第2話 初台~甲州街道

「じゃあ、気をつけて」

 改めて念押しするように言い置くと、警官は自転車にまたがり、ゆっくり去っていった。

 航治は全身の末端にまでみなぎっていた痺れが完全に身体から退くのを確認し終えると、ずっと止めていた息を時間をかけて吐き出す。

 この身体の変化に、警官は気づいただろうか。不審に思わなかっただろうか。

 落ち着け。何も感じなかったからこそ、ああやって去っていったんじゃないか。

 より深く心を鎮めようと、いつもそうするように、航治は眼を閉じ、「まゆ」を想像してみようとする。

 白く、清潔な楕円形の殻。熱くもなく、冷たくもない。柔らかくも硬くもない。航治を包み込み、世界の全ての嫌なことがらから隔絶してくれる、完全な避難所。

 だがその試みは断たれた。雨粒を含んだ風が吹き、半ばまでできかけていた皮膜を、一瞬にして消し去ってしまった。航治の皮膚には、湿った風にさらされた後特有の、べたついた感覚が残った。

 眼を開け、今さらながらに航治は悟る。

 ここは外なのだ。だから「繭」はつくれない。

 鞭を振り回すような、甲高い風切り音が頭上で鳴っていた。見上げると、電線が縄跳びの縄のようにしなっていた。

 ただの音だ。部屋にいれば、気に留めることなどなかったろう。だが今それは、航治に発せられた警告のように聞こえた。

 また声が聞こえる。


「引き返せばいいのに」


 嫌だ。思いきり頭を振った。

 絶対に引き返すもんか。僕にはやるべきことがある。

 航治は再び、力を込めてペダルをこぎはじめた。

 もしかすると、気弱になるのは先立つものが不足しているせいなのかもしれない。所持金のなさが、困難になるだろう先の道程を、さらに困難に思わせているんだ。

 航治はリビングの収納棚にかけられた、緑色の南京錠を思い出す。

 あの、いかにもちゃちな錠は、防犯のためなどではない。明らかに息子の心に、やましさを感じさせるために設置されたものだ。

 畜生。航治は歯噛みする。

〈あいつ〉が憎い。そして、そんな〈あいつ〉からかすめ取るような方法でしか、たった数千円の軍資金も調達できない今の自分が、情けない。


 航治は計画にしたがい、ハンドルの先を近所のゲームショップへと向ける。

 あちこちで舗装道のくぼみに一昨夜来の雨がたまり、湖沼のようになっている。

 ゲームショップの収まるビルの周囲も、その例にもれず、大きな水たまりだ。

 なるべく水の浅い場所を探し、すでに駐められている他の自転車の間に押し込むようにして駐輪した。

 店の前に張り出したひさしの下に入り、疏雨そうをしのぎつつスマートフォンを出して見る。

 やはりメッセージは届いていない。航治はスマホをしまうと、二階のショップへと続く階段をのぼった。

 ふと不安になる。もし閉まっていたらどうしよう。

 幸い店は営業していた。「台風14号接近のため、本日は午後6時までの営業とさせていただきます」と書かれた紙が、入口に貼られていた。航治は安堵する。今はまだ午前中だ。

 ドアを開け、店内に入った。目的はゲームソフトの売却。今の航治に考え得る、唯一にして最も迅速な現金獲得方法だ。

 レジ・カウンタには、オレンジ色の縁の眼鏡をかけた、つるりとした丸顔が印象的な男が立っていた。胸に店のロゴの入ったエプロンをかけている。検品作業中だろうか。下を向いて手を動かしている。

 航治が近づいていくと男はようやく顔を上げ、笑みとともに、高い声で「いらっしゃいませ」と言った。

 航治は告げた。

「ソフトの、買取りをお願いしたいんですけれど」

 半年ぶりの、他人との会話だった。


 航治はナップザックをおろし、中を探って包みの中からゲームソフトと、インターネットからダウンロード・プリントアウトした保護者同意書、それから生徒手帳を取り出し、男に渡した。

 男はそれらを一瞥すると、「少々お待ちください」と言って、確認作業にとりかかった。

 保護者同意書は親ではなく、航治自身が勝手に書いて捺印したもの。生徒手帳は学年が変わってからはじめて開いたものだった。

 再び緊張が四肢をとらえ始めるのを感じる。ごくまれにだが、店員が確認のため、保護者に電話をかける、という噂をネットで目にしていたからだ。

 もし電話をかけられたらどうしよう。そのときはソフトを掴んで、逃げるしかないだろうか。

 思いつつ、航治は店員の顔と、店の出口の様子を交互にうかがう。

 心配は杞憂に終わった。男はごく事務的に同意書と手帳をあらためただけで、両方のコピーをとると、航治に手帳を返し、ソフトの盤面を改める作業に取りかかりはじめた。

 ほっと息を吐く。

 考えれば当たり前じゃないか。店にとって一番大事なのは、売り手の素性などではなく、ソフトがきちんと動作するかどうかなんだ。

 航治はカウンタ横のテレビに目をやった。画面ではアナウンサーが心持ち眉間に皺をよせ、一昨日からの雨の被害と、もうじきまた激しくなるであろう風雨について、警告を続けていた。


「この前線により、関東地方では山間部を中心に、一昨日から昨日までの二日間で累計四百ミリ台という降水がありました。また、南海上からは台風十四号が接近しており、再び前線の活発化と、台風による降水が見込まれます」


 続いてアナウンサーは、各地に出されている警報を読み上げはじめた。

 航治は店内を見廻し、奇異な感覚にとらわれる。アナウンサーの硬い口調と、店内に漂う穏やかな空気のあいだには、大きな温度差がある。

 店員は黙々と日常業務をこなし、中高生を中心とする数組の客たちは、じゃれあいながら棚を物色してまわっている。

 もしかすると僕も、他人から見たら彼ら同様に、危機感なんてかけらも持っていないように見えるのかな。

「お客様」

 という店員の声に、航治は我にかえる。

 店員が口にした買取り金額は、想像していたものよりもずっと少ないものだった。これではいざというときに、タクシーは使えないだろう。だが仕方ない。どのソフトも、発売から相当の日が経ってしまっている。

 航治が「それでいいです」と伝えると、店員は領収書をさし出し、署名をするように促した。航治はサインをし、男はレジから紙幣を取り出した。

 そのとき、カウンタ内で電話が鳴った。男がすかさずそれに出る。

「はい。リザードクラブ初台店です。えっ? お呼び出し? ええ、はい。わかりました。失礼ですが、お名前をもう一度いただけますか。ニシザト――ニシザトコウジ様ですね。はい――」

 男がゆっくりと航治を見た。眼鏡の向こうで眼が細められるのがわかった。

 航治は釣り皿から鷲掴むようにして取った金を握りしめ、出口へと駆けだした。店を出るとき、背後から店員が何か言う声が聞こえたが、無視してビルの階段を駆けおりた。そして自転車を引っ張り出すと、すかさずまたがり、こぎはじめた。

 再び手足に生まれた痺れを抑え込むのに苦労しつつ、航治は思う。

 どうしてあんなに早く〈あいつ〉は、僕が家を抜け出していることを、ゲームショップへ来ていることまでをも知ったんだろう。もしかすると、部屋に入り棚を見て、ソフトの数が減っているのに気づいたのだろうか。だとすると大した観察力じゃないか。


 いったん自転車をとめると、サドルにまたがったまま、その場でスマートフォンを取り出した。

 相変わらずメッセージは届いていなかった。かわりに〈あいつ〉からの電話着信履歴が延々とリストに連なっていた。

 嫌な味が口の中に満ちた。

 航治はスマートフォンをしまい、ペダルをこぎはじめた。


 雨粒が大きくなりはじめていた。

 甲州街道ぞいでスーパーをみつけると中に入り、雨合羽を探して手にし、レジに並んだ。

 値段は五百円。一番安いものを選んだが、それでも今の航治には、痛い出費だった。電車は初台からではなく、新宿にまで出てから乗ったほうがいいだろう。

 隣のレジでは、老婆が後ろの行列を無視し、延々と店員と世間話をしていた。店員は苦笑ぎみだが、持て余しているというほどでもなさそうだ。

 外じゃもう、たまにだけど突風も吹くようになっているっていうのに、帰らないでいいのかな。

 航治には老婆の態度が理解できなかった。


 スーパーを出た。わずかな間に雨は、疎らなぱらつきから、細いながらも銀色の筋へと一変していた。

 いよいよ前線が刺激されはじめたんだ。急がなくちゃ。

 再び甲州街道を新宿駅に向かって走る。吹き始めた強風にあおられ、自転車が何度もふらついた。

 骨が折れた傘を持つ人の何人かとすれ違った。まったく何も持たずに、身体を濡らして歩く人の姿もあった。

 焦りが強くなる。

 中央・総武線はまだ運行しているかな。ゲームショップのテレビでは、アナウンサーは何も言っていなかったけど。ともかく運転見合わせになる前に、駅に辿りつかなきゃ。

 スピードを上げようとしたとき、前方になにか青い布のようなものがはためくのが見えた。

 なんだろうと考える間もなく、それは急速に近づいてきて、ひときわ強い突風とともに、航治の視界を覆いつくした。

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