負五年目 人と化生
――眼を開く。殺到する光に目が眩み顔を歪ませる。意識が浮かび上がる、死んでいた自分が起き上がる……生きている。
問うまでもなく予感がある。零れた神は消えている。あれだけ血を吐いた私が今も生きている。如何なる人間でも、その理由を己にのみ求めることは出来ないだろう。私は与えられたのだ、神によって。
身を起こすと嘘のように軽い。じっとりと全身に張り付いていた粘性の膜が取り払われたような感覚。面食らう位に感覚が広がり、山ほどの情報が取り込まれてくる。今までにない感覚の暴走に目眩がして眼を伏せ、それからもう一度見る。
……光、そう、光だ。溢れんばかりの光、意識を溶かすほどの光、圧倒する光線の奔流。世界の輝きを感じる事が出来る。何も存在しない灰色の世界に色が刺された。……それを行ったのが何者なのかなど、言うまでもない。人では届き得ぬ事象を成し之を奇跡とする、其れこそが人間でないものの行いだ。
――だからこそ私は返さねばならない、彼女に。誰もが求める神ではなく、感傷の海に沈んだ小さな彼女に。
――誰かがあの涙を拭ってやらねば――
そうでなければ、あまりにも……。
広がり過ぎた感覚のせいか、ふらつく身体を抑えながらも立ち上がり、障子戸を開く。
陰鬱な空、醜悪を煮詰めた人間の巣窟。楽器の演奏と共に、何処かで空寒い祝詞が響いている。……それでは届かない、彼女の下へは届かない。神が聞き届ける人の願いとは――。
ぎゅっと廊下を踏みしめる。床板は軋みも上げずに私を支える。一歩進むごとに脚が鉛のように重くなる。
信仰を冒涜する背信者は、こんな気分を味わっていたのだろうか。――ああそれでも、私は神を貶めよう。背信し、零し、堕とし、己の望むままに神を扱おう。彼女は望んでいないかもしれない、その時にはこの生命を返そう。人が神に返すものなど多くはないのだから。
近づく度に両の足が地に張り付きそうになる、私は怖いのだろう。彼女に拒絶されるのが、彼女に否定されるのが。だが、これは私の望んだ事だ。恐ろしいのは私自身のことで、それ以上ではない。
気圧される、何かが立ち込めている、良くないものが立ち込めている。それはきっと屍だ、幾万幾億と積み重なった屍の檻が誰かを閉じ込めている、光を遮ってしまっている。……だが、大丈夫、大丈夫だ。悪意など今は見慣れている、多くの生きた人間が放つあの醜悪さに比べれば、どうという事はない。
「正しいつもりか――」
耳元で騒ぐ何者かの声に、
「――否」
と応える。
神などもう信じてはいない。彼の知る神は陰惨で残酷な神だけだ。御所で哭いていたあれは神ではない、神ではないのだ。
袖先で口元を覆う。滲んだ血を隠す為に手慣れた動きだったが……どうやらもう必要ないようだった。顔を上げる。
空は鈍く、雲は暗く、世界は暗黒に見えた。だがそれでも、こみ上げる嘔吐感はなくなっていた。
歩く、進む、彼女に逢うために。踏み込み、前を向く、彼女に告げるために。勢い込んでぱぁんと跳ね返るほどに開かれる戸口。男はゆく、神坐の前、御簾の向こう、彼女の隣へ。
むっとするほど焚き染められている香の匂いも、汗みずくになりながら祈祷を続ける神官達の狂騒も遠い。必要なものは目の前にある。彼女が、いる。
傍らで倒れるようにして休んでいた父が止める間もなく、私は御簾を上げて彼女の隣へと入り込む。零れた神は笑うでも泣くでもなく、ただ其処にあった。……だからもう神ではない、彼女は神ではない。
「……膿んでいるのか、生きることに」
彼女は答えない。
「……それとも己の業を授けたことに、か。人が堕落して、悪徳を貪って尚醜悪を晒す事が耐えられないのか」
彼女は答えない。
「私達に触れた事を……」
膿んだ神が口を開く。
「……きっと儂のようなものは、人に触れてはならんかったのだよ……。彼等の痛みも苦しみも、手を出しさえしなければここまで醜悪には成らなかった……。儂のような化物が人に触れることが、否、儂が……」
「……だが、そうであったとしても」
男は彼女を抱き締め、額を合わせる。零れた神が、彼を見た。
「生きることが、産まれてきたことが、間違いだなどとは言わせない……それは貴方であってもだ……貴方自身であってもだ」
人の子は化生の楔を抜き放ち、そして彼女に接吻する。生きよ、と。化生は涙を流し、そして誰も彼もが驚愕する。
「生きることは苦しいのだろう……だが、そればかりではない筈だ。……誰かを愛し、共に生きる、それは決して過ちではない」
「……愛が、あったのだろうか。この悪徳の巣窟に」
「愛は確かにあった……だから私がこうして生きている。だから貴方を孤独にはしない」
「――そうか」
――そうだ、それこそが、
「――生きることが悲しみばかりに満ちたものではないと証明する、唯一の――」
神気が満ちる。彼女を信ずるものが今、その場所に居る。
神は岩戸を開いた、誰が望み、誰もが羨み、誰もが悲しみ誰もが愛した、神が瑞穂に御戻りになった。けれども――
「我等の神が御戻りになったぞおおぉぉ」
「神、我等が神、お待ち申し上げておりました、ああ、待っておりましたとも、何時か貴方が嘗てのように我等に道を示して下さる事を! さあ、下知を、下知を下さいませぇえええぇぇ!」
――正しいつもりか? 本当に?
業、と邪悪が渦巻く、悪意が盛る、悪徳が栄える。其れは姿を持たないものだ、形を持たない妖かしだ。……其れは邪悪、苦痛、害意、嫉妬、怨嗟、何れの言葉でも形容出来ない影の塊だ。太陽が輝く時、必然闇は色濃く堕ちる。形を持たぬもの、名を持たぬもの、姿の定まらぬもの。それを視て人は呼ぶだろう――恐怖と。
人々が狂乱する、喝采する、汚れた指先で柏手を打ち、冒涜の祝福をする。その後ろで茶金斑に揺らぐ不定形の化物が嗤っている。
「神の御前に我等揃いまして御座います」
「どうぞご下知を、我等貴きお方の為、幾千幾万の供物を捧げる備えがありますぞ!」
「……済まん」
彼の手をぎゅっと握りながら、小さな声で神が呟く。
「何を詫びられますやら我らが神、この娑婆世界は何もかも貴方様の如意に御座いますれば。一時の休息なぞなにが問題になりますでしょうか。さあ、我等の神よ、我等に力を、対価は十分に用意しております!」
「……済まんと言った」
ほう、と化生の指先に光が灯る。広がる熱はそれを視た彼等を灼いて彼女の一切を毀し、神の齎した何もかもを消す。彼等の中で増幅する悪意を消すために、彼等に授けられた御業もまた消し去られる。……そうして神は姿を消す、彼等の記憶から消えて、姿の見えぬ化生妖かしとなる。
神は此処に零れ堕ちる。御所の梁が罅割れ弾け飛ぶ。集い始めていた叢雲は消え去り、太陽は人々を照らす。……けれどももう、彼等だけを照らしているわけではなかった。神の座した証も、人々が狂乱した事実も何もかも、千々に裂かれて残らない。神であったものが最後に残すものは信仰ではなく希望でもなく――
「……最早人に神などはいらない、そういう時代なのだろう。人は生きる、人は死ぬ、きっとそれ以上のものではないのじゃろうな……。好きに生きろ、好きに死ね。それが儂からお前達へ送る最期の」
「……最期の、餞……」
「そんな身勝手な事を――」
「貴方様の、お前の力がなくては――」
「我等を放り出すというのか――」
人々は口々に彼等を呪う、恨む、憎む。だがその間にも次々に灼かれて鎮まり、地に伏せる。時には授けられた力を振りかざそうとすらしている。――ああ、けれども彼等の其れは本来化生の与えたものなのだ、其れすらも忘れてしまった哀れな子ら。神を失った彼等は、総てを忘れて曖昧に去ってゆく。
「んぐるふぅぅっ」
奇声に化生は顔をあげ、見た。一人の男が―まるで獣のようにすら見える―滅茶苦茶に腕を振り回しながらも、全身に定まらぬ影を纏わせているのを。彼の様子は影から逃れようとしているようにも見えたが、残った闇をかき集めているようにも見えた。――男は化生の指先から逃れるように裸足のまま猛然と山へと駆けてゆき、その後はしん、と静まった。
倒れ伏せた人々が、音も立てずに立ち上がる。その様は幽鬼のようで、けれども順番に、時には己の感覚を確かめるかのように掌を握っては開きながら、顔に触れ、肩に触れ、腹に、脚に、己が在ることを少しずつ試しながら一人、また一人と何処かへ歩いてゆく。
彼等は神を喪った、けれどもこれからを生きてゆく、終わりではないのだから。
化生は思う、ああ、其の愛はなんと苛烈だったのだろう、なんと鮮烈だったのだろう。
今でも心の臓が早鼓を打ち、顔には朱が差す。人間は……愛されたというのは……なんて善いのだろう。それでも、ああ、それでも手放せねばならなかった……彼女の指先を受けて、彼もまた忘れてしまう。彼女の事も何もかも、そこにあった事も何もかも。
人であるが故、彼等と同じように。人と妖かしは共に生きることなど――神が人界に混じってはならなかったのだ、人は人、神は神の世に留まるべきであったのだ。そうすれば誰も傷つかず、誰も苦しまず、生きて……ああ、生きてゆけたのだろう。ほんの少し、けれども絶望的な先刻の言葉を、彼はもう覚えてはいない。
化生は己を制御することも出来ず、乾いた笑みだけが落涙を留める。
「は、ははは、また、儂は――」
――また、始めのように……
「いいえ」
人の子が言う。地を這うように、血を吐くように、己を吐き出すように、精一杯の勇気を振り絞るように……笑みを浮かべるその姿は、まるで先程のように。
「……いいえ」
そっと、彼の小さな手が化生に伸びる。子供の掌だというのに、其の皺には深い苦味が滲んでいる。……いや、大人になろうとしている掌だ。小さな豆が幾つかある、それは亡骸を葬った数だけ彼の中に染み込んでいる。生きている者達と死んでゆく者達の中で、生きてゆく為の歴史が、彼を大人にする。
「私は貴方を連れて行く。長い旅だ……一人では凍えてしまう」
暖かな掌の感触が、しっかりと化生に触れ、掴み、留める。
「……貴方が誰であるのか、何であるのか、もうはっきりとは分からない。きっと何か、何か私の想像も及ばない事が起きたのでしょう――」
けれど、と彼は続ける。
「貴方を愛し、傍に居ると誓った。それだけは覚えている。私であった過去の私が、忘れてしまった今の私へ伝えた唯一のこと……貴方を愛し、共に生きる、それで良いように思われるのです」
「嗚呼、嗚呼……」
「どうか貴方と共に。只人のように生きて、只人のように死にましょう……静かに、ただ静かに。どうにも私達は、騒がしいのが苦手なようですから」
「儂はもう、長くは生きられんよ……後は精々百年足らずの、末期の生と云っても良いじゃろうなぁ……」
化生を奉じる者達はもういない、忘れられた神は零れ堕ちて消えるのみ。
「……なれど、共にゆくことは出来る筈だ」
人の子は化生を抱擁する腕に力を込める。華奢な身体がびくりと強張り、それからとっくり時間を掛けて控え目に彼を抱き返した。小さな身を寄せ合い、抱きしめ合う少年と神、いや、もう彼等は男と化生だ、神などいない、少年もいない、誰も彼もが疵痕を晒し、時間を背負って生きてゆく。
「すまんなぁ……儂はお前さんに何も与えてやることはできなんだ……、人の生も、誰かと生きる人並みも、お前から奪ってしまって……」
「それでも」
男は言う。
「それでも、貴方がよいのです」
「嗚呼、嗚呼、嗚呼……」
男は折れそうに細い化生の肩を抱きしめながら、思う。忘れてしまった事がある、失った事がある。それが何なのかすら、知る事は出来ない。だが、それでも、それでも……。
私がただの一つだけ持ってゆけるものがある、誇ってゆけるものがある。それだけは決して間違いではない、間違いではないのだ……。化生ははらはらと落涙しながら、決して離そうとはしなかった。
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街の喧騒から離れた長閑な山間に、一軒の屋敷が見える。人界から切り離されたかのように静かであるが、けれども優しげな暖かみがある。古風な庭園付きの日本家屋であるが、手入れは良く良く行き届いているようだ。切り揃えられた垣木や松葉を見やれば、其れが今も生きていると分かる。
其の屋敷には、一組の男女が住んでいる。若い男と、それから更に年若い少女、いや、童女と言って良いかもしれない。
今時分には珍しい臙脂の着物が、けれども寧ろそれが自然といった風に少女へ馴染んでいる。彼女は華奢な身を男へ寄せ、甘えるようにして眼を閉じている。自然、眼元へと流れる彼女の黒髪を、男は優しい手つきで耳へと流す。むずがるように身動ぎをした彼女が男に目配せをすると、男は声もなく笑い掛ける。互いの身体に触れる体温を感じながら、彼等は静かに眼を閉じた。
――我々は知った、彼女が見た目通りの少女でないことを。だがそれも今は遠い、彼女の果ては只静かに……静謐で神聖な……けれどもぬくもりのある日向の中で、家族に見守られながら。
そして只、人のように。
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