第4話 新宿中央公園
「――てんのか、しっかりしろ」
突然、聞き慣れぬ男の胴間声が耳に飛び込んできた。同時に、テレビのチャンネルが乱暴に切り替えられるように、繭も、部屋も、ノックの音も消え失せ、かわりに薄汚れたジャンパーに薄汚れた野球帽をかぶった、無精髭の中年男が目の前に現れた。
男は航治の両肩を掴み、叫んでいた。突然の展開に対応できず、身体をこわばらせていると、男はさらに大声をあげた。
「おおい! あんた、どうした。固まるな!」
どうもこの事態を脱するには、なんでもいいから、言葉を発しなければならないらしい。航治は舌を噛みそうになりつつ、「大丈夫、です」と、やっとのことで答えた。
男は安堵したのか、航治の身体を解放すると、雨水に濡れた歩道に腰を降ろし、はああ、と盛大に息を吐いた。酒の匂いがぷんとした。
「まったくよう、大丈夫なら大丈夫で、早めに返事をしてくれよぅ。眼ぇ白く剥いて、なんだかわけわからねぇこと、ぶつぶつ言ってるから、変なところ打って、逝っちまいかけてるんじゃねぇかと思ったじゃねぇか」
そう言って、肩で息をする。
航治は男の隣に座ったまま、周りを見た。足下に自転車と、青いビニールシートが、絡み合うようにして転がっていた。
ようやく事態を把握した。どうやら自分は、突風で飛んできたこのビニールシートにぶつかり、派手に転んでしまったらしい。そしてそのあげく、この場で〈あれ〉を起こしてしまったのだ。
航治の頭に、路上で白眼を剥いて倒れ、薄汚れた男にがくがくと気付けられている自分の姿が、イメージとなって浮び上がった。両耳が一気に熱くなるのを感じた。
一刻も早くここから立ち去るべく、立ちあがろうとした。が、腰が抜けてしまったように、力が入らない。泡を食っていると、突然、男が航治の腋の下に腕を差し入れ、有無を言わさぬ力で立たせた。そして、もう一方の手で自転車をかつぎあげた。
「ああ、あんた。とりあえずすぐそこに落ち着ける場所があるから、そこ行って、ゆっくり座って休もうや。な?」
「――でさ、昨夜までものすごい雨で散々だったと思っていたら、ラジオでさ、今度はでっかい台風がやって来るっていうだろ? しかもここに住んでる奴の一人が言うには、今度は雨だけじゃなく、風も滅茶苦茶強いっていうんだ。昨日のうちに公園から移っていった奴も多いんだが、俺は荷物も多いし、今日も粘ろうと思ってた。けれど仕方がない。移るしかねぇだろう、と思って小屋を畳んで荷物を背負い、甲州街道まで出てったんだ。そしたら突然めっぽう強い風が吹いてさ、俺のビニールシートを空飛ぶ絨毯みたいにさらっていっちまった。必死でそれを追ったんだけど、これが運の悪いことに、自転車に乗ってたあんたに命中しちゃってさ、で、今こんな感じになっちまったんだ。いやまったくすまなかったなぁ。まったく」
なおも数回、まったくまったくと繰り返しながら、帽子の男は頭を下げた。
「はあ。そうですか」
航治は生返事をする。他に適当な言葉が思いつかなかったし、男と話に花を咲かせるようなつもりもなかった。
帽子男の言ったとおり、新宿中央公園までは、すぐの距離だった。男は公園内の
「じゃ、じゃあよう、あんた、喉も乾いただろうから、そこにひとまず座って、ゆっくりしていてくれよ。俺はなにか飲み物でも買ってくるから、な?」
帽子男は小走りで公園の外へ走っていった。航治は男の姿が見えなくなるとすぐ、ベンチから立ちあがろうとしてみた。が、背中に痛みを感じ、すぐ腰を降ろした。
どうやら思ったよりも強く身体を打ったらしい。確かにもう少し休む必要がありそうだ。
「畜生」
航治は呟いた。
五分ほど経った後、航治の計画を狂わせた張本人の、帽子男が戻ってきた。片手にコンビニのものらしい袋を提げている。
「おっ。少し顔色がよくなったか」
近づいてくるなり男は、航治の額に汚れた手を伸ばしてきた。航治はそれを反射的に避けた。帽子男ははっとして、すぐにばつの悪そうな表情になり、卑屈な笑みを浮かべた。
男は表情を作り直すと、
「ああ、ともかくさ、あんた、これ買ってきたから、飲めや」
と言いながら、飲み物を差し出した。冷えていないスポーツ飲料のペットボトルだった。航治は戸惑いながら手にし、それが本当に未開封であることを確認したうえで、蓋を開けて液体を喉に流し込んだ。
どうという音をたて、雨滴とともに風が公園の中を舞っていく。
窪地にできた広大な水溜まりに激しく波が立ち、木々がしなる。地面の上を、紙屑や木の葉らが、追い立てられるように転がっていく。
帽子男が訊いてきた。
「それにしてもよ、あんた。こんな雨の中、いったいどこへ行こうとしてたんだい?」
はあ、と言い、少しためらった後で航治は答えた。
「荒川、です」
「荒川? 荒川って、荒川区か? 冗談だろう。ここは新宿だぞ。自転車なんかでそんな遠くまで」
「違います」
航治は遮った。
「自転車は新宿駅までです。あとは電車で行くんです。それに行くのは荒川区じゃありません。川の、荒川沿いにまで行くんです」
「え? 電車? ああ、そうか。そうなのか」
男はなぜかうろたえたように、
「ええと、で、そのう。あんた、そこまで、いったい何をしに行くんだ?」
「それは」
航治は口ごもった。男はしばらく航治の横顔を見ていたが、
「まあ、あんまり
と、ポケットから、煙草の燃えかすを取り出すと、使い捨てライターを何度もこすって、火を付けた。
航治はふと、男の横に置いてある、コンビニの袋に目をやった。中には沢山のカップ酒が入っていた。何気なく航治は訊いた。
「このお酒も、この飲み物と一緒に買ってきたんですか?」
「あ、ああ、まあ、そうだよ」
男は言いにくそうに、
「そのう、あんたに経済的にな、ちょっと援助を受けてな」
はっとして航治はポケットに手を突っ込み、取り出した財布の中身を改めた。
財布には十円玉と一円玉しか入っていなかった。確か残金は千七百円ほどあったはずだ。
「なんだよこれ! あんた僕の金盗ったろう!」
「ち、違う。兄ちゃん。それは誤解だ」
「誤解なんかじゃない! あんた、僕の金を盗ったんだ。だからさっき電車の話をしたとき、うろたえた様子だったんだ! 返せ、僕の金、今すぐ返せよ!」
「わ、わかった」
帽子男は瞬きを激しく繰り返し、
「確かにちょっと兄ちゃんから金を借りた。今返すよ」
そう言ってポケットを探りはじめた。だが出したのは、百円硬貨二枚と、十円玉六枚。あとは一円玉だけだった。
「二百六十円ちょっとしかないじゃないか。全部出せよ」
「いや、それはちょっと」
「ちょっと、何だよ」
がく、と男が頭を下げた。
「すまない。兄ちゃん。これが、今の俺の全財産なんだ」
航治はしばらく歯を食いしばり、そこに突っ立っていたが、やがて溜め息をつき、肩を落とした。両拳を広げ、また握りしめると、男に背を向け、東屋に立てかけてあった自転車のハンドルを掴み、歩きはじめた。背中はまだ痛んだが、無視することにした。
「畜生」
再び航治は呟く。
情けなかった。金を盗られたことが。そして、あの男に怒りの一つもまともにぶつけられない気弱な自分が、情けなくてたまらなかった。
これからどうやって荒川まで行こう。
自転車だけでたどり着く。
方法としては考えられる。だが、こんなふうに風と雨がしだいに猛威を増しつつある中、はたして可能なのだろうか。
そのとき、背後から声がした。
「あ、あんた、ちょっと待ちなよ。せめてもの詫びをさせてくれ」
「詫び? なんですか」
振り向き、精一杯の邪険な口調で、航治は言った。
帽子男は航治の態度にわずかにたじろいだが、それでも、
「待ってくれ、今すぐに連れてくるから、お願いだからそこで待っていてくれ」
と言い残し、公園の奥に消えていった。
ほどなくして戻ってきた帽子男は、背中に初老の頃と思しき、背の高い男を連れていた。
初老の男が言った。
「なんだって?この雨の中、荒川に行きたいんだって?」
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