第6話 新宿~広尾

「広尾。そこに家がある」と、少女は自らの目的地を折口に告げた。

「広尾? そりゃまた、いいところに住んでんなぁ」と折口は返したが、これは見事に無視された。

 折口は堪えた様子もなく、航治のほうを見ると、胸の前で手をすり合わせつつ、「まあ、そういうわけでさ、兄ちゃん。ちょっと荒川に行く前に、広尾の方に寄り道になっちまうけど、許してくれるかな? 荒川には、その後必ず連れて行くから。な?」と、懇願してみせた。

「それは、何分くらいの寄り道になるんですか?」

「さあ。道は混んでいないだろうから、存外かからないだろうけれどもな。そんなに気になるのか?」

 航治は折口の質問に無言で返した。折口は、

「どうやら相当急いでいるみたいだな。まあ、なるべく早く行くからさ、ちょっとだけだ。我慢してくれよ」

 と、屈託のない笑みを浮かべた。

 ワンボックス車は、前に二座席、後に三座席の五人乗りタイプで、側面には文具会社の社名とロゴが書かれてあった。折口が助手席に乗ったのにつづき、航治は少女とともに後部座席に乗り込む。

 合羽を脱いで眺めると、甲州街道での転倒のせいか、あちこちに破れ目ができていた。横を見ると少女は顔の滴をはらうこともなく無言で座り、頬杖をついて窓の外を眺めていた。長く見ていると文句をつけられそうなので、航治は早めに彼女から視線を逸らした。

 折口がドライバーに訊ねた。

「よう。途中で水がかぶってる道はないか? 大丈夫か?」

「危ないですね。何しろ一昨日、昨日と降って、今日もこれですから。行ってみなくちゃわからないでしょう。まあ、ともかくラジオを聞いて様子みながら走ってみます」

 男が車を発進させると、窓についた雨滴が、いっせいに斜めに流れ始めた。

 甲州街道に出ると、車たちが、車輪の両側と後方に向かって、水を高々と蹴立て走っていた。街並みに目をやると、商店の窓ガラスを雨水が激しく打ちつけているのが見えた。

 雨は激しさを増していた。

 スマートフォンを取り出し、天気情報を表示してみると、台風の進路を示した天気図の固定画面が映った。

 強い焦りが再び込み上げてきた。どうやら台風が進路を変える兆しはないらしい。なのに自分はこんな場所で、時間を無駄に食っている。あの男と、名も知らぬ少女のせいで。

 航治は車内を見渡した。少女は相変わらずだんまりで座っている。折口はドライバーとすっかり話し込んでいる。二人の会話以外に、聞こえるのは風雨の音のみだ。

 航治は決意した。「まゆ」をつくろう。この車中でなら、多分できるはずだ。

 眼を閉じ、イメージをはじめる。周囲が闇に包まれ、一本。また一本とすみやかに糸が身体をくるんでいくのを感じようとする。

 が、そこまでいったところで航治の試みは断たれた。突然、何者かが鼻で笑う音が耳に飛び込んできたのだ。一瞬にして身体を覆いかけていた糸が切れ、霧散する。

 航治は眼を開け、顔を上げた。少女がじっと航治のことを見つめていた。彼は自分を嘲笑った人物が誰なのかを知る。

 急激に身体が熱くなるのを感じた。いつのまにか、四肢があの痺れを持っていた。航治はそれを少女に悟られぬよう、慌てて膝を強く掴む。

 少女は航治からゆっくりと眼を逸らすと、また視線を窓外へやった。航治には彼女が眼を逸らした刹那、まるで蔑むように口の端を歪めてみせたように見えた。


 車は走る。

 航治の脚からは、次第に痺れが消えていきつつあった。ほっと息を吐いて膝から手を離す。

 少女はまだ外を向いたままだった。自分から話し出そうという気配は微塵も感じられない。

 航治は困惑していた。「繭づくり」にふけっているところと、その後の狼狽ぶりを、目撃されたことで。

 馬鹿馬鹿しい。何をこんなに戸惑っているのだ。「繭づくり」をしていることがバレてしまったわけでもないのに。航治は自分に言い聞かせ、前部座席に目をやった。そこでは折口がドライバーと、政府の税制案とそれに対する野党の代案という、およそ風体に似合わない会話を白熱させていた。

 航治は、しばし逡巡をした後、少女に声をかけた。

「あのさ、君」

 少女は物憂げに首を回し、航治を見た。どうやら自分が呼ばれたことをわかってもらえたようだ。航治は言葉を続ける。

「どうしてさ、あんな場所で座ってたの?」

 少女は無言だった。気まずさを振り払おうと、航治は言葉をつなげる。

「何かさ、大変な目にあったの?」

 少女は少しの間、航治の眼をみつめていたが、無言のまま、また視線を外へ向けた。

 どうやら会話は拒絶されたらしい。航治は諦め、口を噤んだ。たったこれだけのやりとりをしただけなのに、大きな疲労を感じていた。

 そのまま黙っていると、折口とドライバーの喋りの合間に、ごうごうという風の唸りと、雨が強く車の天井を叩く音が耳に入ってきた。

 航治はふと呟いた。

「――最初に砂塵がおそってきた」

 少しの間の後、少女の声が聞こえた。

「――ドナルト・メイトランドがそれに気づいたのは、ロンドン空港から、タクシーで帰宅するときだった」

 航治は驚き、少女を見た。彼女はちら、と航治の方を見ると、表情のない顔で「J・G・バラードの『狂風世界』」と言った。そしてまたすぐ無言になり、航治から顔を背けた。

 意外な反応に驚き、航治は再び話しかけた。

「君、バラード好きなの?」

「適当にね」素っ気なく少女は答えた。

 『狂風世界』の始まりの一節を正確にそらんじられるくらいだから、「適当」程度に好きとは言えないだろうに。ともかく航治はめげずに、「すごいじゃない。暗唱できるなんて」

「別にすごくないよ」

「他にバラードでは、どんなの読んだの?」

「全部」

「全部? もしかしてSFが好きなの?」

「適当に」

 また適当か。何だか自分自身が適当にあしらわれているようだ。まあ実際そうなのだろうが。それでも航治の中には、わずかだが安堵の気持ちが生まれていた。SF――それも六十年代のニュー・ウェーヴものなら自分も守備範囲とするところだ。航治はここにきて、ようやく相手との会話の手掛りをつかめたような感触を得ていた。

「じゃあさ、ええっと、バラードの、どの作品が好き?」

 エミは航治の方を見、目を合わせると、

「昔、友達って名乗る奴に本を貸した。そしたら、カバーも表紙もボロボロにされて、読まずに返された。それがあたしの一番好きだった本よ」

 そう言って、口を閉じた。再び沈黙がやってきた。

 どうやら会話の糸口は途切れてしまったようだ。航治は途方に暮れ、溜め息をついた。

 突然、少女が言った。

「あのさ、あんたさ」

「何?」

「溜め息なんてわざとらしくついてるけれどさ、そもそも他人に質問するんなら、まず自分のことを話すのが順序なんじゃないの?」

 航治は、折口が相変わらずドライバーと熱心に話し込んでいるのを見ると、息を吸い込み、自己紹介を始めようとした。

 が、そのとき少女が「待って」と声を発した。そして唇を意地悪そうに歪め、言った。

「あたしが推理してあげる。あんたがどういう奴か」

 少女は喋りはじめた。

「あんたはね、引きこもりよ。昔のあんたは、とっても親に忠実な子供だった。例えば外に連れて行かれて、『いい子だから、ここでちょっと待ってなさい』って親に言われたら、二時間でも三時間でも、文句も言わず突っ立って待っているような子だったの。学校では優等生。親にとっては自慢の息子よ。でも、中学になった頃、第二次性徴期に入ったあんたの身体に、原因不明の変化が訪れたの。変化っていうのはね。臭い。体臭よ。あんたの首の周りから、腐ったドブの臭いのような、強烈な臭いが出てきたの。それはいくら洗っても、香水を使っても、消すことができないの。あんたは学校で壮絶に虐められるようになった。家族たちは最初のうち、我慢しようとしたの。でも駄目だった。ある日食事音が聞こえたあんたは、居間に入っていった。で、そこであんたは驚いた。そこにあんたの席はなかった。親があんたを疎むあまり、あんたの席を食卓から片付けちゃったのよ。で、あんたは引きこもるようになった。自分で自分の臭いに、ごほごほむせ返りながら」

「ひとつ質問があるんだけど」

「何? なんでも聞いてごらんなさい」

「そんな酷い臭いがあるのに、どうして君は僕と隣り合わせに座って話せてるの?」

 少女は馬鹿にしたように航治を一瞥すると、「実はあんたのその臭いは、あんたも知らない間に、消え失せてたの。変声期が終わるのと同じ頃にね。でもあんたや、あんたの周囲の人間は、いつまでもその臭いを感じているの。もしかして脳自体に染みついちゃってるのかもしれないわね」

「ひどい理屈だ」不愉快な気持ちをこらえつつ、航治は言った。「君さ、ずいぶん意地悪な想像力があるんだね。作家でも目指してるの?」

「別に」少女は短く答えた。

「君の言ったことには、当たっている部分もあった。でもそんな妙な臭いの病気になったことはないよ。僕は初台の公立中の二年生。兄弟はいなくて、親と三人暮らし。学校に友達はいない。一年生のときに虐めに遭ってから、学校に行かなくなった。もちろん『変な臭い』なんかが原因じゃないよ。でもまあともかく、今は引きこもりの身さ」

「なるほどね」エミが言った。「ご丁寧にどうも。でも要約するとあんたは、あたしの言ったとおり、虐められっ子で引きこもりだったわけね」

「まあ、そうだけど」

「きもい」

 航治は傷ついて、

「もしかして君は、虐めっ子なの?」

「よしてよ」

 少女は肩をすくめた。

「あたしをあんな、想像力と共感性を欠いたサディストたちと一緒にしないで」

「でも、虐められっ子も嫌いなんだね」

「虐めっ子と同じくらいにはね」

「どうして? どんなところがさ」

「嫌だ嫌だって思いながら、何も行動しない、できない。そうしてその嫌な学校に毎日ご苦労にも登校してくる。そして心の中でだけ虐めっ子に憎悪をふくらませる。そういうのの全部が嫌いなのよ」

「僕は憎悪なんてふくらませないし、学校へも行かないよ」

「そう。それで引きこもったのね」

「引きこもりも嫌いなの?」

「この世で二番目にね。一番目は虐めっ子と虐められっ子」そしてまたそっぽを向いた。航治も外を見る。今度は溜め息は、心の中だけでついた。

 外は土砂降りだった。水は路肩近くに溜まり、渦を巻いて排水口へ流れ込んでいた。道を行く人は少なかった。果敢に傘をさし、歩いている人もいたが、雨の勢いに比して、その小さな覆いはあまりに無力なように航治には思えた。

 車が一時停止したときに信号の上を見ると、「南青山三丁目」という表示が見えた。どうやらいつの間にか港区に入ったようだった

 少女が思い出したように口を開いた。

「で、結局あんた、なんで虐められるようになったの?」

「それは」航治は言いよどんだ。

「どうしたの。勇気がなくって言えないの?それともあたしの推理どおり、変な臭いのせいだったの?」少女が挑発するように言った。

「違うよ。理由は別に、言えなくはないさ」

「なら言ってごらんなさいよ」

 航治はぐっと奥歯を噛み締めた後、話しはじめた。

「僕には、ちょっと変わった癖があるんだ。状態としては、白日夢に似てるかな。過去の印象を基にした、現実そっくりのビジョンが、突然、こっちの都合お構いなしに頭の中に降りてきて、また唐突に消えるんだ」

「何。『フラッシュバック』とか『乖離(かいり)』っていうやつ?」

「そうかもしれないね。ともかく、僕は小さい頃からときどき、そういう状態になるんだ。避ける方法はまったくない。昔はこの現象は、誰にでも起きるものだと思ってた。でも小学校に入った頃から、違っていることに気づいた。これが他の普通の人々にとっては、かなりまれな、それか一生通じてまったく経験することのない、妙ちきりんな『症状』であることだって」

「病院には行かなかったの」

「行ったことないよ」

 航治は首を振った。

「親にも相談したことない」

「どうしてさ」

「怖かったんだよ。もし、医者から正式に『病気』だって宣告されて、それが広まったら、周りから、『頭の変な奴』っていうレッテルを貼られちゃうかもしれないだろう?」

 そして〈あいつ〉は、ますます僕のやることなすことに干渉するようになっただろう。弱くて可哀相な、大切な航治。そう言って。

「なるほどね。あんたはそれを隠し通そうとして生きてきた。でもそれは結局、バレた」

「そういうことになるね」

「どうやってバレたの」

 航治は自嘲的に答えた。

「朝礼の最中にひっくり返ったんだ。白眼を剥いて、うわごとまで口走った。多分誰も、僕に何が起こったか、正確には把握してなかったと思う。どっちでも同じことさ。僕は皆とは悪い意味で違う存在なことがバレた。それ以来、僕のあだ名は『ゆで卵』。白眼と似ているからつけられたらしい。そして、それから虐めがはじまった」

「で、あんたは学校へ行かなくなって、部屋に引きこもった」

「そう」

 少女は、へええ、なるほどね、と言って頷いてみせた。

「で、あんた。毎日部屋に引きこもって、何して過ごしてるの?」

「別に。本を読んだりとか、ゲームしたりとか、ネットを覗いたりとか」

「へえ。で、そのネットで自分が嫌いな奴の悪口書いたり、気に食わないニュースのスレッドに周りを挑発するような文句書いて、毒吐きまくったり?」

「そんなことしないよ」航治は少し怒って言った。

「じゃあ何してるのよ」

「僕は、色々なサイトを見てまわるんだ。そして色々な人たちの考えを読む」

「で、他人を見下す」

「あのさ」航治はげっそりとしつつ、「どうしてそうやってなんでもかんでもネガティブな方向へ持っていこうとするんだよ」

「憎いからよ」

「僕のことが?」

 少女は口の端をゆがめ、言った。

「この馬鹿みたいな世界全体がよ。いい気味だわ。全部風になぎ倒されて、雨に沈んじゃえばいいのよ」

「バラードの小説みたいに?」

「そうかもね」

「どうしてそんなに苛立っているの」

「別に。苛立ってないわよ」

「そんなことない。苛立ってるよ。ていうか、さっきはさ、どうしてあんな場所に座ってたの?」

「喧嘩したのよ。馬鹿連中と」そして思い出したように、付け加えた「でも勘違いしないでよ。あんたみたいな虐められっ子とは違うんだから」

「わかったよ。君が僕とは全然違うのは」

 航治は疲労を感じながら言った。

「じゃあ、今度は君が自己紹介してよ。僕はもう自分のことを説明したよ。今度はそっちの番でしょ?」

 だが少女は答えなかった。相変わらず横顔を向けたまま黙っていた。

「あのさ、聞こえてる?」と、航治がもう一度訊ねようとしたとき、少女はドライバーに向かって声を張り上げた。

「すみません! 広尾はまだですか」

「ああ、そうだね。もうすぐ地下鉄の駅の辺りだよ」

 少女は航治の方を向くと、意地の悪そうな口ぶりで、

「残念でした。時間切れ」

 と言った。


 やがて少女は「ここでいいです。もう家はすぐ近くだから」と運転手に言って、車を停めさせた。数十メートルほど先に、地下鉄日比谷線・広尾駅の入口が見えた。

 雨の勢いは、雨滴が落ちてあげる飛沫によって、路面が白色を帯びて見えるほどに強くなっていた。

「そういえばさ」

 車から降り際、少女は振り返って言った。

「あんたさっきさ、膝掴んで、ぶるぶる痺れたみたいに手足震わせてたでしょ。どうして身体があんなふうになったか、わかる?」

 感電したように身体を固める航治に向かって、少女はつづけた。

「わからない? いいわ。じゃああたしが説明してあげる。あれはね、あんたの変な精神統一だかなんだかを邪魔したあげく、薄ら笑い浮かべながら眺めてた、このあたしへの、あんたの怒りのあらわれなのよ」

 少女はひとり喋り続ける。

「抑圧っていうのよ。そういうの。自分の負の感情を見るのが嫌だから、無理に意識下にねじ伏せちゃうのね。それが身体の状態の変化になってあらわれるってわけ。あんた、もしかして今はじめて気づいた? ならとっても滑稽だね。可哀相。何しろ自分の怒りの対象が間近にいたっていうのに。自分が怯えているのか、怒っているのかも、ずっと気づけずにいたんだから。まあ、そんな調子なら、学校で虐められるのも納得よ」

 少女は言い捨てると車を降り、商店の庇(ひさし)の下に素早く身をすべらせた。後から続いて降りた折口とドライバーの前で、「ありがとうございました」と、予想外の礼儀正しさで頭を下げ、駅の方角へ去っていこうとした。

 そのとき、ドライバーの男が「ねえ、君」と声を発した。

 立ち止まり、振り向いた少女に向かって、彼はゆっくりと言った。

「君、嘘をついているね」

 はっとしたような表情を浮かべた少女に、男は続けた。

「どこへ行くつもりか知らないけれど、ここの近くに君の家なんてない。違うかい?」

 航治は少女の表情が、驚きから瞬時に警戒へと変わるのを見た。

「さっきさ、広尾はまだですかって訊いたろう? 変じゃないか。自分が住んでいる場所に向かっているはずなのに、そんなこともわからないなんて。それに僕はさ、雰囲気でわかるんだよ。僕も中学の頃に、何回か家出をしようとしたことがあったからさ」

 少女は今にも噛みつきそうな目つきになり言った。

「あんたには関係ないことでしょ」

 そして車に乗ったままの航治のほうを向くと、

「さようなら。小心者の、何もできない能なしの引きこもりさん」

 少女は豪雨の中へと駆け出した。

「待てよ!」

 思わず叫ぶと、航治は車から降り、走り出していた。

 少女は脱兎の勢いで水しぶきを盛大に蹴たてつつ走っていくと、地下鉄の入口を通りすぎたところで角を左に曲った。見失うものか、と航治もやっきになってその後を追う。

 少女はカフェやブティックが並ぶ通りを一直線に走っていき、突き当たりでまた左に折れた。眼前にやって来たバスをものともせず、進路を横切って交差点を斜めに渡ると、大きな公園らしき場所へと入っていった。

 バスをやりすごして交差点を渡ると、航治も雨風吹きすさぶ公園へと入った。前を見ると少女は、丘のように盛り上がった公園の奥に向かって、なだらかな階段を一足飛びに駆けのぼっていくところだった。航治はすぐさま全力で追いかける。

 少女は雨水が流れ落ちる階段を、足を滑らせもせずに頂上までのぼりきると、池のように一面に水を溜めた大きな広場を横切って、その先の小径へ入っていった。泥水にくるぶしを濡らしながら、航治もその後につづく。

 少女は小径に入ってまもなく、左手にある数段の階段を一息にまたいでのぼった。そして並び立つ何かの掲示板のようなものの陰に、素速く回り込んだ。

 彼女を追って掲示板群の向こうへ回った航治は、そこで急ブレーキを踏むようにして足を止めた。

 少女が大きな建物のガラス扉の前に、茫然と立ち尽くしていた。

 航治はガラス扉の向こうを透かし見る。そこには「本日台風十四号接近のため閉館」と大きく書かれた紙が貼られた立て札があった。扉の上に目をやると、そこには「東京都立中央図書館」の文字があった。

 航治は荒い息を吐きつつ、精一杯の皮肉を込め、少女の背中に言い放った。

「変わった場所を隠れ家にしてるんだね。この図書館には、ねぐらもあるの?」

 少女が振り返り、叫んだ。

「うるさい! どうしてあんたが付いてきてるんだよ。帰れ!」

 航治は思わず少女に近寄り、腕を掴むと、

「僕は何もできない奴なんかじゃない。怒ることだってもちろんできるんだ。勝手に人のことを決めつけるなよ。今度は君についてのことを話してもらうから」

「さわるな! 能なし!」

 少女がもう一度「その言葉」を叫んだとき、航治の脳裏に醜く歪められた〈あいつ〉の顔が浮かんだ。同時に水しぶきとともに何かが飛んできて、航治の頬を激しく打った。

 航治は一瞬何が起こったのかわからずに呆然としていた。だが、たった今の平手打ちが少女によるものだと理解した瞬間、無意識のうちに両腕を前に出し、少女の身体を思いきり突き飛ばしていた。

 大きな音とともに、水飛沫が立った。少女が航治の足下で、ひときわ大きく眼を見開き、尻もちをついていた。少しの間の後、少女は悲鳴をあげて立ちあがると、再び航治の顔に向けて腕を大きく振り上げた。

 そのとき、「やめろ、二人とも!」という声が響いた。

 折口だった。折口が少女の腕を力強く掴んでいた。

「驚いたな、兄ちゃん。この跳ねっ返りの姉ちゃんはともかく、あんたもこんなに元気だったとは思わなかったよ」

 少女は物凄まじい形相で航治を睨み付けていたが、思いきり顔を歪めて視線を逸らすと、がくりと頭をたれ、動かなくなった。

 空ではどうどうと音をたてて風が渦を巻き、地上では、重たい雨粒が間断なく三人の頭と肩を打ち続けていた。

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