二十六年目 少女のかたち
化生は人の子の手を借りて身繕いを行っていた。脚が動かないでは、不可能では無いにせよ、どうにも時間が掛かる。それすら愛おしいものだと化生は静かに笑う。……喜びだけではない、儚げに微笑むその姿は、長き時間を経た者の持つ諦観に近い感情なのだろうか。いや、ここまでにしよう、今日は先の少女に街の案内を任せている。景気の悪い顔色では失礼というものだろう。
――丁寧なノックが四度響いた。細っこい小さな音に返事を返すと、顔を伺わせてきたのは果たして先日の少女であった。何時ぞやとは違い、ナイロール・ウェリントン型の華奢な眼鏡を掛けている。
「おはようございます、です」
「はい、おはよう。此方はもう準備出来ておるよ。其方は……うん?」
静かに微笑みながら応えつつ少女に眼をやり、化生は途中で訝しげに眼を細めた。少女は笑顔の儘固まって……、あれは何か粗相があったのかと不安が湧き始めたのだろうかな。
「お前さん髪が乱れておるぞ、此方へおいで、梳かしてやろ」
指摘された少女は両の手で御髪に触れ、成る程些か乱れがあるのを確認した後、少しばかりばつが悪そうに首肯した。
「むぅ……お願いしますです、おば様」
「ああ、構わんよ。おいで、ここへ背を向けてお座んなさい」
少女は眼鏡を手に持ち、静々と恥ずかしげに彼女の前に腰を下ろした。白の混じった黒髪は昨夜の通りではあるが、幾らか内へ外へと乱れてしまっている所を見るに、随分と飛び跳ねてきたのだろうか。
「うう……この姿のまま眠ったせいでしょうか……頭を下にしないとどうにも落ち着かないのです……」
「ああ、お前さん達はそうじゃったの……本当に人の如き姿は久方振りのようじゃのう……ふふふ」
化生が忍び笑いをすると、蝙蝠の少女はくりくりと丸く愛らしい眼を細めて頬を染める。悪戯を看破された子供のような姿で、人の子はどこかで見たような懐かしさを感じた。
「うう、笑われてしまいました……」
化生は指先で軽く少女の髪を撫で付けると、袂から鼈甲の櫛を取り出して優しく梳り始めた。外から見れば年若い、仲の良い姉妹の一幕のようにも見えるが――その実彼女らは人ではなく、そして姉妹というには些か重ねた時間が違い過ぎる。
「うむ、生気に溢れた綺麗な髪じゃのう……しゃんと整えてやれば一層別嬪になるのじゃから、油断してはいかんぞ?」
「この姿のことはまだ、良く分からないです……便利ではあるのですけれど……」
少女は少し俯きながら呟く。所在なさげに組まれている指先を動かしながら、戸惑いの表情を浮かべている。化生は彼女の背中にそっと掌を触れさせると、縮こまった少女の身体を暖めるようにそっと擦り上げる。
「人間のことが嫌いかい?」
「……分からないです、まだ。あまり人と関わらずに生きてきましたから……」
「……そうかい」
化生は少し悲しそうに微笑んでから、彼女を後ろから優しく抱きしめる。少女は吃驚して首を回し、化生の方へと眼をやる。
「おば様?」
「少しずつ、経験してゆくと良い。ええ、ええ……時間はたっぷりあるからのう。人が善きか悪しきか、お前さんの眼と耳で感じて、それから判断するのだよ……」
微笑む化生の抱擁に絆されたのか、少女の表情からも幾分か険が取れたと見える。
「……おば様は、あったかいです」
「そうともさ。それもまた此の姿の特権さね……儂らの如きかたちに産まれた者でも熱を感じる事ができる。これだけでも悪いものではないだろう?」
少女は無言でこくりと頷く。化生は少女の頭を撫でながら、優しい子だね、と微笑む。
「それにのう、この姿にでも成らなくっちゃあ、こういった洒落っ気も中々難しいものさね」
化生が少女の掌の上に己のそれを重ね、くるりと一房だけに巻かれた真紅の髪飾りを触れさせる。モノトーンに近い少女の髪に映える一滴の真紅。
人の子は思う、ああ、この子は確かに雛鳥なのだろう。揺り籠から脚を出して間もない幼子。人の子と化生の間に産まれた愛し子とも違う、ありふれた恐れを持って産まれた妖かし。化生にとっては此の少女もまた、己の庇護すべき愛し子なのだろう。――なにせ、太陽の愛は総てに光を与えるのだから。
「ほれ、そこにも人間がおるぞ……お前さんの眼にはどう映る?」
急に水を振られ、おや、と眼を見開く人の子。蝙蝠の少女はくるりと首を傾げて男の方を見る。むうぅぅ、と眼を凝らして見つめる彼女と、所在無さげに愛想笑いを浮かべる男。
「――よく見えないです」
「そりゃ眼鏡を外しておるからじゃろ……」
ああっとそうでしたと少女は改めて彼を見つめると、ふんふん、うむむと唸りながら何やら考えこむ。そうして悩みながら、二、三言ぽつりと呟いた。
「……少なくとも、嫌な感じはしない、です」
にやりと化生が笑う。ああ、あれは悪戯心を刺激された顔だ。人の子が止める間もなく、悪い顔をした化生の口が開かれた。
「ふふ……そいつはそんな顔をして相当ないけずじゃがのう――人がやめてくれと頼んでもまるで聞き入れてくれん。酷い男じゃよ、本当にのう……」
よよと泣き崩れる仕草までして化生がそんな事を言うものだから、少女の方も「そうなのですか」と頷き出す始末。全く冤罪も甚だしい。
「なんせ常日頃から延々儂を――」
「――ああもう、その辺りにしないと流石に怒りますよ」
語気を強めて息を吐いても、化生はどこ吹く風で呵呵と笑う。そうして少女に微笑み掛けて、
「な、少なくとも悪しきものだけでもなかろ?」
……もう少し何か方法がなかったのですか、と心の中で人の子が困り顔になる様を眺めながら、化生は少女を抱きしめてまた呵呵呵と笑った。
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