二年目 人と化生の朝
朝寝とは勤労の生み出した至上の贅沢である。人間が闇を恐れていた太古の昔、彼等は太陽と共に地を駆け、月と共に
されど世界は革新を得た。原初の火より幾星霜、照明という概念の発展により、人は日月に関わらず行動する力を得、己の思うがままに駆け、または眠る事が出来る。
朝寝というのはそのような神授の概念に依るものであり、ひいては人類が営々醸成した余裕によって生み出された技術の結晶、心血注がれし努力の産物なのである。で、あるというのに――
「朝じゃぞ、起きろ」
ぺちりと額に一撃入れてくる彼女の理解を得るには、人の
あと五分を求める人間の睡眠欲求は生理的快楽を肉体が求めるが故ではなく、高度に発展した社会性動物である人間に日々降り掛かる掛かる負荷の増大によるストレスから心身を回復させるための重大用件で――
「ええい、いいかげん起きんかたわけめ!」
ばさり、と掛け布団が取り払われる。内側に包まれていた熱が一気に取り払われ、冷えた外気がさあと彼に覆い被さる。
「……寒い」
彼はのそのそと起きだしたかと思うと、引き剥がされた布団の代わりを求めるように少女に手を伸ばして倒れこんだ。
抱き竦められ、身体をこすりつけるように密着された少女はむず痒いような感触を覚えながらも男に抗議する。
「やめんか阿呆が、朝っぱらから妙な気を起こすでない」
「あー、うん、聞いてる聞いてる」
「聴く気ないじゃろうお前!」
抗議する彼女をよそに、男は抱きすくめた華奢な肢体を湯たんぽのように愛でながらまた布団の上で丸くなる。抱き合った2人の身体は卵のように丸く、羊水の中に浮かぶ幼子の如くにて。
「全く、毎度毎度寝起きの悪いやつじゃのう、朝餉が冷めるじゃろうが。ほれ、床から出てこい、儂はおまえを冷や飯喰らいにしとうはないぞ」
「ん? んん、んんんー、ああ、うん、えーと、そうか、……おはようございます」
「……遅いわ、たわけめ」
彼女を抱擁したまま徐々に意識が覚醒してきたのか、男は照れ隠しのようなばつの悪いような気配を振り払うように大袈裟に唸った後、彼女に回す腕を少し緩めた。
自由になる身体を捩り、男と少女は軽く啄みの接吻をした。
「朝餉ができておるよ、身繕いをしてさっさと来い」
呵呵、と笑いながら離れる少女に名残惜しさを感じつつも、男は身を起こした。
少女の作った本日の朝食は麸の浮いた澄まし汁に自家製の漬物、|鰆(さわら)の切り身に艶のある白米。作り置きの|金平牛蒡(きんぴらごぼう)に、海苔と納豆はお好みで。
「今日もありがとうございます――それでは、頂きます」
「はいよ、お上がんなさいな」
青年と言っても良い男と、更に年若い少女が熟年夫婦のようなやり取りをするのは妙な可笑しさがあるが、彼らに取ってはもう慣れたものだ。熟れた割烹着を解いて丁寧な所作で正座をする彼女の、だが、それが少女であるとどうして言えるだろうか。彼女はきっと――人ではなかった。
男は汁物を啜り、魚に箸を入れて白米と共に頬張る。優しい魚の脂が産み出す旨みを白米の甘みに絡めながらじっくりと噛み締める。
「今日も遅くなるのか?」
食事を続けながら、彼女がさも今思い出したように―本当はずっと機会を伺っていたのだが―男に問いかける。
「案件の進み具合によりますが、今日は少し早く帰れそうです」
「そうか……、今日も良く良く勤めてくるんじゃぞ」
平静を装いつつも、声の端から僅かに浮かれた様子の見える彼女の声。恥じらいか意地なのか知らない少女の様子を察知した男は、けれども知らない振りをしながら彼女のことを好ましく思う。
「ん」
少女が視線で促すのを受けて、男は少女に醤油を差し出す。
「あまり使うと健康に悪いですよ」
「儂を年寄り扱いするでないよ……。まあその、実際年寄りではあるんじゃがの……」
事実、彼女はその体躯からは想像もできないほどの高齢だろうが、それらは彼女を測る指標にはならない。――彼女は化生であるのだから。
「気を使うのは悪いことではないでしょう?」
「ん……そうじゃのぅ」
2人は静かに納得する。静かな食卓、けれども冷たいものではない。
男は息を吹きかけて、温かい汁物をゆっくりと味わった。
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