二十九年目 やさしいこ
沈んだ黒に真円の月が登り、草木も虫も笑わない。吹き上げる潮騒が遠く海の向こうから稀人を運んで来る。海の向こうの常世から、訪ねて来るのは吉事か凶事か。日輪からも姿を隠し、押して寄せるは波立つ泡か。
椅子の背を幾らか倒し、身体を預けるようにして眼を閉じている化生を傍ら、人の子が静かに口を開いた。……それは仕方の無いことなのだろう。館の主は少しだけ寂しそうな顔をして、けれども何も言わない。己の領分を超えたものであることを理解しているが故に。如何な妖怪変化の類とて、出来ぬことがある。神にも叶わぬことがあるのだ、諸々を良くする化生達と言えど、尚更であろう。
「……本当に、帰ってしまうのですか?」
人の子と館の主は弁えた。けれどただ一人、蝙蝠の少女だけは悲愴の
「ええ……家に戻れば、幾らかは楽になるでしょうから」
人の子は申し訳ないと言った風で、少女の方へそっと眼を向ける。
「仕方のないことです……少々早いですがこの辺りが潮時でしょうね。無理を押してあれこれ出歩いても辛いだけですもの。最後に湯治をして戻ると良いでしょう。それなりに力の有る霊泉ですから、帰りの間くらいは幾分か楽になるかと思いますよ」
眼を細めて紅茶を傾ける主。物憂げな様子で溜息を吐く彼女もまた、何かを諦めてしまっているようで……。
「……まだ、一緒に居たかった、です。色々な場所を案内して……笑って貰って……それから、頭を撫でて欲しかった、です」
悲しげに項垂れる少女の姿は、じくじくと人の子を苛んだが……、けれどもこれは、どうしようもないことなのだ。静かに寝息を立て、眼を閉じている化生の方を見やり、その貌へ垂れる黒髪をそっと流す。これが老いというものなのだ。何もかもが少しずつ不自由になる。化生もまた一段、その階段を昇ったに過ぎない。だからこそせめて――それが悲嘆と憐憫に満ちたものにならぬように――と、傍らに座する彼は気を配るのだ。1人で寂しくならぬよう、後ろ髪を引かれて奈落へ転げ落ちてしまわぬよう、優しくその手を握り返す。
「永々無窮に生くるものなし。命持つものである以上、老いることから逃げられはしない。長きを生きたわたくし達もまた、いずれ枯れて果てるのでしょうね……、けれども月と太陽だけは、そんな私達を見守っていてくれる。……そう、思っていたのですけれどね……」
幾度経験しても、こればかりは上手く表すことができませんね、と、主はまた誤魔化すように紅茶を口に含んだ。
「……おば様はこんなに優しくって良いお方なのに、どうしてこんなに悲しい目に遭わなければならなのでしょう?」
力なく肩を落とす少女の様子を見て、主は励ますように彼女を優しく抱き寄せる。
「誰かが悪い訳ではないのですよ……、我々もまた、そういう“かたち”を持って産まれてきた……そう言っても、貴方は納得出来ないのかもしれませんね……」
くりくりと愛らしい瞳を潤ませて口を歪めている少女が、顔を隠すように主の懐へと潜り込む。彼女の背中を優しく撫でながら、館の主は言葉を選ぶ様にぽつり、と呟いた。
「それでも、誰かが彼女の傍に居てあげなくてはなりません。……そして、偶々私がその役目を担った……」
「偶然などではありませんよ」
人の子の自問自答のような言葉。それをぴしゃりと打つかのように、小さく震える少女の背中を優しく撫でさすりつつ、主が答える。
「貴方が彼女の隣に居るのは、きっと運命ですもの。――その魂魄百万遍生まれ変わったとしても、貴方は彼女と寄り添うことを選ぶでしょう……そしてそれはきっと、彼女も同じ」
人の子は静かに化生を見やる。触れただけで折れてしまうような、か細く華奢なその指先に己のそれを重ね、繋ぐ。化生と人の子の縁はか細く、けれども決して離れることはない。片翼で空を舞うことはできない。それになにより、1人で飛ぶ空はあまりにも淋しい。彼女が芽吹く草木に、ひっそりと暮らす獣たちに、田を耕し、種を蒔く人々に向ける眼は慈しみと、少しの諦観。誰かがこの小さな化生の傍に居てやらねばならぬのだ。
人の子は少し思案して、それから呟くように小さく口を開いた。
「……家に、来ますか?」
小さく震えていた背中が、吃驚したように静止する。コチ、コチ、と振り子時計が鳴る。少女は今にも泣きそうな顔を持ち上げて、けれどもその顔はまだ言葉が理解しきれていないようで。
「家ならばまだ、多少の自由は効くでしょう。貴女が良いのであれば、彼女と共に笑い合ってほしい……いや、これは残酷なお願いなのかもしれませんが、どうか……」
そうだ、これは残酷なお願いだ。老いて弱る化生を見るだけで泣きそうな程に感じ易い少女に、化生に静謐が訪れるその時まで隣に居てくれと、そういう話だ。……きっと少女は傷付くだろう、他ならぬ自身の優しさによって。
厚顔な請願だ、悪辣な懇願だ、けれども人の子はその言葉を留めることができなかった。彼の脳裏に浮かんだのだ、遠く空を眺めて物思いに耽る化生の姿が。そんな彼女の近くに来て、あれやこれやと話をして上げてほしい。今日の素晴らしい事を伝えてほしい、そう思った彼の我儘だ。
「行きます」
そんな彼の煩悶を知ってか知らずか、少女は零れ落ちそうな涙をぐい、と拭い取ってから化生の傍へと駆け寄る。そして人の子とは反対側から、化生の手を取る。
「……私は願い、傍へ居着きます。どうかおば様に、幸福を」
吹いて上げるは潮の香、目尻に映るは涙か泡か。
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