十六年目 誰が忘れた童唄

 人に忘れられた場所がある、人が失った風景がある。全ては掌から零れ落ち、砂に塗れて失せにけり。寄せては返す細波も、その実元の通りとは言い難い。僅かばかりの違いだが、それでも確実に、回っている、転輪まわっているのだ。


 雪の降った化生らの館。その玄関口で、何をするでも無く愛し子たる彼が立っている。身体の方はと言えば既に一端の少年といった様子だ。急速に成長してゆく彼の肩に合わせながら、服の用意が追いつかんのう、と化生が零す事もあった―そうして今、彼は何をするでもなく、引き戸と踏み石の間に静かに積み上がった雪をしげしげと眺めていた。


 開いていた門扉の向こう、幾人かの子供連が通り掛かる。はて何用だろうかと彼が顔を上げると、相手は笑いながら彼に話しかけた。

 

「なんだーお前ー、ココん家の子供か?」

「でっけーなこの家。お前金持ちなのか?」


 甲高い声で少々不躾に物事を尋ねてくるのは、子供らしい好奇心というやつだろう。彼らはこの寒い中でも膝丈のズボンで、鼻を赤くしながらもけらけらと笑っている。


「いえ、これは父の家ですので、私は金持ちではありません」


 彼は努めて誠実に答えたつもりなのだが、子供等はもう、自分の質問に興味を失っていた。そもそも、応えを求めるような問いかけではないのだから。


「あのさ、遊ぼうぜ。折角雪が降ったんだからさあ」

「ふむ……そうですね。分かりました、それでは宜しくお願いしますね」

「おう、俺についてこい、かまくら作ろうぜかまくら。皆で秘密基地にするんだ」

「分かりました」


 喧々と騒がしくもケラケラと笑う子等に手を引かれ、彼は外へと足を向ける。呆れ半分期待が半分のなんとも形容しがたい顔だ――その様子を、彼女が見ている。


 古びた館の屋根に乗り、事態を眺めていた化生は優しく微笑みを食む。


「子供は風の子、じゃのう。呵呵、善哉善哉。良く励めよ、その経験がお前さんの、何よりの修行じゃからのう……」


 化生は何処からか取り出した煙管キセルをふかしながら見るともなく見ている。先の子供等に紛れても遜色ない童女の姿だが、質素な着物を纏ったその少女が、只者でないと我々は知っているのだ。


 化生はぷかぷかと煙を吐き出しながら、深い慈愛の篭った眼で彼らを見つめる。


 キャッキャと笑いながら何処かへ駆けてゆく子供等と、そして彼女自身の愛し子。戸惑いながら、けれども楽しそうな顔をしている自らの子を見つめながら、化生は嬉しそうに呵呵呵、と笑う。


 ぎしりぎしりと家鳴りをさせて、屋根裏の扉が開かれる。四角く切り取られた館の中から顔を出した人の子は、屋根の上に佇む化生を見つけて溜息を吐く。


「ここにおられましたか。最近眼を離すと直ぐに何処かへ行かれてしまう、隠れ鬼をしている気分ですよ」


 愚痴るように人の子が化生を窘めると、してやったりと悪童の様に笑い、子を護る母の様に口を窄めた。


「成程見鬼は手慣れものではあろうが、儂は鬼なんぞではあるまいよ……、いや、すまんの。今、あの子に友が出来たようでな、ちょいと眺めておったのじゃよ」


「そうですか……、相手は化生ですか?」


「それがなんと、人の子じゃよ。あの子にも人の生き方が出来るようじゃ……嬉しいなぁ、儂らの子は、人に混じる事が出来るんじゃなあ……」


 ほろり、と化生の目に泡が浮かぶ。零れそうになったそれを、彼女はあくびで誤魔化し、そっと拭い去る。


 永の連れ合いだ、人の子にはそんな彼女の仕草など御見通しだろう。化生が何を喜び、何を想うのか。そんなものは自明の事だ。それでも矢張り、緩んだ涙腺を見せるのは躊躇われた。


「あの子は化生にも人にも愛されて、きっと良い子になるだろうよ」

「ええ、ええ、そうでしょうね」


「誰かに好かれた者というのはのう、誰かを好くのじゃよ。愛を受けた者は、愛を与える事が出来る。全ては巡る、そうして優しく温かい世界が、また少しだけ温かくなる」


「ふむ……、熱が世界を溶かすのですか」

「ぶはッ」


 男が真面目くさった顔をして聞き返すので、化生は堪え切れずに笑い出す。


「呵呵呵、なんのなんの、年寄りの戯言よ。ぬくうなるばかりでは、そのうち茹だり上がってしまうじゃろ……要は気分の問題じゃよ。あの子が知識だけでなく、経験でものを慮れるようになる、とな」


「なんと」


 驚いた風に両手を上げる人の子。その仕草が可笑しくて、化生はまた笑い出した。


***


「ゆうやけ、こやけの……なんじゃったかのう……」


 身体を冷やさないように、との人の子の忠告も虚しく、化生は一日中屋根の上に座っていた。

 雪が積もれども彼女の回りには雪は無く、ただ一筋煙管の煙が立ち昇るだけだ。時は既に逢魔、赤々と輝く夕陽が大地に沈もうとしている。


「そろそろご飯が出来ますよ、降りてきて下さい」


 化生がその場所を離れないと知っていたのか、人の子はさも当然のようにまた戸を開けて彼女を呼び込む。そうだ、彼女はずっと見ていたのだ。彼と彼女の子を。彼が門扉をくぐるのを見届けた後、彼女は身体を投げ込むようにして器用に室内へと身を投じ、空中で草鞋を脱ぎ去って家の中へと入る。


「今晩はすき焼きかの、ええ臭いじゃ」


「おや、今朝、貴方が食べたいと仰ったのですよ、言葉には責任を持って頂かないと」

「ふむ……そうじゃったかのう……」


「嫌でしたか?」

「なんの、丁度すき焼きの口じゃったからの、どうにも当意即妙じゃったもので、中々やりおるとおもったのよ。さて、そんな絡繰があったとはのう……」


「絡繰というか、単に忘れていただけでは……」


「そうとも言うがの、ま、ええじゃろ細かい事は。何にせよ儂が望んだものが並んだんじゃからの。のう?」


 化生は傍らの高椅子に座る子へと相槌を求める。


「……母よ、私には分かりかねます」


「呵呵呵、流石儂の子じゃの、良く弁えておる。そうじゃな、分からんのう、それで善い」


 男は鍋掴みを外しながら、やれやれと溜息を吐く。


「まさかもう呆けていらっしゃるのではないでしょうねえ、本当に」


「それこそありえんわい。儂が早々呆けると思うてか」


 煙管を離した手をひらひらと回せながら、彼女はまた、呵呵呵と笑った。

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