第3話 繭

「航治」

 誰かが呼ぶ声が聞こえた。

〈あいつ〉の声だった。


「ねえ、航治」

 再び声がした。前回と全く同じトーンだ。だがずっと近くに聞こえる。

 辺りを見廻す。闇が周囲をおおっている。

まゆ」はなかった。航治の身体は剥き出しのまま、闇の中に投げ出されていた。

 一点だけ光の漏れている場所があった。

 航治は、わけのわからぬまま闇を這い、そこへ向かう。

 光の向こうに出た。

 部屋が見えた。自室だった。航治は部屋のベッドの上で、布団を首までかぶった状態で、這いつくばっていた。

 どうやら布団の中から外に首を出したところらしい。


 こつん、とノックの音がした。少し間をおいて、またノックの音。さらに間隔をおいて、もう一度。

 同じように聞こえるが、繰り返されるたび、音は明らかに強くなってきている。

 音が四回を数えたところで、航治は返事をした。

「僕はいるよ、ここに」

 ノックは止み、〈あいつ〉の声が返ってきた。

「航治、あのね」

〈あいつ〉の声のバリエーションは、話の種類同様にとても少ない。訊ねるまでもなく、出だしの声の調子によって、航治はこれからはじまる話の内容を悟る。

「私ね、小さい頃、よくデパートの上の階にあるレストランに、連れて行かれたの。母親に」

 そこで〈あいつ〉は少しの間をおく。これもいつものことだ。

「いつも不機嫌で、濁った眼をしている母親が、にこにこした顔で示すの。『あそこの眺めのいいテーブルに座りなさい』って。でも私にはすぐわかるのよ。これから始まるのが、楽しいおやつなんかじゃなくて、拷問だっていうことが」

 またノックがはじまった。

 こつん、こつん、と音がリズムを持って繰り返されるごとに、四肢の痺れが強くなっていくのを、航治ははっきりと感じていた。

 航治は部屋の内鍵が全て閉まっているのを確認すると、眼を閉じ、再び布団の中に埋まり、ゆっくりと息を吐きながら、身体の周囲に「繭」の糸を、一本、また一本と巻きつかせはじめた。

「ねえ、聞いてる?」

 航治は糸をたぐり寄せながら返事をする。「聞いているよ」

 ノックが止み、また話がはじまった。

「席に着くときは、私はもう顔が真っ青になっているの。わかるのよ。自分でも。さあっと血の気がひいて、顔面が冷たくなっていくのが。もちろん母親にも見えているはずよ。でも、決して具合を訊いたり、店から出たりはしないの。そして、すました声でウエイトレスを呼んで注文するの。『チョコレート・バナナ・パフェを一つ』って。やがてデザート一品だけが、テーブルに運ばれてくる。母親は何も言わず、ただ、笑顔を浮かべて私のことを見ている。しばらく経った後、母親はこう言うの『さあ、お食べ』って」

 短い沈黙の後、また話がはじまる。

「私はね、無駄だって知りつつ一応訊くの。『お母さんは何も食べないの?』って。母親はこう答えるの。『いいのよ。お母さんはお腹すいていないし、それにここのメニュー、結構高いから』って。私はしかたなく食べはじめる。もちろん味なんてしない。だって、この先に交わされる言葉を、全部暗記しているから。『おいしい?』母親は訊くわ。ちっとも美味しくなんてないけど、私は頷いて、黙々と食べる」

 また沈黙。今度のは少し長めの。

 このまま終わってほしいという航治の願いと裏腹に、話は再開される。

「すると母親はあの言葉を言うの。『知ってる? このパフェにはね、お砂糖と脂肪以外に、大した栄養なんて入っていないのよ。要するに、食べても食べなくっても、身体に何の影響もないものなの。そんな無駄なものを食べるのは、贅沢以外のなにものでもないわよね?』。そしてまた笑顔を見せる。私はそれをしっかり見て、頷くの。下を向いたままでいると、叱られるから。母親は笑みを貼り付けたまま、言うの。『こんな贅沢をいくちゃんだけにあげる理由は、わかるわよね?』私は反射的に答える。何度も言わされて、すっかり憶えた台詞を。『お母さんが――あたしだけのことを、いつも好きでいてくれているから――』そして母親は、その日一番の、輝く笑みを浮かべて言うの。『その通りよ。郁ちゃん。また勉強、頑張ってね』って」

 ドアの向こうは、束の間、真空状態になったような無音になる。

 だがすぐにそれは、〈あいつ〉の刺々しい声によって破られた。

「あの、婆ぁ」

 完成しかけていた繭の中で、航治は身を堅くした。〈あいつ〉の言葉が矢継ぎ早に襲ってきた。

「航治! この役立たず。あなたはあたしと違って、幸せなのよ。あんな拷問を受けないでも、それどころか部屋の中に引きこもりきりでいても、きちんと栄養のバランスがとれた料理を、三食ドアの外に黙って置いてもらえるんだから。ねえ、そうでしょう? そう思わない? 聞こえてる? 航治」

 航治は大きめの声で、繭ごしに「うん」と言う。言わないと、どんなことになっていくか、知っていた。

 だが、航治の返事は〈あいつ〉に届かなかったようだった。〈あいつ〉は声を数段大きくし、恫喝するように言った。

「航治! 返事をしなさい! そこにいるんでしょう?」

 聞こえている、と答えたつもりだった。だが〈あいつ〉の声は止まなかった。

「航治!」

 叫びながら、〈あいつ〉はドアを激しく叩きはじめた。それにあわせ、繭の壁が、次々と剥落していく。繭は前後左右に、激しく揺さぶられていた。

 航治は叫びをあげた。

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