三十四年目 人の時間、化生の時間
看病疲れが出ているのだろう、人の子にも白髪が混じり、幾らか痩せているように見える。重ねる年輪に相反するようにその身が萎む……彼も次第に衰えているのだ。愛し子が代役を申し出るも、彼は頑として化生の傍を離れようとしない。何時もの穏やかな声で静かに、そしてきっぱりと拒絶するのだ。
「連れ合いの世話をするのは私の役目だよ。私だけの特別だから、お前にだってそれは譲ってやる事は出来ないんだ……済まないね」
人の子は頑として化生の傍を離れようとしない。それは本当に、もう近々に彼女が消えてしまうことの理解しているからだろう。末期の際まで彼女の生きている姿を憶えていたいのかもしれない。
――そうしている間に、徐々に彼女の気配が薄くなってゆく。
それは異形妖かしの類が存在を失う際に発する死の予兆だろう。根国の香りが部屋を満たしてゆく。部屋から零れ出た黄泉つ風に草木は崩折れ、虫や獣達は力なく顔を伏せて蹲る。……彼女の周りに死が満ちてゆく。そんな化生の傍らに座して、一介の人間が耐えられる筈もない。男の指先は一層深く年輪を刻み、目玉は眼窩の奈落に沈み窪んで御髪はばさりと抜け落ちる。……何かを追い掛けるように老いてゆくのは、彼女を送る為だというのか。
――其の日は雲の多い、憂鬱な空だった。
彼女の容態が悪化したと聴いてカガシと鴉も駆けつけ、洋館の鬼も此方に向かっているそうだ。畳敷きの部屋にあるのは蝙蝠の子と愛し子、それに人の子と、静かに眠る化生の姿。小さく呼吸をするほどに悲しいほど小さく布団が持ち上がり、そしてまた力なく沈む。
幸い彼女の血色自体は悪いわけではない、苦しんでいる様子はないようだ……彼等にとっての幸いはそれだけだ。化生は苦悶に喘いではいない、其れだけがせめてもの慰めであった。愛し子は悔しさに歯噛みして、声無き声を臓腑の内で轟々と唸り散らしている。蝙蝠の子が中身を変えた水差しを持って部屋に入ってくる。誰も彼も座り込んで押し黙り、只々化生の顔を見つめている。人の子は枯れ落ちてしまいそうに華奢な腕で化生の手を握り、何を言うでもなくぢっとしている。
「――水差し、置いておきます、」
蝙蝠の子が押し殺した声音でそっと傍らに水を差し出す。そのまま二の句を継ごうとしたが、開いた口は音にならず、そのまま引っ込んでしまった。
「……どうして……」
代わりに口を開いたのは愛し子だ。その声音は深い絶望と、そして怨嗟の籠もった低い声だ。
「……どうしてこんなにも苦しい、悲しい……母が間違った事をしただろうか、無辜の命を徒に散らせただろうか。……このように消えてゆくなんて、そんな悲しみをどうして世界は強要するのだ……世界は母に何の情も持ってはいないというのか……別離を、悲嘆を、受け入れよというのか。それならば……、それならば……」
「――なれば、壊して仕舞えばよろしい」
定かならぬモノが、愛し子の傍らでそっと耳打ちをした。そうだ、彼女の与える朝を、我々の恐れる夜を、皆が平等に味わえば良いのだ。
「愛する者を愛する。それの何が悪いのでしょうか。それらを害するものを除く事の何が悪いというのでしょうか」
母の苦しみを、母の遣る瀬無さを、母の絶望を、母の苦痛呻吟一切を万象に味わわせて……ふつ、ふつふつと愛し子の背から煙が上がる。それは陽だ、彼の炎だ。熱は全ての生物に力を与える、けれども時には灼き尽くし、
「……そこまでに、しておきなさい」
皆が振り返る、か細い、けれども確かに聴こえた、大切な人の声に。皆静まって視線を向けると、成る程僅かにではあるが、化生が眼を開いていた。乾いた唇から溢れ落ちる様に吐き出された彼女の言葉は……それでも愛し子を押し留める事は出来たようであった。化生は窮屈そうに身を捩って、苦悶に喘ぐ愛し子の方へと眼を向ける。
「愛するということはな……与えるということなんじゃよ、坊」
人の子に背を抱えられ、そして半身を起こしながらキッと愛し子を見据える化生。その総身は枯れ木のように細く、若くして病に犯された少女の様である。けれども知っている、我々は知っている。彼女が、ああ、彼女こそが……
「暗がりに追い込むのは、それは違うんじゃ、坊……。悪いものは寧ろ、儂等が遠ざけてやらねば……」
「ならば、その役目は私が担うのです」
暗い陰を纏わんとする愛し子を庇うように立ち上がるのは、果たしてそれは蝙蝠の子であった。……だが、化生の権能を一部とは言え受け継ぐには彼女の身代は低すぎる。実際蝙蝠は化生と血縁のない、一時の交わりを得ただけの単なる妖の一つに過ぎない。
「――わぁ、かっ、たぁあ」
そんな蝙蝠の子を、闖入して来たカガシが強烈に後押しする。己の身体に纏う力すら解しながら、蝙蝠の子へと譲り、橋渡しをして受け流す。
「ぬむ、う、んうううぅぅうう」
そんな事をされてたまらないのは押取り刀で駆け付けた鴉の方だ。彼は身動きの取れない主に代わり、化生の代替わりと、カガシの目付け役としてこの場所に来ているのだから堪ったものではない。
「――全く、クエビコ様になんと言えば良いのやら……ええい! 参りますよ」
そうしてカガシの消耗を抑えようと鴉も蝙蝠に力を受け渡し、以て化生と縁深い者の力を彼女は受け取った。
「――ッ、――――ッッッ、ううっ」
吹き荒れる力の奔流に唇を噛み、血を流して苦悶に耐える蝙蝠の子、その様子を見て定まらぬ妖かしは責める。
「――其れが何もかも棄てる道行きだと知って、それでも貴方はそうするのか。進んで愚者の贄になるというのか。誰も貴方を見ない、誰も貴方に感謝などしない。誰も彼も貴方を睨みつけて、悪し様に罵っては唾を吐くだけだというのに……そんな醜悪な者達の為に犠牲になると言うのか、生あるものの罪科を全て負うと云うのか」
狼狽した様子で定まらぬ妖かしは言い放つ。其れは怖れであり、哀願であり、そして祈りに近い何かであった。妖かしは知っているのだ、定まらぬ己の形を捻じ曲げようとしているものがどんな悪意なのか。顔のない世界が、況や顔を隠す世界などというやつがどんな非道をやってのけるのかを。
「犠牲なんかじゃ……ありません」
ぱきん、と彼女の眼鏡が割れる。結び紐は解けてざらりと黒髪が広がり、そうしてその五体には見て分かる程の力が揚々と沸き上がっている。
「受け継ぐ事は、其れは呪いなんかじゃない筈です……、そんな詰まらないものじゃあ、ないんですよ……だから、貴方も私の手伝いをして貰います。拒否権なんて認めません、悪い心と暗い気持ちと、悪いものはなるべく多く私達が抱えて裏側へ運ぶのです! 誰かをほんの少し幸せにする為に! 穏やかな日々を愛する為に、薄明を越え、新たな明日を迎える為に!」
定まらぬ妖かしは蝙蝠の体躯からは想像出来ぬ喝に身を怯ませて、「そうか……」と力なく呟いた。それから惑うように、仕方無いといった風に身を震わせると、一所へ奔流と成って噴き出した。
それは人の形でもあり、獣の形でもある。草木であり、砂礫であり、流水であり、大気であり、そして光でもある。だが、それら総てが闇なのだ。暗い、昏い、儚い暗渠の向こう側。観測するもののない場所、故にそれは“定まらぬもの”。何者にも成れない袋小路、未成熟な嬰児、闇とは万物が解し得ない故に闇なのだ、其れ以上のことではない。
悪意に依って形を成し、それでも総てまでは明け渡すまいと顔を亡くした力のかたち。白く薄く柔らかく、闇夜に誘われて無辺に広がる黄昏に、誰そ彼と彼女は言ったのだ。……ここに、その性質は定められた。定められた形を持つ彼は、ともすれば悪意を振りまきかねない―化生―へと変性してしまった。
「――貴方は、どうして……」
「ほら、お膳立ては出来ているんです、後はアンタだけですよ」
ふん、と胸を張った蝙蝠に背を小突かれるようにして前へと押し出された愛し子は、化生と人の子の前へと身を滑らせる。
「……、あ、あの、その……」
思慮深い知恵者である彼にあるまじき、曖昧な吃り声。愛し子は其れが何なのか分からないようで、けれども両親は彼に慈しみの眼を向ける。夜に寝床へ潜り込んできた子供を見るように、寂しいと眼を潤ませる子供をあやすように。
たっぷり時間を掛けて、沢山の時を貰って、愛し子が言葉を発する。それは短く意味のない、けれども大切な問い掛けだ。
「…………私に、出来るでしょうか……」
しゅんと不安げな顔をする愛し子を、両親はそっと抱き締めながら優しく励ました。
「大丈夫だよ、きっと」
「ああ、そうとも。……お前は儂らの、自慢の息子だもの」
「父よ、母よ、私は……嗚呼……」
愛し子は極まったのか、さんさらざざあと水のように涙を流した。
「さ、お前さんもおいでなさい、儂の愛しい娘」
化生の弱々しい手招きに誘われて、蝙蝠の少女も――既にそのような生易しい存在ではなくなってしまった――二人の手を取り、そっと頬に当てる。
「……出来ることならもっと長く、お話をしていたかったです……。もっと、一緒に、思い出を重ねていたかった……」
「お前は本当に優しい子じゃなぁ……有難う、儂は幸せじゃよ……」
蝙蝠の子もつられてぽろぽろと涙を流す。子供達の流した涙は小さな川となり、彼等との間に流れ始める。此岸と彼岸が分たれる、それはもう手の届かない向こう岸だ。
「……ああ、こんなにも幸せな事があるとはなぁ……儂の生きた世界も、捨てたもんじゃあ、無かった……ああ、手を離さないで、よかった――」
そっと、化生が独り言のように呟く。人の子は枯れ木の様になった腕で彼女の身体を抱き締める。愛し子と蝙蝠の子、此岸の子供達が涙を拭い、それから眼を向けた時にはもう、愛しい両親は消えてしまっていた。
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――世界は変わらない。神が死んでも仏が死んでも陽は昇り、月は巡る。生き物は生きる、生き物は死ぬ。善男善女その悉く堕落し、人も獣も死に絶える。創り、壊れ、現れ、隠れ、そこに不変なるものはない。だがそれは誰かの祈りなのだ。ほんの少し善い明日を、誰かを愛し、愛される為の明日を、未来を願う祈りに他ならない。人の時間も化生の時間も……長く、短く、其れらが添い遂げる事はない。
――けれども、ほんの少しだけ優しい時間を彼等に与えてやって欲しいと、彼等は願ったのだ。
爪先で器用に皮を剥いて口を付ける。豊満な甘みが広がり、しゃくり、しゃくりと噛み締める度に幸福が満ちてくる。その指は起立する木を優しく撫で擦ると、もう一つの実をそっと供えた。
どこかで彼を呼ぶ声が聴こえる、立ち上がって振り返ると、困った様な優しい顔で彼女が笑っていた。
星は知っている。誰もが孤独に嘆く時に、誰もが悲嘆に喘ぐ時に、星は見てくれている、きっと総てを見てくれている。時間は彼等を見てくれている。だからもう孤独などはない。
ないのだ。
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