第5話 甲州街道

「こいつはな、折口おりくちっていうんだ。俺たちがテントをたたみ始めたのも、こいつがそうアドバイスしてくれたからなんだ。面倒見もいいし、きっとあんたを無事に荒川まで連れて行ってくれるから、な、な」。帽子男は言うと、ビニールシートを大事そうに抱きかかえ、走って行ってしまった。

 航治はなにも言わず背を向け、自転車を押して去ろうとした。が、後ろから男のしゃがれ声に呼び止められた。

「おおい、兄ちゃん、どうして一人で行っちまうんだ?」

「いいです。僕一人で行けますから」

「肝心の金がないっていう話じゃないか。俺と一緒だったら、金がなくてもあんたの行きたい場所まで行けるぞ」

 航治は立ち止まり、折口の姿を上から下まで眺めた。

 背は航治よりも頭一つくらい高い。帽子はなく、白髪頭を雨に濡らしている。上半身にはくたびれたワイシャツ。下は膝がてかてかになった茶色のコーデュロイ・パンツ。靴は泥はねの跡が目立つスニーカー。そしてそれら各アイテムのぼろさ加減を隠すように、汚れもほころびもない灰色のレインコートをまとっていた。

 航治は男に近づいた。男の汗ばんだ臭いがした。

 航治はしばらくのあいだ迷った後、肩を落とし、言った。

「わかりました。じゃあ、荒川まで連れて行ってください」


 折口に連れられ、航治は公園を出た。迷ったが、自転車は公園に繋いでいくことにした。

「新宿駅に行くんですか?」

 折口は横目で航治を見ると、にっこりと笑い、胃の辺りに手を置き、

「腹減っただろ。まずは飯食おうか」


 返事も聞かず、折口は歩き出した。航治も渋々後に付いて歩き出す。一体自分たち二人を、通行人たちはどう思っているのだろう。そう思うと、航治は恥ずかしさと怒りで、顔に血が集まるのを感じた。

 自分は何てことをしているのだろう。一刻も早く荒川にたどり着きたいのに、こんな奴と、こんな場所を二人で歩いていて。

 もしもこんな場面を〈あいつ〉が見たら、どんな剣幕で怒り出すだろう。無言で航治の腕を掴み、引きずって、家までタクシーで連れて帰るだろうか。車中では延々と、航治と、折口の身なりに対する罵倒の文句が語られて。

 そのとき、折口が振り返り、航治に訊ねてきた。

「なあ、それにしても兄ちゃん。どうしてこんな日に荒川の方になんか行きたいって言うんだ?」

 聞こえないふりをして黙っていると、また声がした。

「ははあ、さては女か? いいなあ、青春だなあ」

「違います」

「違うのかい。じゃあどうして?」

 航治は再び黙った。

「まあ、そんなに言いたくないっていうんなら、言わないでいいけどよ」折口はこたえた様子もなく、ひゃっひゃと笑った。


 連れられてきた場所は、甲州街道から一本外れた道沿いにある、ミニスーパーだった。折口はまったく憶することなく、入口横の通路からスーパーの裏手に入っていくと、清掃作業をしていたらしき四十代の店員に話しかけた。

「よう。今日も二十四時間やるのかい」

 無視するだろう、という航治の予想に反して、店員はいたって気さくな調子で話しはじめた。

「おお、あんたか。いや、こんな調子だからね。流石に夕方六時で閉めるらしいよ」

「そうか。それがいい。なにしろ今夜はでっかいのが直撃だからな」

「まったくだね」店員は屈託なく笑った。「ああ、そうそう。で、なんだい?いつものやつかい」

「うん。そうなんだ。悪いけどさ、頼むよ」

「いいって。お安いご用さ」そう言っていったん店内へ入ると、店員は「販売期限切れ・廃棄分」とマジックインキで書かれたスチールのゴミ箱を持って戻ってきた。そして底のほうから、黒ずんだ軍手でおにぎりを掴み取ると、「ほい」と、無造作に折口に手渡した。

 不潔さに唖然とするやら、恥ずかしいやらで、即刻その場から逃げ出したい衝動にかられていると、ふと気づいたように店員が航治の姿を認め、折口に言った。

「あれ? その子はどうしたの」

「ああ、ちょっとそこで出会ってさ。遠くまで送っていかなきゃならねぇ成行きになって」

「なんだい。ひょっとして家出少年ってやつか?」

「そうかもな。もしかしたら」

 そう言いつつ、おにぎりをポケットに押し込み、折口がげたげたと、また妙な音を立てて笑った。もういい加減に止めてくれ、と航治は叫び出しそうになる。

 そのときだった。折口がふいに笑うのをやめた。見ると折口は通路の出口に視線を向けていた。

 一人の少女が座り込んでいた。

 歳は航治と同じ、中二くらいだろうか。デニムのパンツに、白い――ただし今は泥によって無惨に汚れた――シャツブラウスを着て、頭から爪先まで、濡れそぼっていた。

 折口はそれを見て、「ふむ」と首を傾げてみせると、航治を連れて歩いていき、公園の鳩にでも話しかけるような軽い調子で声をかけた。

「おい、姉ちゃん。どうしたんだ。何かあったのか?」

 少女は顔を上げ、眼を細め折口のことを睨み付けると、言った。

「覗いてるんじゃねぇよ。服が透けてるのを」

 折口は少女の剣のある言葉にもめげず、にこやかに笑いつつ、

「いいや、覗いてなかったつもりだが、そう見えたなら悪かったよ。でもあんた、そんな恰好してて大丈夫か。風邪ひかないか?」とまた声をかけた。しかし今度は、少女は横を向き、無視を決め込んでいる。折口が再び声をかけた。

「ああ、なんなら、警察に連れて行ってやるか? そこの交番に馴染みの巡査がいるんだ」

 折口が言ったとたん、少女は立ちあがって背を向け、雨に打たれるのも厭わず歩きはじめた。追いかけ、またしても折口が声をかける。「おおい、ちょっと待ちなよ」

 だが少女は無視を決め込んだまま歩をゆるめず、甲州街道を新宿と反対方向へ歩いていく。

「どこ行くんだ? そっちは駅じゃねぇぞ?」

 少女は振り返りもせず、「付いて来るな。声を上げるぞ」と言い放った。

 折口が大声で呼びかけた。「あんた、ひょっとして電車賃持ってないんじゃねぇのか?」

 少女はやっと立ち止まり、振り向いて、刃物のように鋭い眼差しで折口を睨みつけた。折口はにこやかに笑み、

「俺たちがただで連れて行ってやるぞ。なんなら姉ちゃんの家にでも」

 折口は少女にそこで待っているよう告げると、ミニスーパーの裏口まで取って返し、ワンボックス車の荷台から小ぶりの段ボールを店に運び入れている男に声をかけた。男は慣れた調子で、挨拶で応じる。認めたくないが、どうもこの折口という男の人脈は、航治の想像を遙かに超えて広いらしい。

 三十代後半と思われるその男は、下はカーキ色のズボン。上には灰色の作業衣を着ていた。体つきは細く、顔は心持ち青白い。配送ドライバーなどよりも、役所の窓口に座っている方が似合いそうな外見だ。

 見ていると、何らかの話がまとまったらしく、折口が引き返してきて言った。

「おい、喜べ。あの運転手さんが俺たちのことを乗せていってくれるって言ってるぞ。もちろん兄ちゃん、あんたの行きたい荒川にもだ」

「えっ? 本当ですか?」

 思わず航治は訊ねた。ドライバーは鷹揚に頷きつつ、

「ああ、いいよ。今日はもう、小岩にある社に戻るだけだからね。乗せていってあげるよ」

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