼が寝静まって後、片付けを終えて床に入ろうと部屋に戻った彼は、化生がまだ起きているのを見て訝しんだ。
「早々にお休みになった筈では?」
「ああ、どうにも眠れんでな。横にはなっておるので幾らか楽にはなっておるんじゃがなぁ……」
はて、と思い人の子は手を差し出して化生の額へと上げる。小柄な体格を差し引いても、若干熱があるように思える。
「風邪でも召されましたか」
「さて、どうかの。なんせ病なんぞ患った記憶がとんとないからのう……けれどそうか、儂のこれは風邪の気か」
化生の声は少しくぐもっている。喉が少しやられてしまっているようだ。
「恐らくそうでしょうね……貴方に効くか分かりませんが、置き薬を取って来ましょう。漢方ですから、市販品よりは幾らか身体に良いでしょう」
「うぬ……漢方か、苦いのは嫌じゃのう……」
戯けて渋顔を見せる化生の頭を、人の子は掌を乗せるようにしてにしてぽんと軽く撫でる。
「その年で駄々をこねないで下さいよ……、飲み終わったら果物でも出しますから、我慢して下さいな」
「はは、最近は美味い飯ばかりじゃったからの……苦い不味いはどうにも不得手になってしまっておるのよ……、ははは」
はあ、と一つ大きな溜息を吐く人の子。本当に、時に外見相応の反応を示すのだから、この方は。そんな化生の事を愛しく思いつつも、なんとも仕方のないなあ、と心の中で呟く人の子。
「終わったら少しだけ、梅酒を舐めましょう。身体が温まりますし、喉にも良い」
「ほほ、酒か。これは怪我の、否、病の功名というやつじゃの」
酒と聞いて俄に活気立つ化生。人の子は、はいはいと返事をしながら彼女の額を押して布団に寝かしつけた。
「ああもう、ほんのちょっぴり舐めるだけですからね。そんな身体でへべれけになってしまっては、治るものも治りませんよ」
「ふふ、悪うなってしもうたら、その時はまた看病しておくれよ、儂の愛しい人」
ほんのり紅に上気した頬を綻ばせて、布団の中から微笑みかける化生。人の子は少し恥ずかしくなって、彼女の顔を乱暴にわしわしと撫で付けてから、薬を取ってきます、と捨て台詞のように残して部屋を出ていく。
「……病、のう……」
取り残された静かな部屋で、化生は独りごちる。果たしてこれまでに、病というものに罹ったことがあったろうか。確かに化生妖の類が強靭とは言え、疾病の類が無いではない。けれど――少女の姿をした化生は並の化生ではない。
そんな彼女が、これまでに病などというものに冒された事はあったろうか。果たして、これは本当に風邪なのだろうか。
「ま、考えても詮無い事じゃろうがのう……」
闇夜に光る三日月は、星々を傍らに備えつつも、薄雲に姿を覆われている。太陽はまだ、大地の底で眠っている。
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