負四年目 二つのいのち

 春も近いというのになお寒い。雪は消えたが、新芽も顔を覗かせてはいない。灰色の雲が絶え間なく広がり、太陽すら隠してしまっている。光など此処にはない、熱は奪われ、灯りは消えて、開かれた穴蔵で震えている他に何ができようか。


 慌ただしく動く使用人に確認した所、母が産気づいたようだ。……何であれ、産まれて来た事はその子の罪ではない。せめてほんの少しでも、幸福を――。


 屋敷に匂いが広がる。血の匂い、獣の匂い、生きるものが生きるための匂い。私の感覚にはどうにもそれが刺激的に過ぎて、ついふらふらと山あいへと身を避けてしまった。

 それは罪の自覚からだろうか、生まれてくる子を愛する為にも、私には少しの時間が必要なのかもしれない。……心を落ち着けよう、愛がなくてはあんまりにも悲しい。悲しみはまた別の暗い感情になって、そうして何もかも壊してしまう。


 だが、山道を奥へ進んだ所で血の匂いは消えない。屋敷からここまで薫っているのだろうか、いや、それとは別の、いきものの匂いが……。

 ざく、と土を踏みしめて匂いのする方へ向かう。枯れ木に貫かれて、姉が死んでいた。

 薄眼を開け、血塗れで座り込むように下を向いていた。両の掌は穢れた腹を包み込むように撫でており、まるで何かを庇っているようにも見える。そんな姉の形をなんといえば良いのだろう。

 彼女は幸福であったのだろうか、それとも総て憎んでいたのだろうか。どちらにせよそれが自殺でないことは確かだ。彼女は殺されていた……だが、其れを知ることに何の意味がある? 姉は死んだ、死んでしまったのだから……何故私ではなかったのか、あるいは何故、私だったのか。問い掛けに返答などない。それこそ神の、単なる気まぐれだ。

 諦観し切ったような焦点の合わない姉の眼が余りにも不憫で、けれどもどうしてか、彼女の眼を閉じる気にはなれなかった。彼女は最期の時、正気だったのではないかと思う。幸福ではなかったとしても、彼女は生きたのだろう。


 山道から降りて使用人に姉が死んでいることを伝える。彼等は倒れんばかりに驚愕して、そうして何人かで徒党を組んで山へと殺到した。

 このまま屋敷から離れた所で眠らせてやりたい気もしたが、それでも彼女の亡骸が虫や獣に辱められるのは不憫だった。身繕い程度は彼等も許してくれるだろう。


***


 そして其の内に、母の出産も終わった。終わってしまった。事の顛末を聞いてぐらりと全身が揺れる感覚を覚えていると、庭先で兄が何やら喚いていた。


「んぐるむぅぅぅぅ」


 強い尿臭をさせながら同じ場所をぐるぐると回っている彼の様子を見る。その手には前足をもがれた猫が乱暴に掴まれ振り回されている。いけませんぼっちゃま、と使用人の一人が男を止める。兄はばたばたと妙な動きで縁側にいる私に駆け寄ると、


「――それで満足かい?」


 低い男の声。否、兄の声ではない。男の様であり、女の様でもある。幼気な稚児のようでもあり、老練闊達な翁のようでもあった。それは何だ、何が私に声を掛けたと言うのだ。


 兄は言ったまま走り去りながら遠くで猫を振り回し、庭石にぶつけて臓物を散らしている。静止する使用人の言葉が空々しい。


 何者かが居るのだ、この場所に。それは虚ろの零れ神ではなく、けれども意志を持つ故にまた神と言えるだろう。どこか遠い所で悲鳴が上がった。は神坐の下へ向かう、あの暗がりならば少しは心が平らかになると思えた。

 世の悪しきものから離れ、けれど善きものがあるわけでもなく、ただ観る場所。人界との関わりは僅かで、されども完全に分たれているわけではない。は未だ信じているのだ、人間という曖昧な括りの中で、何処かに善き者が居ることを信じている、願っている、そう思い込もうとしている……やめよう。姿も見えない何者か、それはあの泣き虫に比べて随分と慎みが無いらしい。私の思考にまでも……。

 信じている、だが、それを見たことはない。人は醜い、人は決して美しい生き物ではない、そんな事は理解している。だがそうとでも思わなければ、あんまりにも救いがない。ただ生かされ、死んでいった離れの兄弟姉妹の墓に、私は何を供えてやれば良いというのだろうか。


 逃げこむように御所へと潜る。あれ以降神の残骸は口を開こうとしなかったが、不思議と崇拝にも似た気安さを感じるようになっていた。

 同情か、憐憫か、涙を流したソレもまた生き物に違いないと思ってしまったからだろうか。上手く言い表すのは難しいが、哭いている神のかたちから感じるものがあったのは確かだ。

 それが間違いであるならばきっと、はもう此処にはいない。を繋ぐものは肉の身体と、壊れてしまった家族の情。それから零れ神への奇妙な親近感に他ならない。それらが失われてしまえばきっと、どこか遠い所へ行ってしまう。知らない場所で蜘蛛が笑っている。何者にも愛されなかった命は、何処へゆくのだろう。……未来に救われるならば、それまでは救われずとも良いというのだろうか。


 母が子を産んだ。難産のせいか発熱が続き、産後は思わしくないそうだ。父は決して母の部屋へは入ろうとはせず、誰も彼もが命を祝福しなかった。……命は産まれた、だが人間は死んだ。それは誰かの意志だったのだろうか。

 産まれた子には脳がなかった。臍の緒を切って暫くして眼を閉じた。もう動かなかった。……それは誰が悪かったのだろう。産まれた子に何の咎があったのだろう。


「呪われているんだよ」


 誰かの声が耳に響く。慎みのない何者か、それが神か人かなど、最早些細な問題だ。世界とは狭く閉ざされていて、理不尽で残酷だけれども、それでも誰も逃げ出せない。変える勇気すらないのだ、遠ざける勇気などある筈もない。互いに疑い互いに恨み、互いを嫌って互いを屠る。誰もが誰も信じていない。信じることに価値があるなんて、誰も思っていない。


「きっと皆呪われているんだよ」


 御所の中だからだろうか、薄暗い室内で一層囁きが五月蝿い。暗渠に押し込まれた黴臭い空気に混じった悪意。

 私はそれを振り払うために声を上げようとして、しかしそれも出来ずに口元を塞ぐ。その上悪いことに、ご、と込み上がる嘔吐感に耐え切れずに赤が溢れる。それは糸を引きながらも、掌に留まらず容易に抜け落ちた。


 あと僅かだ、と私は思う。

 あと僅か、ほんの少しだけなのだ、私の生きる路の果てまでは。生きることが人に許された自由ならば、その結果として死ぬることがあってもそれは忌避することではない。生き続けるなどということを目的にしてはならない。生きる、その結果として死ぬことがあっても、生きる、生きたことに繋がるだろう。死ぬために生きるのではなく、生きたために死ぬのだ。滅びぬものはなし、永久に続くものもなし、万事が流れる、それが自然の理か。

 死した私の一部が何者かを形作るのであれば、それが何よりの幸福だが……そこまで多くを望むのは欲深だろう。ごぽ、と粘着く血の海が吐き出されて、その間息が出来なくて苦しいのに嘔吐を止めることも出来ずに身体を折って只終わるのを待つことしかできない。……苦しい、苦しいんだ、痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、息が……出来ない。


「呪われているからそんなに苦しいんだ」


 はらはらと死んでゆく私の一部、すり抜ける、離れて、零れる。膿んだ神と膿んだ人だけを収めた悪徳の箱。

――不意に神と眼があった。何を見るでもなく観ていた形が、何者かに執着するのを見るのは初めてだろうか。

 汚してしまってすまないと詫びようとしたが、どうにも力が入らず、ぜぶ、と声にもならない音が喉から吐き出されて地に膝を折る。――ああ、どうやら本格的に、私は生きたらしい。

 満足なものだったかどうかは分からないが、どうあれ私の路はそろそろ終わる。……ああ、そんな眼で見ないでくれ、悲しみを押し隠した貌で、諦観を忘れてしまいそうな形で、あなたがこれ以上、零す必要などないのだから……。

 手を伸ばそうとして天地が回転する。自らが転げたのだと気付くのにも随分と時間が掛かった。彼女に近づこうとしても身体の何処に力を入れればよいのか分からない。……もう私の身体ではなくなってしまったのだろうか。粘着く喉元が次第に熱を感じなくなってゆく、何もかもが引き伸ばされて、感覚も、意識も、薄く、白く、無に…………


「痛いのは自分が悪いんじゃないのに」

「呪いなんて誰かに纏めてに押し付けてしまえば……」

「■■■■■■……」

「……これ以上苦しむことなんてないのに」「貴方が悪いんじゃないのに、誰かの報いを貴方が受けるなんてワリに合わない」



―――――


―――




***


 ……悲鳴が聴こえる、人の悲鳴が。誰かが泣いている、鳴いている、哭いている。どうしてそんなに取り乱しているのだ、悲しむべきことなど無いというのに。そのままに、ただ、ある。其れだけでよいだろうに。

 ……血の匂い、悲鳴、人間の生臭さ。いきものの醜悪さ。腐敗した肉、撒き散らされる液体、ざらついていて、粘ついている、脳を焼く甘い悪臭が、自然の香を掻き乱してなお臭い。

 浮き上がるように身体が起きる。目を開けてしまえば光は眼球に殺到し、そのまま灼かれて倒れそうになる。

 暫く眠ってしまっていたのだろうか……世界の色が変わって見えた。これまでの灰色とは違う極彩色に眼が眩む。雑多な匂いの渦、数限りない音の奔流。私はなるべく身体の感覚を抑えるように、ゆっくりと身体を動かして部屋の外へ出る。いつの間にやら己の部屋へ戻っていたらしい。


 ああ、神が哭いている。

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