三年目 家守る化生

 仕事へと向かう彼を玄関で見送った後、少女は一つ息を吐く。


 彼女の心を覆う、彼に打ち明けない部分。本当は一刻でも離れたくはない、一刹那、須臾の間ですら彼から離れていたくはない。――だが、それが我儘であることもまた分かっている。叶うことのない願いであることも、また。


 結局は感傷なのだ。幾千年の時を経た化生の持つ、並び立つものが居ないという恐怖。誰もが己より先に死に絶えてしまうという寂寥。喜びの一時よりも、それが手を離れてから先の永劫というやつの専横と言ったら。


 広漠たる時間の巨人が、悲哀の煙管キセルくゆらせて、彼女を孤独にする、それは逃れられぬ。


 幸福はこれまでにも確かにあった……だが、いつか壊れる。己だけを残して森羅万象その悉くが滅びる、それが長命の化生の定め。

 定命たる儚きものは、どれほど彼女が守り導いたとしてもいずれは消える。それを知るが故に拒み……それでも愛を抱いた。


 彼女は生きて、一人になった。


 手慰みにと加護を与えた一族は、嘗ては大いに栄華を誇っただろう。決して傑物、善人ばかりではなかったが、それでも化生にとっては愛しい子らであった。


 そして、それもおそらく、終わる。


「その命が尽きるとも、か……。はン、我ながらようも無茶を言ったものじゃのう……」


 童女の姿で老婆は笑う。愛しているなどと耳障りの良い詞を唱えるのは、結局は自分の我儘なのだ。化生も彼を愛した、愛してしまった。何よりも、彼の愛に応えてしまった。それは罪深いことだ。


 彼女は子を成すことはできない。かの家系の唯一の末である彼とつがうならば、彼らの血は絶える。愛しき幼子の血筋に己で引導を渡すに等しい、大切なものを自ら壊す行為だ。


 年寄りは無痛覚になるのではない。痛みを抱えて、それでも生きていく方法を知っているだけだ。喜びが消えるのではなく、悲しみが失せるのでもない。ただ感傷だけが古傷のように身体に残るのだ。


「……ええい、やめじゃ。今更、どうもならん」


 ぱちんと顔を張ると、少女は掃除用具を持ち出して動き出す。


 彼らの住む家は古風な日本家屋というやつで、2人で住むには少々広い。元々は彼の一族が使っていたものだが、今やそれも1人だ。


 だが、そうかと言って彼らが新居を構えるわけにもいかない。此方は彼女の理由だ。彼女はこの場所を離れれば加速度的に力を失い、数年で衰えて死んでしまう。長きに渡る加護は彼女を弱くしたのだが……さておき。


 広い家屋の中、彼女は和服をまくって紐で結び上げる。小柄な体躯を精一杯に使いながらはたきをかけ、箒で畳の上を丹念に掃いて清める。


 彼女たちが普段使っている部屋だけならば然程多くはない。しかし屋敷全体となれば流石に重労働だ。彼女は広い屋敷を丹念にはたいては掃き、拭いては清めてゆく。


 柱を拭い、木目に沿って雑巾をかける。古いが故に維持にも結構な手間がかかるものを、彼女は文句の一つも言わずに、黙々と遂行する。。


 全ては彼のためだ。直ちに彼が気付くことではないだろう。だが、帰宅した彼を綺麗な家で迎えたいと思う。良き相方というのは言葉にせずとも伝わる、小さな気遣いを重ねるものだと彼女は考える。


「ふうぅ~、こんなもんかの、うむ。今日は終わり、終わりじゃ」


 ……決して中途半端に放り出したわけではない。


 実際、掃除はつつがなく遂行された。掃除とは終わりのあるものではない。意地の為にある掃除は継続するもので、日々続けられない量であってはならない。彼女はそのまま休むことなく昼食の準備に移る。


 とは言え、摂るのは彼女1人なので調理はやや適当だ。彼に持たせた弁当の残りを温め、炊飯器に残った白米をよそう。簡単に出汁汁に味噌を溶かし、朝と同じように自家製の漬物を幾つか冷蔵庫から取り出して終了だ。


「うむ、いただきます」


 もそもそと咀嚼する音が響く。ここに男が居ようものならテレビの電源でも入れるのだろう。そうして、


「食事中にテレビなんぞ見るんでないわい」と彼女に窘められている所だろうか。


 だが、男はいない。少女は一人で黙々と昼餉を咀嚼する。彼女は白菜漬の葉の部分が好物だ。しかし年寄り臭いと言われるのではないかと妙に気にしており、彼の前では箸が鈍る。なので昼だけは、はばかる事無く存分に食べるのである。


「ご馳走様でした」


 応える声はない。手早く食器を洗浄した彼女はこたつで丸くなる。小さな指でリモコンのボタンを押すと、卓上の籠に載せた蜜柑を摘む。


 昼の健康番組を眺めながら、華奢な手で丹念に筋を取っては、これまた小さな口を広げて頬張る。艶のある唇に染みた果汁に指を這わせ、ぺろりと舐め取る。歳にそぐわない艶やかさは、長年生きてきた彼女の化生の部分がそうさせるのだろう。

 

 うつらうつらと船を漕ぎ始めた頃、玄関から調子外れに無遠慮な呼び鈴が鳴る。


「はぁい」


 緩んだ意識を張り直して彼女が表へ出ると、隣家のご婦人が何やら持ちだして訪ねて来たらしかった。


「おや、果物かい、それはそれはありがとうねえ。……ああ、ちょっと待っておくれよ、アレが貰ってきた南瓜があるんだ、良ければ貰っておくれよ」


 お裾分けの干し柿を頂くと、彼女は返礼にと南瓜やらなんやらの野菜を相手に持たせる。


 年に似合わない物腰の少女に、婦人は気にした風でもない。どうもそういうことは気にならない仕組みになっているらしい。少女の姿が相応の女性に見えているのだろう。


「ああ、アレは今日も仕事じゃよ。忙しいのは結構なんだがねえ……、ああでも、今日は少し早く帰ってこれると言っておったかのう……」


 他愛のない話を重ね、そうしているうちに日が暮れる。


「ああ、もうこんな時間だねえ。引き止めてすまんかったなあ……。ええ、ええ、それではの、はい、また今度」


 ご婦人と別れ、少女は炊事場に立つ。精一杯の食事で彼を迎えるのだ。


 ―――


 玄関の扉が開かれる。笑っているのか悩んでいるのか、なんとも言えない表情をした彼が顔を覗かせる。少女は喜びに満ち、けれどもはしたないとその色を隠す。

 ああ、けれども口角の端には喜びの残滓が満ち満ちているのだ。彼はそれに気付くのだろうか。気付かない振りをしている人に、化生は気付くだろうか。


「おかえり、よう帰ったな」


 からからと音を立て、扉は優しく閉じていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る