雨天航行

フヒト

第1話 外へ

 雨雲がまだらに空をおおっていた。

「きっと、間に合う」

 鉛色の雲を見上げながら、西里にしざと航治こうじは誰にともなく呟いた。

 冷たい風が吹き、大気に含まれた細かな水滴が頬を叩いていく。


「無理よ。絶対に間に合わない」


 背後から声がしたような気がして、振り向く。だがそこに、〈あいつ〉はいない。

 念のため、ドアの前に行き、耳をつけて廊下の様子をうかがう。

 やはり気配は感じられない。

 少なくとも今は。


 航治は窓辺に戻ると、サッシを引いて閉め、風に揺れる庭の木々を見つめながら、強く拳を握って、開いた。それから机の前まで行って椅子に座ると、パソコンのディスプレイに見入った。

 画面には川が映っていた。土色をした水の帯が、河川敷いっぱいにその幅を広げ流れている。

 マウスをクリックし、いくつかのウィンドウを切り替えていく。全て流域ぞいに設置された、国交省の定点観測カメラからのリアルタイム映像だ。

 どのウィンドウにも、似たような眺めが映し出されていた。速い水。泥色の流れ。暗い空。

 今一度ウィンドウを切り替え、気象庁のサイトを広げた。

 天気図には、関東から近畿、四国にわたって日本列島に添い寝をするように横たわった、前線の姿が描かれていた。その南、海上には、「⑭」とナンバーのふられた幾重もの同心円と、その進路予測があった。

 表示モードを衛星写真にする。同心円が、その正体である白い渦巻きへと姿を変える。中心には五円玉硬貨のような、くっきりとした目があった。

 航治はその渦巻きをたっぷりと十数秒間睨みつけると、険しい表情のまま、スマートフォンを手に取った。

 SNSには何のメッセージも届いていなかった。

 航治は今日何十度目かの落胆をおぼえた後、立ち上がると、ベッドの上に広げた「装備」の点検にとりかかった。

 チョコレートバー三本、中学の生徒手帳、わずかな小銭の入った財布、パソコンからプリントアウトした紙の束、昨夜一時間熟考して選び出したゲームソフト三本。

 航治はそれらを一つ一つ、小さめのレジ袋に包んでいくと、スマートフォンだけを除き、すべてを大サイズのビニール袋に放り込んだ。最後に全体をまた大きな袋で包み、グレーのリュックに押し込んで背負うと、ドアの前まで行って、振り返って部屋を見た。

 五歩もあれば端から端まで歩けてしまうような狭い部屋に、何年もかけて集めてきた本やゲーム機が分類され、並べられていた。

 不思議だった。自分の身体の一部のように愛着を抱いていたそれら品々との、これが最後の別れになるかもしれないというのに、胸の内に、大した感慨が湧いてこない。

 なぜだろうと考え、航治はすぐに思い至る。

 そうだった。春にも一度、この部屋と、そこにある品々に、さよならを告げたことがあったんだ。

 航治は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 大丈夫。失うものなんて最初からない。だから僕は強くなれる。絶対に。


 ドアにかけたいくつもの内鍵をすべて外し終えると、ドアノブをそっと押し、廊下へと出た。家に人の気配のないことを改めて確認し、後ろ手にすばやくドアを閉め、階段を降りる。長らく目にすることのなかった一階の様子を目の当たりにしつつ、迷いなくリビング・ダイニングの収納棚へ向かう。

 記憶では、この観音開きの扉の向こうに、家の生活費の一部がしまわれているはずだった。

 だが航治は、扉の取っ手を引こうとして指を止めた。そこには半年前にはなかった、緑色の南京錠がぶら下がっていた。

 焦りと怒りの混じった舌打ちが口から出た。と同時に、庭のガレージから、車のエンジン音が響いてきた。

 航治は総毛立つ。まずい。〈あいつ〉が帰ってきた音だ。

 航治は玄関に走ると、靴箱を開き、自分のスニーカーを探した。一瞬、別の場所に移されているのではないかという不安がよぎる。

 だが靴は移動されていなかった。几帳面な父の仕業だろう、丁寧に表面の泥が拭き取られていただけだった。

 スニーカーを掴み取った航治は、元通りに靴箱の扉を閉め、キッチンへとまわり、靴を履いて勝手口から外へ出た。表の玄関扉が開き、〈あいつ〉が買い物袋をさげて屋内へ入ってきたのを耳で確認すると、湿った裏庭を走り、前庭へ向かった。そしてガレージの隅に雨ざらしにされた自転車を見つけると、できる限り音をたてないようにしてスタンドをはね上げ、ハンドルを手で押して道へ出た。

 サドルについた水滴をざっと素手ではらい、その上にまたがる。残った水滴がジーンズにしみ込み、尻が気持ち悪かったが、構わずにペダルをこぎ始める。

 角を曲がり、家から百メートルほど離れた場所まで走って、ようやく航治はいったん自転車を止めた。

 心臓の鼓動が早く打ち、ハンドルを握った両手は、その先にある自転車の前輪を細かく揺らしていた。

 一度振り返って見て、〈あいつ〉の姿がないのを見、数秒後もう一度振り返って、同じことを確認した。

 馬鹿みたいだ。ついさっき、強くなれる、なんて思ったくせに、もうこんなに震え、怯えている。

 空を見上げた。そこには変わらず分厚い雲の群れが横たわり、時折ぱらぱらと疎らな雨滴を降らせていた。

 ともかく第一関門は切り抜けた。早く次の行動に移らなきゃ。そうしないと、

「君」

 突然、男の声がした。航治は驚き、再び身体をこわばらせる。

 目の前に、雨合羽を着込んだ、二十歳前後と思われる、いかつい肩と顎を持つ男が立っていた。警察官だ。

「今日は休校?」

「はい、そうです」

「そうか」

 警官は空を見上げた。

「警報がたくさん出ている。なるべく早く家に帰ったほうがいいな」

「はい。そうするところです」

 航治は嘘をついた。

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