負三年目 神の時間
***
「フぅぐあアぁあァアアア、ッッッアアぁアァァ」
「ねぇさま、ねぇさま、しっかりして。ああ、駄目だよ、零れてしまう。これじゃあ僕まで……」
「私の心配もしないでえぇ、自分の事ばっかりいいぃぃぃ、あんたは、アンタは何時もそうだ! 何をするにしたって私の後を追い掛けてばかりで、辛いのも苦しいのも何時も私ばっかりだ。あんたなんか、あんたなんか、■■■■■■■■■■■」
「ねぇさま……」
「憎い、憎い憎い憎い。生きているものが総て憎い。家族も、神も、世界も、アンタもよ! アンタなんて私が生きる為の小道具に過ぎないのにどうして何時も何時も何時もアンタばかりが得をするのよ忌忌しい私にくっついて居なくちゃなにも出来ない弱虫の癖に誰もアンタなんて見てくれやしない“私達”である為の部品に過ぎないのにぃ、いいいぃぎぃいいいぃぃぃっっっ」
「ねぇさま、ねぇさま落ち着いて」
「五月蝿いって言ってるのよぉッ」
錯乱した己の姉に殴りつけられながらも、彼はなんとか彼女を鎮めようと身体を抑える。けれども繋がった二人の身体で上首尾なぞ望むべくもない。殴打され、引き離され、その度に自身と相手との身体を繋ぐ部分に激痛が走り、ビキビキと肉が引き絞られ、千切れ飛ぶ激痛に苛まれる。
「私はいつだって一人で戦ってきた、これからもそうだッ、アンタなんか必要ない、男のアンタなんて必要ないッ、私は一人で、一人で、ぅううっ」
激しい動きに耐えかねたのか、ぞぶりと嘔吐する彼女。その体液には血が混じっており、尋常ではない何かが彼女の身の中にある事を感じさせる。
「ねぇさま、大丈夫、大丈夫だから」
斜めを向いた彼が語り掛ける。繋がりもの、結合双生児、決して真正面から向き合うことの出来ない子供達。彼女から吐き出された汚濁に塗れ、痣の浮いた腕が不格好に伸ばされ、小さな掌が彼女の肩に触れる。
「僕は、ねぇさまが大切だから、最期まで隣にいるよ」
「……莫迦、死んじゃうよ」
「うん、それなら産まれ変わっても、また二人になれる」
「…………莫迦」
///
妹弟が死んだ。痛い痛いと苦しんで死んだ。己の身籠った子に臓腑を掻き乱されて、痛い苦しいと喚いて死んだ。繋がっていた弟は息絶えた妹の遺骸に優しく触れて、疲れ果てて眠るように息を止めた。彼もまた同じ痛みを抱えていただろうに、あんなにも安らかな顔で……幸福を湛えた顔で……嗚呼。
「失敗だ」
「あれは産まれから既に……」
「眼を掛けてやったのに……」
口々に囁きが響く。産まれ持った畸形を考えるなら、あの二人もまた離れに住まわされる可能性があった。眼を掛けたという事は、何かの特例措置があったのだろう。
後に知った事だが、神話に於ける天照大神と素盞鳴尊のウケイに
母の腹が膨らみ始めた。作った顔の張り付いた父は愛しそうに母の
どうしようもない底冷えを感じて己の身体に触れる。私は本当に此処に居るのか、人間のかたちをしているのか……其れすらも不安になって、どうしようもなく怖くなる。私はいつまで私なのだ?
気分が悪いと伝えて席を立つ。「大事になさい」と言う母の言葉すら私を凍えさせて、理由も分からず走り去りたくなる。冷えているのに雪さえ降らない……いっそ全て塗り潰してくれるのであれば……私の死骸を埋めてくれるのならば。
かの部屋へ赴いたのは、そんな自棄を起こしていたからだろうか。神坐の間は常に御簾を下し、血走った眼の人間達があれやこれやと手管を練って、それでも毎日項垂れて帰りゆく。
人間などは手慰みの玩具に過ぎないのだ、強大な力を持つものというのは人も神も変わらない。只玩弄する、なんと虚しい存在であることか。……私は憐憫すら抱いていた。其れは只人であっても力に酔わされ、醜悪な人鬼に成り果てる、まして神など、どのように変わり果てるというのだろう。一粒の毒が草木に周り、病となって大地を覆う。……白布に落とされた墨汁が拭い去られる日などは来ない、淫祠邪教の祀り神など、最早元のかたちには……。
部屋に押し入り、御簾を潜る、そして己の口元を抑えた。身成は綺麗に整えられ、金糸銀糸を交えた上等な橙の衣を纏い、匠が掘り出したかのような指先は一分の隙もなく、流れる髪は薄闇の中で尚美麗にして優美。――だが、その偶像から立ち上る濃密で、陰湿で、醜悪な、しかし救いでもある黴臭さ。ああ、この神は――。
私は頭を垂れるのも忘れ呆と突っ立って、白痴の様にその姿を見る。いや、それを見ているようで、本当な何も見えていやしない。突っ立っているだけの屍体を生きているとは言わないのだから。
――死者は眠らせてやらねばならない。苦しみに喘ぐ生を、苦悶に満ちた現世を、それでも生き終えた者達のために其れはあるのではないか。ああ、だから、生者は苦しむ其れらに告げてやらねばなるまい。貴方も役目を果たしてくれ。
「……どうか私達を滅ぼしてはくれまいか。貴方に授けられた力を扱うには、私達は余りにも穢れてしまった。申し訳なく思うが、最早この家には何もない。人の情も、獣の愛も、草木の囁きも、小川の安らぎも、総て私達が駄目にしてしまった――人は騙す、人は憎む、人は狂う、人は妬む、人は嫌い、人は奪い、人は殺す。人はあんまりにも身勝手で、強欲で、浅ましく度し難い。けれども――貴方が人間の事を、ほんの一欠片でも信じてくれるというのなら……赦してほしいとは言わない、だがせめて、せめて……」
我々を開放してくれ、もう充分だろう。こんなに苦しいのは、辛いのは、もう。
つつ、と神の抜け殻が瞼を閉じもせず瞳から泉を溢れさせる。暗に潜り込んだ部屋を僅かに赤らんだ色へと変える灯りが目ざとくそれを見つけては、光を伴って詳らかにする。
動きもしない神が零したのだ、それを。そんなものを見てしまったからだろうか、それともただ零れるままの神が癇に障ったのだろうか、そんな事を考える前に、私は思わず問い掛けてしまっていた。
「……どうして泣く、神の癖に」
神たる化生は答えもせずにただはらはらと落涙する。零れるままに拭い去ることもせず、只管に零れ続ける。人には辿り着けぬ存在が、人智を超えた者が、それでも尚。……私は理解する、この神は、化生は、いや、この憐れな女は、人間と何も変わる事はないのだ。
――膿んでいる――
「……貴方が悲しむことはない、これは人の、我々の業なのだから。切掛など些細な事だ、何れは己の火で自らを灼き尽くしてしまう、そういう業を人が背負っていた、それだけの話だろう」
慰めの言葉は力なく床に落ち、神はさめざめと零し続ける。これではまるで人のようではないか。
「どうして泣く」
化生は答える。
「……お前達は、涙を流さないから、なぁ……」
女の成りをした神が泣く、私は何も出来ず掌を握る。人に出来る事など何もない、壊し、穢し、踏み躙り、偽証して何もかもを台無しにし続けることしか出来ない。諦めろ、と声が響く。
諦めろ、諦めろ、人の身では何も出来やしない。諦めろ、諦めろ、人間に何かを生み出す事なぞ出来はしない。諦めろ、諦めろ、神の前に立つことすら恐れ多い。諦めろ、諦めろ、誰も悲哀の海を超えることなぞ出来はしない。諦めろ、諦めろ、身を屈め、暗渠に隠れていろ、上を見るな、前すら見るな、聴くな、触れるな、嗅ぐな、感じ取るな。その何れもが人には過ぎたものだ。滅びろ、滅びろ、何もかも滅びろ。怨嗟と呪怨の果てに滅びろ、怯懦と猜疑の果てに狂え、何者もモノのように打ち捨てられて沈め。
私は口を開き、けれども何も言うことが出来ず下を向く。
下品な声で誰かが笑う。それは男の様でいて女の様にも見える。子供の姿にも老人の姿にも見え、聖人の様にも乞食の様にも見える。茶金斑の装いが目につくのに、貌というものが見えてこない。
――そうしてまた「我々が産まれる」
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